日曜閑話82-3

思い込みによる勘違いがあり訂正やり直し

私としたことが迂闊だったのですが、銅鐸文化は1世紀に巨大化する事で花開き3世紀には終焉を迎えています。つまり西暦0年から200年の程度の隆盛になります。この200年頃の終焉は途絶と言う感じが相応しい終わり方であるのは銅鐸の出土状況が示しているとされます。ごく簡単には卑弥呼時代(247年に卑弥呼死亡)より前に銅鐸文化は途絶しています。突然の終焉となる理由として一番考えやすいのは外部からの侵略行為です。記紀に残る畿内への侵略記録は、

  1. 饒速日命の東征神話
  2. 神武東征神話
この2回が代表的なものになります。ただもう1回あったと見る方が良い気がします。銅鐸文化を突如花開かせた集団です。文化的変遷で言うと
東征 時期 結果
第1派 BC100〜AD0 銅鐸文化を隆盛させる
第2派 AD150〜AD200 銅鐸文化を終焉させ銅鏡文化に塗り替える
第3派 AD250〜AD300 畿内に広域王権を形成し古墳時代の幕を開く
ここで第1派と第2派は文化的に異質の集団と見て良いと思います。異質だから銅鐸文化は突然の終焉を迎えていると見るのが妥当です。異質の侵略者であり、そういう侵略者がいた傍証として高地性集落の存在を考えて良いかと思っています。これに対して第2派と第3派は文化的に非常に近いと見ています。私の推測として第1派の正体は不明ですが、こう考えています。理由は記紀になりますが、饒速日命は神武にとっとと帰順した上に饒速日命の子孫の物部氏畿内王権で大きな地位を占めるからです。それも軍事で大きな地位を占めますから、神武に融合吸収された上に信頼もされていた傍証になると考えます。


神武と饒速日命

饒速日命の東征と神武の東征はおよそ100年の間隔で行われたと推測されますが、同族の遠征なら伝承として神武も饒速日命の東征を知っていても不思議有りません。つうか饒速日命も東征して畿内を制しても母国との連絡は定期的に取っていると考える方が自然です。この母国は北九州にあると考えています。当時の北九州の状況を知る資料は事実上一つで魏志倭人伝になります。

其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年 乃共立一女子爲王 名曰卑彌呼
(その國、本また男子を以て王となし、住まること七、八十年。倭國乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。)

ここもよくよく読まないといけないようです。文章は3段にわけて読んだ方が良さそうで、

  1. もともと男王がいて70〜80年続いていた
  2. その辺りで内乱状態となった期間は「歴年」
  3. 卑弥呼が女王になる事で終息
問題は「歴年」の期間が不明である事です。歴年は現代中国語では「年々」とか「毎年」ぐらいの意味になるようです。魏志倭人伝の表現は明瞭な期間である「七八十年」と「歴年」が分けて書かれています。感触ですが歴年の期間は案が短いような気がしています。「数年」程度の表現と解釈しても大間違いとは言えないような気がします。もうちょっと大胆に解釈すると
    卑弥呼が女王になる前に継承者戦争が起き、これが数年間続いていた
卑弥呼の即位を238年とすると「七、八十年」ここは80年前として良いと思いますが、国が出来たのは160年ぐらいと見るのは可能です。年表的に整理すると
西暦 事柄
57年 光武帝倭奴国使節
107年 安帝に倭国使節
160年頃 邪馬台国(同盟)が成立
238年 卑弥呼が魏に使節
東征第2派の饒速日命を送り出したのは邪馬台国と出来る可能性が出てきます。神武東征の目的ですが、畿内饒速日命の子孫からの援軍要請の可能性も考えています。それこそ内紛とか、在地勢力の台頭による苦戦とかです。ただ記紀の神武東征にある程度の信用を置くなら、北九州から畿内への進攻は相当時間をかけており、神武の当初の計画は山陽方面への勢力拡大であったのが、饒速日命の子孫の援軍要請を途中で受け入れた可能性もあると考えています。


神武男弟仮説

神武の経歴も不思議な点があって長子ではありません。4男として読むのが妥当な気がします。もう一つ不思議なのは神武紀より、

年十五立爲太子

15歳で太子になっているのですが王になった記述がありません。東征完了後に天皇に即位したとはなっていますが、太子から王に即位した記述が見つかりません。鈴木三重吉古事記物語から引用しますが、

