日曜閑話81-6

邪馬台国の続きです。今日は戸数から考えるです。魏略倭伝逸文には

從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國七十里。始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。南度海、至一支國。置官与對同。地方三百里。又度海千餘里、至末廬國。人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。其国王皆屬王女也。

ここで国の戸数が記載されているのは伊都国の「戸万餘」だけです。これが魏志倭人伝になると

国名 戸数
對馬國 有千餘戸
一大國 有三千許家
末廬國 有四千餘戸
伊都國 有千餘戸
奴国 有二萬餘戸
不彌國 有千餘家
投馬國 可五萬餘戸
邪馬壹國 可七萬餘戸
陳寿が魏略を参考にしたとされますが、国々の戸数情報は別のソースから拾い上げた事になります。それもどうも2系統から参照した可能性がありそうです。理由は単純で表現として「戸」と「家」の2種類が混在するからです。戸なり家からの人口推測は色々ありますが、だいたい4〜5人程度として良さそうです。でもって戸数はどう考えても過剰です。たとえば邪馬台国の7万戸は30万人ぐらいの規模になります。弥生時代の推定人口の半分ぐらいが邪馬台国に住んでいる事になってしまうからです。ちなみに邪馬台国と投馬國を合わせると50〜60万人になり全人口に匹敵してしまいます。つまりは表現に誇張があると言う事です。

現在確認されている弥生時代の大集落は衛星集落を含めて吉野ヶ里で4000〜5000人程度、唐古・鍵で1500〜2000人程度されますから、吉野ヶ里や唐子・鍵程度でもほんの小集落程度になってしまいます。吉野ヶ里、唐古・鍵から考えて当時の国の人口は1000人もいれば大国で、500人かそれ以下と考えるのが妥当と考えています。邪馬台国には30ヶ国ぐらいが属していると見られますが、全部合わせても3万人いるかどうかぐらいが私の推測です。そこから考えると最低1桁は落とさないと無理があります。

一桁落としても邪馬台国だけで3万人程度になります。ここは強引ですが邪馬台国に属している国々の総人口と解釈します。しかし、これでもかなり過剰な印象があります。陳寿はもちろんの事、魏使も戸数を実際に数えた訳ではないはずです。つまりは聞き書きと考えるのが妥当です。そういう時に誰だって多目に言いたがるものです。下手すりゃ倍以上を言ってもおかしくありません。実際の戸数は確認しようがありませんが、とりあえず7掛けぐらいで考えると邪馬台国に属する国々の総人口は2万人程度になります。

ただ魏使が実際に数えた可能性のある国が一つあります。伊都国です。これまでの推測から魏使は訪問中は伊都国に滞在した可能性は高いと考えます。でもって伊都国はかなりの規模の国であったはずです。理由は、

自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史

一大率について特筆されています。非常に大きな権限をもった役職である様子が窺えます。この一大率は伊都国にいると明記されています。魏使も伊都国に滞在している訳ですから、何度か会い、またその威風を目にしていたとするのが妥当です。つまりは実際の見聞録になります。一大率の力の源泉は軍事力と見て良く、その軍事力は伊都国から出てくると考えます。同盟国の間に諍いが生じれば、伊都国の軍事力を背景に仲裁に入るぐらいのイメージでしょうか。その伊都国の戸数が「千餘戸」です。7掛けで700戸と見て3000人程度ですが、3000人は当時からしたら大国です。千戸が実数なら吉野ヶ里に匹敵する大国になります。ただ千戸が実数に近い可能性はあります。魏略の伊都国の戸数は「戸万餘」です。なおかつ伊都国だけ戸数が記載されています。1桁誇張していると見れば千戸になります。こういう大国を根拠地にしていたので「檢察諸國畏憚之」状態になると考えても良い気がします。

問題は奴国と投馬國です。まあ投馬國はかなり遠方の国の話なので置いとくとして、奴国は伊都国の「東南至奴國百里」つまりは4kmちょっとぐらいしか離れていません。そこが2万戸はチト多すぎる気がします。1桁落として7掛けでも700戸になり伊都国に匹敵する大国になります。ここまでの推測から伊都国と邪馬台国(女王国)はかなり近いと考えています。伊都国は邪馬台国でないのは魏志倭人伝から明らかです。ひょっとすると伊都国に隣接する奴国が邪馬台国の可能性もある気がします。

奴国が邪馬台国と別と明記されているので奴国自体が邪馬台国でないのは明らかですが、邪馬台国の直属領ぐらいの見方です。そうでも考えないと伊都国の位置づけが怪しくなります。ここはもう少し考えを広げて、奴国が邪馬台国の母体であるぐらいは考えても良い気がします。卑弥呼の政治形態は

名曰卑彌呼  事鬼道 能惑衆 年已長大 無夫壻 有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者

卑弥呼は女王ではありますが直接政治を行ったと言うより統合の象徴として君臨したと見て良い気がします。で、実際の政治は男弟がやっていた訳です。どういう事を考えているかと言うと、邪馬台国同盟の成立は奴国が中心であったと見たいのです。ただ奴国の覇権主義では限界があり、統合の象徴として卑弥呼を立てる事でなんとかまとまったぐらいの状態です。卑弥呼が女王になるにあたり、奴国とは別のところに卑弥呼の宮殿を作ったんじゃなかろうかです。これが邪馬台国です。

ほいじゃ男弟はどこにいたかですが、奴国の王として実際の国政を取り仕切ったぐらいです。魏使は男弟(= 奴国王)を邪馬台国(= 倭)の摂政ぐらいにみなし、卑弥呼でなく男弟と交渉する事で外交としていたぐらいです。だから魏使は奴国の隣の伊都国に滞在し、奴国の男弟と外交交渉を行っていたぐらいの見方です。だから奴国は大きいのではないかです。