日曜閑話81-7

今日は邪馬台国の制度の推理から本論に戻るつもりです。


卑狗と卑奴母離

魏志倭人伝には、

国名 官名紹介 戸数 王の記載
對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 なし なし
一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 なし なし
末廬國 なし 四千餘戸 なし
伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 千餘戸 丗有王 皆統屬女王國
奴國 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 二萬餘戸 なし
不彌國 官曰多模 副曰卑奴母離 千餘家 なし
投馬國 官曰彌彌 副曰彌彌那利 五萬餘戸 なし
邪馬壹國 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 七萬餘戸 女王之所都
狗奴國 其官有狗古智卑狗 なし 男子爲王
こうなっています。これから卑弥呼の時代の王はこの3人だけの見解を取られる方もおられます。私も最初はそう考えていたのですが、ちょっと違う気がしています。ポイントは魏志倭人伝の伊都国の紹介にある、

丗有王 皆統屬女王國

これを

    (伊都国には)世王有るも皆、女王国に統属す
こう読み下すと伊都国王の話になります。これが同じ個所の魏略では、

其国王皆屬王女也

伊都国に到るまでには對馬國、一支國、末廬国を経てるのですが、「其国王皆」は伊都国も含めて王女(女王)に属していると読む方が正しい気がします。そういう目で見ると魏志倭人伝の解釈も

    (それぞれの国には)世王有るも皆、女王国に統属す
こう取る方が正しい気がしています。狗奴国はともかく伊都国しか王がいないのであれば、王がいない国々は邪馬台国から派遣された行政官の支配下にあるとの解釈が出てきます。律令制時代の河内守とか、播磨守の世界です。そこまで強大かつ精緻な体制を敷いているとはチト思えないからです。あるとしたらもっと緩やかな連合体です。国々に王がおり、国の独立性を認めながら盟主として邪馬台国を立てるぐらいの感じです。後世であえて喩えるなら源平時代の源氏みたいなものを想定します。源氏は武家の棟梁として武士に君臨していましたが、武士はそれぞれ自作農で独立しており、あくまでも盟主と言うか棟梁としてこれに従っているイメージです。


さてですが、

卑奴母離

これが良く出てきます。これは「卑奴母離 = ヒナモリ = 鄙守」で議論が少ないところですが、

其大官曰卑狗 副曰卑奴母離

こう並んだ時に、大官の副官に卑奴母離がいると読まない気がします。私の解釈としては、

    その大官は卑狗と曰う、副えて卑奴母離とも曰う
こう読むんじゃないだろうかです。つまり二つの地位を説明しているんじゃなかろうかと思います。ここで卑狗なんですが魏志倭人伝に3回出てきます。

  • 至對馬國 其大官曰卑狗
  • 至一大國 官亦曰卑狗
  • 其南有狗奴國 男子爲王 其官有狗古智卑狗

卑狗の読みなんですが「ヒコ」と読む事が可能でこれは「日子」と解釈すべきの意見があります。狗奴国王で考えると「狗古智 + 卑狗」の構成になっていると推測します。つまり卑狗とは名前に付ける尊称みたいなもので、これを付ける事により身分を現すものぐらいです。後世で言えば位階みたいなもので、従三位とかのようなものです。で、卑奴母離は官職を現す感じです。大納言とか、右大臣とかです。對馬國でも、一大國でも身分名の「卑狗」しか名乗らなかった可能性を考えています。たとえば、

    自分は卑狗であり、卑奴母離である。
こういう感じです。そういう位階と官職を邪馬台国から授けられていると推測しています。従って
    王 = 卑狗 = 卑奴母離
こうなるわけです。これの傍証としては邪馬台国の閣僚紹介にあります。

官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮

「副」ではなく「次」が用いられています。筆頭家老、次席家老みたいなものでしょうか。そう考えて魏志倭人伝の紹介を整理すると

国名 位階 官職
對馬國 卑狗 卑奴母離
一大國 卑狗 卑奴母離
伊都國 爾支 泄謨觚、柄渠觚
奴國 兕馬觚 卑奴母離
不彌國 多模 卑奴母離
投馬國 彌彌 彌彌那利
こんな感じです。


一大率

原文を見ながらどこまでが一大率について書かれているのがチト判断に悩むのですが、

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史  王遣使詣京都 帶方郡 諸韓國 及郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遣之物詣女王 不得差錯

「王遣使詣京都」以下の外交部門が一大率の職掌なのかどうか悩むのですが、伊都国には魏使のための施設があるのは確実と見ています。「皆臨津捜露」の津とは末廬国ではなく伊都国であると私は解釈したいところです。伊都国に一大率がいるわけですから、やはり職掌に含むと見ています。つまりは外務大臣的な役割も担っていると推測します。魏使との接触も多いことから魏志倭人伝でも特筆されていると考えます。また「檢察諸國畏憚之」となっていますので、軍事・治安部門にも大きな権限を有しているのも間違いありません。ここで「於國中有如刺史」の刺史ですがwikipediaより、

