日曜閑話82

さて神武です。私の仮説は魏志倭人伝から

  1. 伊都王は一大率であり邪馬台国の北方方面司令官である
  2. 伊都王は卑弥呼の弟、それも魏志倭人伝に出てくる男弟のさらに弟である
でもって伊都王ないしその息子あたりが神武であるを考えていました。しかし記紀と照らし合わせると違う可能性がありそうです。


記紀で有名な神話に山幸彦、海幸彦の話があります。これを

    山幸彦の国は邪馬台国
    海幸彦の国は伊都国
こう読み替えられないかと考えています。邪馬台国の邪馬は「ヤマ」と読み替える事が可能ですし、伊都国は糸島半島に比定され、海外外交のための設備が設けられていたのは確実だからです。でもって山幸彦(火遠理命)は豊玉姫を妻にしています。神話では海神(大綿津見神)の娘となっていますが、これは伊都国王女として良いかと思っています。山幸彦と豊玉姫の息子が鵜草葺不合命ですが、おそらく後継者争いのために鵜草葺不合命は母の実家である伊都国で育つことになります。古事記では、

媛は海のお宮にいらしっても、このお子さまのことが心配でならないものですから、お妹さまの玉依媛をこちらへよこして、その方の手で育てておもらいになりました。

この前段に豊玉姫が出産時に正体を見られて海に帰る話があるのですが、実相としては鵜草葺不合命を連れて伊都国に帰ったと取りたいところです。鵜草葺不合命の妻の玉依姫も伊都国王女で良いかと思います。おそらく鵜草葺不合命は伊都国の後押しを受けて邪馬台国王になったぐらいを想像します。鵜草葺不合命には4人の息子がいたとなっていますが、これ以外に娘がいても不思議有りません。鵜草葺不合命の後継でも混乱があり、スッタンモンダの末に後継者となったのが4人の息子の姉である卑弥呼じゃなかろうかです。

鵜草葺不合命の4人の息子なんですが、古事記より

この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命は、海をこえてはるばると、常世国という遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命も、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命が、高千穂の宮にいらしって、天下をお治めになりました。

稲氷命は常世国、すなわちあの世に行かれたと解釈します。若死にしたんでしょう。ちょっと注目して良いかと思うのは三番目の若御毛沼命です。母の国に行ったとは伊都国になります。伊都国も継承問題があり、若御毛沼命邪馬台国の力を背景に伊都国王になった可能性を考えます。この辺が山幸彦、海幸彦神話の基かもしれません。読みようですが邪馬台国が伊都国を支配下に置いたぐらいです。三番目の神倭伊波礼毘古命魏志倭人伝にある「有男弟佐治國」状態にも見えます。整理すると、

  1. 長女の卑弥呼が女王
  2. 三男の若御毛沼命が伊都国王
  3. 四男の神倭伊波礼毘古命が伊都国の男弟(摂政
ほいじゃ長男はどうなっているかです。彦五瀬命ないしは五瀬命になるのですが、この人物は神武東征に従って河内の長髄彦戦で戦死しています。なんで長男の影が薄いかですが・・・邪馬台国家の慣行として末弟相続があったのか、異母の可能性はあると見ています。こうやって強引に記紀魏志倭人伝を照らし合わせると伊都国王と男弟は兄弟にする事は可能ですがこれが浮上してきます。


更立男王 國中不服

では卑弥呼死後に立った男王はどちらになるかです。「國中不服」ですからやはり伊都国王の気がします。男王が立った後には「更相誅殺 當時殺千餘人」となっていますが、ここまで派手でないにしろ結局のところ伊都国王は追い落とされたと見る方が自然そうです。しかし後継に立てられたのは13歳の壱与女王です。素直な疑問として男弟はどこに行ったのかのなります。おそらく男王追い落としにも、壱与擁立にも男弟は尽力したはずです。これはその後の東征神話に連動するのですが、邪馬台国の国政の中心から身を引いてしまったんじゃなかろうかです。書紀には、

