日曜閑話81-5

邪馬台国の続きです。


北九州の地形

私は博多は通った事はありますが観光なりに行った事がありません。ですから土地勘がまったくないのが辛いところです。そこで地形図を見てみます。

これは現在の地形図です。参考になるように一大国、末廬国、伊都国、奴国、吉野ヶ里の位置と魏使の推測進路を記入しています。魏使は壱岐から南下して唐津湾に入ったと見て良さそうです。この辺りは川も流れ平地も開け稲作適地と見ても良さそうです。ここで船を下りた魏使は海岸沿いを進み伊都国に向かったのでしょう。糸島半島の付け根あたりは川も流れ平野部もありそうですから、ここに設けられた迎賓館に入ったと考えます。奴国の位置は那珂川が流れる谷間辺りを推測しています。

北九州全体の地形図を見てみると、中小河川が流れるところが割とあり、その谷間に人が住みついたと考えます。とくに博多湾には多そうな感じで、博多湾に注ぐ川の谷間に人が住み、国を形成していたのではないかと推測します。稲作適地そうなところと言えば宗像市遠賀川流域もそんな感じがします。この博多湾から東南方向に山に迫られたやや狭い地形を形作っているところがあります。そのあたりが大宰府になります。この大宰府付近から西南西に向かい筑紫平野が広がり、やがて有明海に至ります。筑紫平野にも吉野ヶ里遺跡があり、この地方も弥生時代にはかなり開発が進み、ムラからクニに発展した集落が点在していたと推測されます。とりあえずの南限は熊本平野ぐらいまででしょうか。

でもって当時の国の規模は吉野ヶ里でも衛星集落を含めてせいぜい5000人、唐古・鍵で2000人程度ともされています。魏志倭人伝にはたくさんの国の名前が残されていますが、その多くは1000人程度、場合によっては500人とかそれ以下の規模だと推測しています。邪馬台国とはそういう小さな国々の盟主国であったしてよいとでしょう。


伊都国

魏使が末廬国で下船し徒歩移動に移っている点は注目して良いと思います。当時の陸路は非常にプアであったと考えて良く、使えるところは水路が優先であったと考えます。壱岐から唐津を目指したのは良いとしても、邪馬台国がもっと西側、ましてや畿内であるなら唐津から糸島、さらに博多へも船で目指すのが自然と考えます。いやさらに関門海峡を越えて瀬戸内海に入るルートを取るかと思います。それが唐津(末廬国)で下船したと言う事は、

  1. 目的地が近い
  2. そこからは船が使えない
こういう風に考えると伊都国は魏使に取って最終目的地に近そうな気がします。伊都国で前から気になっているのはその国名です。伊都を「イト」と読むのは争いが少ないようですし、「イト」に伊都を音で当てたのは理解するとして、当てた字が他の倭の国々と格段に違う印象です。普通と言うか悪くない字を当てています。なぜ伊都だけそうなのかは注目して良いと思っています。理由として目につくのは、

郡使往來常所駐

魏使が滞在するところだからの可能性はありそうな気がします。伊都国にはこんな記述もあります。

女王國より以北には、特に一大率を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都・帯方郡・諸韓國に詣り、及び郡の倭國に使するや、皆津に臨みて捜露し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣らしめ、差錯するを得ず

これは一大率についての記述ですが、

  1. 伊都国にいる
  2. 外交担当もしているようである
  3. 女王への取り次ぎをやっている
これぐらいは読み取って良いと思いますから、魏使もまた伊都国に駐るのが自然の気がします。


距離と時間

ここまで難問の距離と方角と所要時間を避けていましたが少しだけ触れます。魏使が出発したのは帯方郡になると考えて良さそうですが、帯方郡から邪馬台国の距離は、

自郡至女王國 萬二千餘里

その帯方郡からの距離が書いてあるものを並べてみると

  1. 到其北岸狗邪韓國 七千餘里
  2. 始度一海千餘里 至對馬國
  3. 又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國
  4. 又渡一海千餘里 至末廬國
  5. 東南陸行五百里 到伊都國
帯方郡から伊都国まで既に1万500里になります。つまり伊都国から邪馬台国まで残り500里ぐらいしか残っていません。この里も短里説と長里説がありますが、長里説を取っても22km程度になります。末廬国から伊都国の距離が地図で計ると30kmぐらいで500里としていますが、相当道は良くなかった様なので少々長く感じたぐらいを想像します。伊都国からでも邪馬台国に「水行十日 陸行一月」もかかるのは長すぎると言うところです。私の解釈は「水行十日 陸行一月」が総日程じゃなかろうかです。

帯方郡から狗邪韓國までも海岸線沿いに南下した可能性は高いと考えていますが、水路と陸路を交互に使っていた部分も多かったんじゃなかろうかです。完全に水路なのは「狗邪韓國 → 對馬國 → 一大國 → 末廬國」になります。この海路部分と「帯方郡 → 狗邪韓國」の海路部分が10日、陸路部分が1か月です。これならそんなものになる可能性があります。陳寿が参考にしたと言われる魏略には

