日曜閑話82-2

ここまでの神武の推測ですが、

西暦 年齢 事柄
207 0 邪馬台国王・鵜草葺不合命の四男として生まれる
238 31 姉の卑弥呼邪馬台国王になる
247 40 卑弥呼死す
250 43 豊前宇佐に進出
251 44 筑前岡田宮に前進基地を作る
258 51 安芸多家理宮に前進
265 52 備前進出
266 53 河内・大和進攻
276 63 死亡
東征開始年齢は記紀から、死亡年齢は記紀の127歳を1年2つ歳を取る説からのものです。混在しているのは問題なんですが、積極的に目を瞑ります。ただ筑前や安芸の滞在期間は半分だった可能性はあります。その場合は7年ほど繰り上がりますから河内・大和への進攻は260年ぐらいになります。63歳は当時としてはかなりの長寿ですが、当時であっても生存不可能とは言えませんし、それぐらい元気だったから東征が可能だったぐらいにしておこうと思います。

それと東征と言っても東征が可能になる状況が邪馬台国には必要です。具体的には南方の狗奴国と関係です。こんなものどこにも証拠が残っていないのですが、唯一の手がかりは東征が可能になった事実です。つまり卑弥呼の死と続くように狗奴国の脅威が消退したとしか考えられません。単純には狗奴国王の死です。

当時だけでなく中世、いやもっと後になっても日本では相続法が曖昧でした。記紀を読む限り兄弟相続も普通にありますし、父子相続もあります。どっちがと言うより実力主義の面が強かったと見ています。実力主義と言えば公平そうですが、これは頭抜けた実力者がいてこそのもので、ドングリの背比べ的な状況なら混乱しか呼びません。邪馬台国後継者戦争は例外的なものでなく、どの国でも普遍的に起こる素地があったと考える方が良い気がしています。当然ですが狗奴国でも起こるはずと言うところです。これも短期で決着すればまだ良いのですが、泥沼状態から分裂が固定するなんて事もしばしば起こると見て良い気がします。

狗奴国は優れた指導者が王となり邪馬台国の南方に大きな勢力を築いたのは間違いないと見ていますが、王の死後の継承者戦争で瓦解してしまったぐらいを想像しています。そうなれば邪馬台国が南方に進出しそうなものですが、北九州勢力は伝統的に南方より東方に進出したがる伝統があったぐらいに見ています。ここもあえて理由付けすれば、南方もまた先進地帯であり、混乱に乗じて勢力を広げても維持が大変ぐらいの感覚とか、進出しても新たな耕作地を入手するのが難しいぐらいがあったぐらいです。それに比べて東方は無限のフロンティアが広がっているイメージでしょうか。

神武軍の東征に参加した者は、後世で言えば農家の三男坊、四男坊以下のクラスではなかったかと見ています。つまりは農家単位で後継者になれなかった人々です。こういう人々が北九州から定期的に溢れ出す現象が東征の原動力だったのかもしれません。それが可能な条件がタマタマ形成されたのが神武の東征ではなかったかと考えています。


饒速日命は神武に先だって東征を行っています。時期としては1世紀後半ぐらいを想定しています。饒速日命の子孫(面倒なので物部氏にします)は、河内から大和に順調に勢力を伸ばし最終的に唐古・鍵に本拠地を置いたと考えています。物部氏は河内・大和だけでなく西日本に広く影響力を広めたと考えています。その時のツールが銅鐸です。ただそれだけ勢力を広げた物部氏ですが、広域王権確立までは行かなかったと見ています。あくまでも同族ないし友好部族との緩やかな連合体です。

神武の畿内制圧が記紀に書かれているほど短期であったかどうかは確認しようがありませんが、短期であった可能性はあるとは思っています。それは畿内自体の制圧は短期ですが、畿内に到るまでの道筋が短期でないからです。最終目的地の畿内に進むまでに十分な準備期間を設けている点です。備前まで進出していた神武が狙っていたタイミングは物部氏の後継者紛争の勃発だった気がしています。記紀では饒速日命は早い段階で神武に属しますが、これは後継者紛争で劣勢の方の支援を約束したためではないかと見ています。ある種の常套手段です。

劣勢の物部氏有力後継者を立てながら紛争に介入し、畿内の実権を握ってしまったぐらいの構図を考えています。ただ神武は物部氏を返す刀で滅ぼすような事はせず、巧みに臣下として吸収してしまったと見ています。銅鐸の配布範囲を物部氏の勢力圏と見れば、これを敵に回すより味方にして取り込んでしまいたいの計算があったぐらいでしょうか。後世で喩えれば秀頼の豊臣氏みたいなものです。家康は豊臣氏を滅ぼしましたが、神武は物部氏をそうしなかったぐらいです。物部氏は神武政権で特殊な地位を占めながらあくまでも臣下として取り込まれてしまったぐらいを想像しています。


鏡教

神武が鏡教を持ち込んだのはこれまで散々考えましたから良いとして、銅鐸教と鏡教は基本的に同じ宗派だと見て良い気がします。理由は物部氏の存在です。wikipediaより、

物部氏は解部を配下とし、刑罰、警察、軍事、呪術、氏姓などの職務を担当し、盟神探湯の執行者ともなった

軍事面でも有力者であったのですが、物部氏の「モノ」は「鬼」であり、氏姓名の本当の由来は「呪術」すなわち宗教担当であったと見ます。祭政一致体制では宗教面の担当は非常に重い地位になります。それを担当できたと言う事は銅鐸教は鏡教と本質は変わらない傍証に思えます。置き換わったのは銅鐸から銅鏡に御神体が置き換わっただけの気がします。たぶんこれだけは神武が物部氏に強制した気がします。端的には銅鐸を象徴とする物部政権から銅鏡を象徴とする神武政権への移行の目に見える変化のために必要だったからと考えています。それとですが、案外単純に置き換わった気もしています。強制と同時に受け入れやすい条件でもあったぐらいです。それぐらい古代人は銅鏡の輝きに魅了されたぐらいです。

もう一つ重要な点は神武政権は銅鏡の量産化に成功している事です。三角縁神獣鏡です。現在出土している分だけでも500面以上あります。総生産数は少なく見てもその2倍以上、5倍ぐらいあっても過剰とは言えないでしょう。つまりは神武政権はふんだんに銅鏡を配布していたと考えています。で、どうもなんですが銅鏡には2つの面があったと考えています。一つは宗教的な象徴であり、もう一つは御褒美的な面です。御褒美を後世で喩えると勲章みたいなものでしょうか。

ここも考えを広げたいのですが、勲章みたいな名誉的なものだけでなく、ある種の疑似貨幣的な性格もあった気がしています。国産銅鏡、とくに三角縁神獣鏡はあれだけ出土しているのに製造工房は確認されていません。これは生産拠点が少なかった事を示唆します。少ないと言う事は神武政権が強力に保護したとも言えます。はっきり言えば独占製造を維持したぐらいでしょうか。生産の独占は供給の独占になります。ま、造幣局を握っていた様な状況を想像しています。

何が言いたいかですが、当時でなくとも一番貴重な財産は農地です。御褒美としては最高の物になるのは時代が下っても同じです。ただ土地は有限です。有限の土地を御褒美として分け与えていたのでは本体がやせ細ります。そこで土地に匹敵する御褒美として銅鏡を用いたんじゃなかろうかです。人は御褒美を与えてくれるところに求心力を生じます。銅鏡に重い付加価値を加えて配布する政策が、畿内王権の原型を形作ったのではないかと推測しています。