 鵜茅草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)は、ご成人の後、玉依媛(たまよりひめ)を改めてお妃(きさき)にお立てになって、四人の男のお子をおもうけになりました。

 この四人のごきょうだいのうち、二番めの稲氷命(いなひのみこと)は、海をこえてはるばると、常世国(とこよのくに)という遠い国へお渡りになりました。ついで三番めの若御毛沼命(わかみけぬのみこと)も、お母上のお国の、海の国へ行っておしまいになり、いちばん末の弟さまの神倭伊波礼毘古命(かんやまといわれひこのみこと)が、高千穂(たかちほ)の宮にいらしって、天下をお治めになりました。

神武が政務を行っている事は書いても王になった事は避けている気がします。強引ですがこれは神武以外に王がおり、神武は摂政だったと見る余地が出ると考えています。つまりは魏志倭人伝にある

有男弟佐治國  自爲王以來 少有見者

卑弥呼が王になって以来、見る人さえ少ない状況であるなら実際の政務は男弟が摂政として執り行っていたと考えるのが自然です。記紀に書かれていませんが神武には姉がおり、姉が女王であったと考えています。神武は太子であったかもしれませんが、卑弥呼の即位までの歴年の継承者戦争の収拾のために姉を立てて摂政にせざるを得ない事情が生じたぐらいに見ます。ま、中大兄皇子だって孝徳時代から皇太子ですからね。なにせ記紀しか材料がないので推測の上に推測を重ねる事になります。記紀には神武の歳について幾つか記述があります。

  1. 15歳で太子
  2. 45歳で東征決意
  3. 127歳で崩御
神武の年齢や年代表示は二つの要素があるとされています。
  1. 1年を1年と数える
  2. 1年を2年と数える(根拠は魏略)
記紀を編纂した時代は1.なのですが、2.についての伝承をつまみ食いしたか混乱した状態で採用している説があります。たとえば死亡年齢。127歳は幾らなんでもです。書紀でも

卌有二年春正月壬子朔甲寅、立皇子藭渟名川耳尊、爲皇太子。
七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。

神武42年に皇太子を定めた後に神武76年に崩御するまで飛んでいます。後は推測するしかないのですが、2.で歳を数えれば神武東征は90歳の時になります。これは幾らなんでも無茶なので2.の説に従って補正したと推理しています。つまり事歴部分は1.の計算補正、崩御年齢は2.のままの可能性です。これもそんなに厳密なものでは無く適当に混在している可能性を考えます。真実なんてわかるはずもないので、45歳で東征を決断したと解釈してみます。決意した年代は247年に壱与が女王になった3年後の250年と仮定し、崩御年齢を63歳と仮定してみます。これで年齢と事歴がそれなりに合致するかどうかです。

A説 B説 事柄
西暦 年齢 西暦 年齢
205 0 205 0 邪馬台国王・鵜草葺不合命の四男として生まれる
220 15 220 15 皇太子になる
238 33 238 33 姉の卑弥呼邪馬台国王になる
247 42 247 42 卑弥呼死す
250 45 250 45 豊前宇佐に進出
251 46 筑前岡田宮に前進基地を作る
258 53 安芸多家理宮に前進
265 60 備前進出
266 61 259 54 河内・大和進攻
268 63 268 63 死亡
A説とB説の違いは筑前岡田宮と安芸多家理宮の7年づつ滞在した期間を
    A説・・・そのまま14年とした
    B説・・・半分の7年とした
A説は少々無理があります。60歳過ぎてから畿内に足を踏み入れるのは幾らなんでも遅すぎます。仮説とした饒速日命の子孫の救援にしても時間がかかり過ぎています。そこでB説を取れば54歳になります。当時としては相当な高齢ですが、63歳まで生きるぐらい元気だとすれば、活躍はまだしも可能と言ったところです。ちなみに後継者を定めたとされる神武42年はどうしようもないのであきらめます。それでもこの推測なら荒唐無稽と言い切れず、古墳時代の幕開けになんとか間に合う計算になります。

まあ、記紀を鵜呑みにするのもホドホドにしないといけません。神武が卑弥呼の男弟であり東征を行ったとしても、畿内まで到達しなかった可能性は年齢的にも十分にありえます。現実的に考えると神武はせいぜい安芸ぐらいまでの進出に留まり、以後は神武の後継者、たとえば崇神であると考える方が自然かもしれません。二代による東征を神武一代に収束させたぐらいはあっても不思議とは思えないからです。