  • 從帯方至倭、循海岸水行、暦韓國、到拘耶韓國七十里。始度一海千餘里、至對馬國。其大官曰卑拘、副曰卑奴。無良田、南北布糴。南度海、至一支國。置官与對同。地方三百里。又度海千餘里、至末廬國。人善捕魚、能浮沒水取之。東南五東里、到伊都國。戸万餘。置曰爾支、副曰曳渓觚・柄渠觚。其国王皆屬王女也。
  • 女王之南、又有狗奴國、女男子爲王。其官曰拘右智卑狗。不屬女王也。自帯方至女國萬二千餘里。其俗男子皆點而文。聞其舊語、自謂太伯之後。昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身、以避蛟龍之吾。今倭人亦文身、以厭水害也

これが魏略倭人伝の全文であったかどうかは不明ですが、ほぼ全文だと仮定すれば陳寿はこれに他の資料から追加を行った事になります。その時に追加した情報が「郡使往來常所駐」以下と見るべきじゃなかろうかです。魏使は「郡使往來常所駐」と書く事で伊都にいると記し、魏使のいる伊都を中心に幾つかの国の紹介を行ったの見方です。いわゆる放射線説です。追加したのは

  • 東南至奴國百里 官曰兕馬觚 副曰卑奴母離 有二萬餘戸 
  • 東行至不彌國百里 官曰多模 副曰卑奴母離 有千餘家 
  • 南至投馬國 水行二十曰 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸

この3国と邪馬台国の後に「自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳」とした列挙部分です。奴國、不彌國、投馬國と列挙した後に邪馬台国の紹介になるのですが、

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

ここで「自郡至女王國」を書き落としたんじゃなかろうかです。書き落としたのか、不要と考えたのかはわかりませんが、陳寿は1万2000里の邪馬台国までの所要時間が水路10日、陸路1か月であったとしたかったと見たいところです。倭の紹介で邪馬台国は首都になりますから、その紹介は他の国々と別格になっても不思議はなく、帯方郡からの距離と時間を書く方がある意味自然です。まあ、資料を積み上げながら、見た事もない倭の事を書いていたので、書く途中で混乱があった気もしています。陳寿は倭なり邪馬台国の専門家じゃないですし。


邪馬台国と狗奴国

伊都国から500里程度のところに邪馬台国があるとすれば、邪馬台国同盟は博多を中心にしたものであると見れます。その勢力範囲は対馬壱岐、末廬国も含むだけでなく「女王國以北」と書かれた国々も含みます。女王國以北は博多の西北の遠賀川流域の国々の感触があります。邪馬台国自体は博多から大宰府の間の「どこか」ぐらいと私は考えます。ここは大宰府のあたりだったとしても良いかもしれません。大宰府あたりに邪馬台国があるとすれば、狗奴国は筑紫平野の南方ぐらいにあったとするのが妥当な気がします。地理的に邪馬台国筑紫平野の北側を中心に勢力圏を持ち、狗奴国は南側に勢力圏を持っているイメージです。

ただなんですが勢力圏を面でとらえると誤解しそうな気がします。博多あたりは国が密集している感じがありますから面的な感じもありますが、筑紫平野となると点で考えるべきと思います。たとえば「南至投馬國」。南をどうとるかは議論の尽きないところですが、「水行二十日」を末廬国の西を回って有明海方面にある国ぐらいに想定する事も可能です。その辺は邪馬台国と狗奴国の南北戦争的な見方をすれば狗奴国の勢力圏に思えなくはないですが、投馬國は邪馬台国側です。私のイメージ的には筑紫平野に点在する国々の陣取り合戦みたいな様相を考えています。


実はここまで考えて問題なのは吉野ヶ里です。ここまで吉野ヶ里は弥生の都市国家としては「大きい」ととらえています。現在わかっているところでは唐古・鍵の倍ぐらいの規模があります。ごく素直に弥生時代では大都市国家と見たいところです。ですから邪馬台国に比定する意見もあるわけです。邪馬台国でも悪い訳ではありませんが、私の仮説ではチト伊都国から遠すぎます。そうなると邪馬台国の同盟国か、狗奴国になってきます。まあ、狗奴国が吉野ヶ里なら大宰府付近にあると想定している邪馬台国と対立関係でも良い気はします。ただちょっと近い気もしないでもありません。

それと吉野ヶ里が狗奴国ならいくら点で考えると言っても、筑紫平野の主要部は狗奴国の勢力圏になりそうな気がします。そうなると邪馬台国 vs 狗奴国は南北戦争と言うより東西戦争の様相になってきます。つうか筑紫平野の狗奴国勢力圏に邪馬台国側が勢力浸透をしていた状態ぐらいなのかもしれません。