魏晋では刺史となった(ただし、魏初には曹休、夏侯尚のように州牧位に就いた者もいる)。この時代には、刺史が将軍位を持って兵権の行使も行うことがほとんどとなり、「領兵刺史」と呼ばれた。

もともと刺史は純粋な監察官的な役目でしたが、後漢末期より治所(単純には所領)を持ち行政官として支配権を確立するようになっています。さらに魏になると兵権を持つようになっていますから、一大率もそれに近い状態であったと考えています。一大率の治所は伊都国と明記されていますが、巡察範囲は「自女王國以北」となっています。具体的には、

自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳 次有斯馬國 次有已百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國  次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國  次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有爲吾國 次有鬼奴國  次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國  此女王境界所盡

これらの国々の事を指すと考えるのが妥当です。意としては北方辺境国ぐらいの意味合いでしょうか。辺境国と言うか比較的最近に邪馬台国の勢力圏に組み込まれた国々の感じがします。それだけでなく北方にはさらに勢力拡張を行っていたとも考えて良い気がします。さらに言えば一大率はこれらの国々からのある種の徴税権を持っていたとも考えます。そうでないと伊都国の負担は莫大過ぎるからです。伊都国が受け持っている部門は、

  1. 外国使節の接待役
  2. 外務省的な機能
  3. 北方諸国の統制と勢力拡張
これを全部持ち出しでやるのは酷すぎると思うからです。軍事行動も負担が大きいですが、魏使の接待の負担もバカになりません。それらの負担の財源として北方諸国は一大率の支配下に置かれていたと考えるのが自然です。もう少し邪馬台国の近隣情勢を考えると、南方には狗奴国がいます。狗奴国とは抗争が繰り返されていると明記されています。南方に一大率が置かれていないのは、南方戦線は邪馬台国が直接担当しているからと考えるのが妥当と思います。つまり、
    北方戦線・・・伊都国の一大率が担当(北方への勢力拡張)
    南方戦線・・・邪馬台国が担当(対狗奴国戦)
こんな感じです。さて問題は誰が一大率であるかです。今日の仮説に従えば伊都王は爾支と言う位階を持ち、泄謨觚・柄渠觚の官職を兼ねていると読む事になります。その上で一大率も兼ねているとして良いのかどうかです。やはり兼ねている必要があると思います。そうでなければ伊都国には王の他に、王さえ凌ぐ権限を持つ一大率が君臨してしまうからです。


伊都国

邪馬台国の国々の中でも格付けは確実にあった気がします。連合体ではあるのですが、早くから同盟を結び邪馬台国と対等に近い国々と、あとから征服・服従した国々です。そのうち早くから同盟を結んでいた国々の間には何が行われていたかです。大した話ではなく同盟強化のための婚姻政策です。もう一つ国と言う形態になると支配者階級の固定化が進みます。貴族階級としても良いですが、彼らは彼らだけで婚姻を行おうとします。邪馬台国同盟の総人口は3万人ぐらいが関の山と推測していますが、その中の貴族階級は千人もいるのでしょうか。限られた貴族階級が婚姻を行えば「みんな親戚」状態に短期間でなります。国々にも王家(首長家)が成立していると考えるのが自然ですが、王家の跡取りに他家の息子が養子で入るケースもあり得ると思っています。必ずしも平和的なものじゃないかもしれませんが、それでも血縁をたぐると親戚だから渋々納得みたいな状態です。

伊都国王が一大率と仮定した時に問題なのは、その権限の大きさです。邪馬台国の北半分の王みたいな状態になるからです。そういう大きな権限を任せられる人間は、邪馬台国側から見てよほど信頼の置ける人物の必要があります。信用の基準は才能や人物もあるでしょうが、やはり卑弥呼に出来るだけ近い血縁が大きな基準になる気がします。卑弥呼の濃い血縁者として魏志倭人伝に記されているのは、

有男弟佐治國

つまり兄弟がいると言う事です。ただこの男弟が伊都国王かと言われれば疑問です。男弟は邪馬台国にあって南方戦線を担当していると考えるのが妥当と考えます。でもって弟は1人と限らない訳です。他の男弟が伊都国王になり一大率として北方に君臨している可能性が高いと考えています。


卑弥呼の死後

卑弥呼の死に際し何が起こったかですが、

更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人

要は後継者戦争が起こった訳ですが、卑弥呼には子がなかったと明記(無夫壻)されています。卑弥呼を仮に長女と考えると当時の慣習として兄弟継承が妥当です。伊都国王も卑弥呼の弟と仮定していますから、有力候補者は2人で、北方戦線担当の伊都王と南方戦線担当の男弟になります。この2人が卑弥呼後継を争ったと見ます。

