邪馬台国の音を調べるムックの途中で嫌でも「邪馬台国はどこだ?」目につきます。邪馬台国論争は魏志倭人伝だけでなく、後漢書倭国伝、魏略逸文、翰苑広志などが俎上に上げられて事細かに分析されています。解釈を読んでいると大変興味深いのですが、情報が限定されているだけに多種多様の仮説が並立する感じです。あくまでも感想ですが大別すると、
で大胆にポイントを一つ挙げれば、南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
これをどう解釈するかでとくに九州説派は呻吟している感じがします。畿内説派はシンプルに瀬戸内海を渡り、河内から大和に至る道程ぐらいで説明がしやすいぐらいでしょうか。それでも私に言わせれば畿内説であっても水行十日はともかく陸行一月はチト困る部分はあると思っています。河内から大和へは大和川の水運を利用します。川を船で行くのは陸行と解釈しても、河内から大和まで1か月は長すぎるだろうです。もし卑弥呼の都が唐古・鍵なりにあり、何度も魏との使節の往復があったのなら大和・河内間の交通はそれなりに整備されるはずだからです。
大和と河内は古代においても大和川の水運でかなり密接につながっています。たとえば唐古・鍵遺跡からはアワビやハマグリも見つかっています。これらは大阪湾で採られ、大和川を使って運び込まれたものと考えるのが自然ですし、それが最短距離になります。そこに1か月もかかったら到底食べられる状態とは考えられないからです。当時であっても1日とか2日、長くとも3日ぐらいで河内と大和を移動できたと私は考えます。
距離と方角と時間に関する論争は果てしもないところがあるのですが、
始度一海千餘里 至對馬國 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離 所居絶嶋 方可四百餘里 土地山險 多深林 道路如禽鹿徑 有千餘戸 無良田 食海物自活 乗船南北市糴
又南渡一海千餘里 名曰瀚海 至一大國 官亦曰卑狗 副曰卑奴母離 方可三百里 多竹木叢林 有三千許家 差有田地 耕田猶不足食 亦南北市糴
又渡一海千餘里 至末廬國 有四千餘戸 濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之
東南陸行五百里 到伊都國 官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚 有千餘戸 丗有王 皆統屬女王國 郡使往來常所駐
この部分の解釈については大方一致しているで良さそうです。シンプルに言えば、
ここは場所が特定されているとして良さそうです。でもって、伊都国まで魏使はどうやって来たかです。-
東南陸行五百里 到伊都國
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草木茂盛 行不見前人
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郡使往來常所駐
自爲王以來 少有見者
魏使が常に卑弥呼に拝謁していたのなら、果たしてこう書くだろうかです。それこそ会っていたのは
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官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮
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伊都国と邪馬台国はわりと近い