日曜閑話81-4

邪馬台国の音を調べるムックの途中で嫌でも「邪馬台国はどこだ?」目につきます。邪馬台国論争は魏志倭人伝だけでなく、後漢書倭国伝、魏略逸文、翰苑広志などが俎上に上げられて事細かに分析されています。解釈を読んでいると大変興味深いのですが、情報が限定されているだけに多種多様の仮説が並立する感じです。あくまでも感想ですが大別すると、

で大胆にポイントを一つ挙げれば、

南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月

これをどう解釈するかでとくに九州説派は呻吟している感じがします。畿内説派はシンプルに瀬戸内海を渡り、河内から大和に至る道程ぐらいで説明がしやすいぐらいでしょうか。それでも私に言わせれば畿内説であっても水行十日はともかく陸行一月はチト困る部分はあると思っています。河内から大和へは大和川の水運を利用します。川を船で行くのは陸行と解釈しても、河内から大和まで1か月は長すぎるだろうです。もし卑弥呼の都が唐古・鍵なりにあり、何度も魏との使節の往復があったのなら大和・河内間の交通はそれなりに整備されるはずだからです。

大和と河内は古代においても大和川の水運でかなり密接につながっています。たとえば唐古・鍵遺跡からはアワビやハマグリも見つかっています。これらは大阪湾で採られ、大和川を使って運び込まれたものと考えるのが自然ですし、それが最短距離になります。そこに1か月もかかったら到底食べられる状態とは考えられないからです。当時であっても1日とか2日、長くとも3日ぐらいで河内と大和を移動できたと私は考えます。


距離と方角と時間に関する論争は果てしもないところがあるのですが、

始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶嶋 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐 

この部分の解釈については大方一致しているで良さそうです。シンプルに言えば、

    半島南岸(狗邪韓國)→ 対馬(對馬國)→ 壱岐(一大國)→ 松浦(末廬國)→ 糸島半島(伊都国)
ここは場所が特定されているとして良さそうです。でもって、伊都国まで魏使はどうやって来たかです。
    東南陸行五百里 到伊都國
さらにがありまして末廬國の描写に、
    草木茂盛 行不見前人
相当道の状態が良くなかった事を示唆する表現と受け取ります。そうなると魏使は末廬國で船から降り、船は末廬國の浜に上げて徒歩移動になったと見るのが妥当です。またその時に船乗りは末廬國に留まり、帰国のために船の整備に努めていたと考えても良いかと思います。当然ですが帰りもありますからねぇ。そうなると歩いて伊都国を目指したのは魏使の主要メンバーになります。末廬國が出した道案内に連れられて伊都国を目指したと考えざるを得ません。でもって次の個所に注目します。
    郡使往來常所駐
伊都国には魏使のための迎賓館的な施設があったと受け取って良い気がします。ここで思うのですが何故に伊都国なんだろうです。そう邪馬台国までの「水行十日 陸行一月」があるからです。たしかに後世でも博多に大陸との往来のために迎賓館(筑紫館、鴻臚館)が設けられています。畿内説なら同様の理由で伊都国にもあったぐらいの説明も出来るのでしょうが、わざわざ「常所駐」としてあるのが引っかかります。つうのも魏使は卑弥呼に直接会っていなかったんではないかと感じます。卑弥呼の日常生活の描写として、

自爲王以來 少有見者

魏使が常に卑弥呼に拝謁していたのなら、果たしてこう書くだろうかです。それこそ会っていたのは

    官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮
このクラスまでじゃなかろうかです。大国魏の使いが邪馬台国の都まで行きながら大臣級にしか会えないのは面子として宜しくない気がします。スタイルとして伊都国の迎賓館に邪馬台国の大臣級が出向いていたと考える方が良さそうな気がします。これなら形式として面子が保たれる気がします。ここでなんですが、伊都国と邪馬台国の距離が最短でも「水行十日 陸行一月」は長すぎる気がします。伊都国にある迎賓館と邪馬台国の都とはもっと近いと考える方が自然な気がします。できれば1日程度、せめて数日で行き来できる距離です。古代人の時間感覚は今よりもっと大らかだったとは思いますが、
  1. 魏使が伊都国の迎賓館に到着
  2. 邪馬台国の大臣が出迎える
  3. 大臣が邪馬台国の都に報告する
  4. 都から伊都に返礼とか、贈り物を届る
これだけで3か月以上はラクにかかってしまいます。魏使にしても帰りの航海がある訳で、季節と天候を考えるとそんなにノンビリ構えていられない気がします。末廬國から伊都国まで来ている訳ですから、もう少し邪馬台国に近いところに迎賓館を設けた方が便利と素直に思います。さらに言えば、畿内邪馬台国があったとすれば魏使は末廬國で下船せずに、瀬戸内海を渡って河内まで行くのがやはり自然と思います。大和まで行かなくても河内に迎賓館的な施設を設けて接待と外交を行えば良いだろうぐらいです。漠然たる感想みたいなものですが、こういう感触を抱いています。それこそ博多湾に注ぐ中小河川の谷間の国の一つか、現在の大宰府付近ぐらいにあったんじゃなかろうかです。もちろんこれでは魏志倭人伝の距離と方角と時間の問題に全然一致しませんが、現実問題としてそんな感想を持ちました。