この仮説の難点は魏使が後継者戦争の時にどこにいたかなんです。魏使は基本的に伊都国にいます。どうも公用も伊都国で済ませていた気配が十分にあります。魏使が伊都国にいる状態で後継者戦争が起これば魏使は伊都国側に居る事になってしまいます。そういう状況はあまり嬉しくありません。そこで一つ考えられるのは卑弥呼の葬儀に参列するために邪馬台国に出向いた可能性です。邪馬台国に取って魏は大切な国ですし、魏に取っても邪馬台国はそれなりに重視している国です。正式の魏使(郡使)が卑弥呼の葬儀に参列するのは双方にとって win-win と思えます。魏使が邪馬台国に出向いていた傍証があります。

政等以檄告喻壹與

これは魏使が直接壱与に会っていた事を示すと考えます。こうやって魏使が邪馬台国に出向いている時期に伊都国王が卑弥呼の後継に名乗りを挙げたぐらいをまず考えます。


ここはもう少し捻っても良いところで、葬儀の時に伊都国王がどこにいたかがあります。葬儀となれば伊都国王も当然参列しないといけない訳です。伊都国内に伊都王が居れば魏使と共に邪馬台国に向かわないと不自然になります。そうなると伊都国王は伊都国にいなかった可能性が出てきます。ほいじゃ、どこにになりますが北方戦線にいたんじゃなかろうかです。つまり葬儀の場にすぐに駆けつけられる状況ではなかったぐらいです。卑弥呼が死ねば後継者問題は浮上し、有力候補者は男弟か伊都国王になるのは必至です。男弟の方が本国にいる訳で有利と考えて、先手を打って後継者に北方で名乗りを挙げたぐらいの状況を推測します。つまり後継者戦争の実相は、

    男弟 vs 伊都国王
この状況で不利と判断したのは案外男弟だったかもしれません。男弟が受け持つ南方戦線には宿敵狗奴国がいます。南方戦線の兵力を伊都国王との決戦にフルに動員できないからです。そこで妥協策を考えたと思います。男弟も伊都国王も後継者になる事をあきらめて第三者を後継者に立てる案です。この案の裏書きに重要な役割を果たしたのが魏使の可能性があります。魏使が壱与を後継者として承認すれば異論が鎮まりやすいぐらいのところです。


神武

今週は魏志倭人伝をムックしていましたが目的は

    伊都国王 = 神武
これの可能性の模索です。畿内弥生時代から古墳時代への変化には何かのインパクトが必要です。そのためには年代が特定されている卑弥呼の時代、3世紀半ばに北九州から有力武力集団が畿内に上陸する必要があります。その集団が畿内の情勢を塗り替えて4世紀に始まると検証した古墳時代の幕を開くぐらいです。塗り替えた文化的な影響は銅鐸教から鏡教への変化として確認されています。また銅鐸教を広げたのは、神武の前に東征を行った饒速日命の子孫によるものと考えるところまでは漕ぎ着けました。

ここで「伊都国王 = 一大率 = 男王 = 神武」と考えると都合の良い事が幾つかあります。卑弥呼後継者戦争魏志倭人伝には「更相誅殺 當時殺千餘人」となっていますが、もっと小競り合い程度で終わったと考えています。つまり男弟の妥協策に魏使の仲裁まで入ったので、伊都国王は勢力を保持したままで鉾を引込めたぐらいを考えています。ただ面白くないのは確かです。邪馬台国の体制は卑弥呼から壱与に女王が変わっただけで、実権はそのまま男弟が握る体制に変わりはないからです。壱与は13歳ですから、伊都国王はこのままでは死ぬまで一大率止まりです。そこで北方軍団を率いて畿内遠征を行ったぐらいのストーリーです。これなら有力軍団が畿内に出現します。

神武の描写も興味深くてwikipediaからですが、

  • 神武天皇は即位前は神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)といい、彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の四男(または三男)である。
  • 日本書紀』によると、甲寅の歳、45歳のとき日向国の地高千穂宮にあった磐余彦は

まず神武は長子でなかった事がわかります。次に東征を決意した時期が45歳であるともなっています。今日の仮説の卑弥呼の兄弟であり、卑弥呼の死後に後継者戦争を行った後に東征を行ったと考えれば、45歳は妥当な歳になります。鏡教を畿内に持ち込める地位にもいます。伊都国王は外交を担当していましたし、北方鎮圧の道具として銅鏡を使っていたと考えても不思議ない訳です。財力的にも邪馬台国の北半分を支配していた訳ですから十分と考えます。壱与側にしても厄介な伊都国王が畿内に行ってくれるなら喜んで後押ししたかもしれません。

これぐらいが限界ですねぇ。