而遼邈之地、猶未霑於王澤

非常に読みにくいのですがwikipediaの力を借りると「未だに西辺にあり、全土を王化していない」の意味になるようです。古事記では

しかし、日向はたいへんにへんぴで、政をお聞きめすのにひどくご不便でしたので、命はいちばん上のおあにいさまの五瀬命とお二人でご相談のうえ、「これは、もっと東の方へ移ったほうがよいであろう」とおっしゃって、軍勢を残らずめしつれて、まず筑前国に向かっておたちになりました。

壱与女王体制が出来上がったので、自分は新天地の開拓に向かいたいぐらいの意味に取れない事もありません。また宿敵狗奴国も後継者争いでも起こって勢力を消退させていたかもしれません。この「男弟 = 神武」説はこれまでの「伊都国王 = 神武」説より東征軍が格段に強力になります。それこそ国を挙げての遠征軍の編成が可能になるからです。また記紀にある進軍過程も説明しやすくなります。


東征はいつか?

卑弥呼の死は247年として良いでしょう。そこから壱与女王体制が確固たるものになるのに10年と考えれば260年ぐらいに東征を行ったと見たいところです。もう少し東征神話を確認すれば、

  1. 豊前宇佐に行き嫁取り
  2. 筑前岡田宮で7年
  3. 安芸多家理宮で7年
  4. 次に備前
これをその地を攻略し、前進拠点を置いて行ったと見る事が出来ます。この事業を250年ぐらいから始めていたら265年ぐらいに河内に進攻が考えられます。この神武東進の情報は畿内饒速日命の子孫にも伝わり高地性集落が築かれたとするのも説明が可能です。十分な準備期間と情報収集、さらには畿内の勢力への懐柔工作も合わせて行われていたと見ても良さそうです。


東征神話を読む限り、神武は戦もしますが、それより懐柔工作を重視している気がします。相手を滅ぼすより取りこもうとする姿勢の方が強い気がします。相手の寝返りそうな勢力を巧みに取り込み、どうしてもの敵対勢力のみ武力を行使する感じです。それだけなら誰でもやりますが、取り込んだ勢力を優遇し味方に付けてしまう姿勢を強く打ち出した印象があります。つまり味方にさえなってくれれば、滅ぼしもしないし、しっかり優遇する実績を積み上げていたぐらいです。

畿内進攻にあたっても同様で、饒速日命の子孫の取り込みも当然行ったと考えるのが自然です。饒速日命の子孫も銅鐸分布をみると広範囲に影響力を及ぼしてはいましたが、広域王権までは確立しておらず、実態として親戚の連合体ぐらいに留まっていたと見ます。その中の有力者を味方に引きずり込む事前工作をしっかり行い、結構な数を河内・大和侵攻前に取り込んでいたと考えます。その中で絶対抗戦派が河内の長髄彦と大和の八十梟師だったのかもしれません。でもって亡くなったのは270年ぐらいでしょうか。


神武の年齢

ここから年齢を推測してみたいと思います。記紀には東征を始めたのが43歳となっています。250年ぐらいに43歳だとすれば死亡時には73歳になります。73歳でも良いのですが、当時の事と戦争が続く事を考えると死亡年齢を63歳ぐらいにしたいところです。そうなると東征を始めたのは33歳ぐらいになります。卑弥呼が魏に遣いを送ったのが238年ですから、この時に「有男弟佐治國」であれば20歳ぐらいになります。63歳説にはもう一つ根拠があります。神武は127歳で死亡したと記紀ではなっていますが、魏略にこういう記載があります。

其俗不知正歳四時 但記春耕秋収 為年紀

春の田植えと、秋の稲刈りを年季とするの記述です。つまりは1年で2歳になる解釈です。そうであれば127歳は63歳ぐらいに該当します。63歳であっても卑弥呼摂政を務め、東征はスケジュール的にも可能となります。