日曜閑話83-3

今日は隋書倭国伝をもう少し読んでみます。


書紀の年代と照合

隋書倭国伝には600年と607年の2回の遣隋使が記録されています。一方の書紀は1回です。書紀に記録されているのは2回目の方になります。推古紀に

秋七月戊申朔庚戌、大禮小野臣妹子遣於大唐、以鞍作福利爲通事

これが推古15年になります。ちなみに鞍作福利は通訳のようです。では気になるのは7年前の推古8年の書紀の記載ですが、

任那に関する軍事行動とその後の外交交渉しか記されていません。軍事行動の成果なんですが、

是歳、命境部臣爲大將軍、以穗積臣爲副將軍(並闕名)、則將萬餘衆爲任那新羅。於是、直指新羅、以泛海往之、乃到于新羅、攻五城而拔。於是、新羅王、惶之舉白旗、到于將軍之麾下而立。割多々羅・素奈羅・弗知鬼・委陀・南加羅・阿羅々六城以請服。

とりあえず成果は収めたぐらいに理解しておきます。


第1回遣隋使の記録

興味を惹いたのは

上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。

ここは隋帝が倭の使者に問いかけをした部分であると見ます。隋帝の下問部分ですからかなり正確に記録されていると思います。何に興味を惹かれたかですが、倭王は未明から聴政を行うが日の出と共にこれをやめ、その後は弟に委ねるとしている点です。書紀にある当時の政治体制は大王が推古であり摂政厩戸皇子です。推古が未明から夜明けまで臨席し、夜が明けたら厩戸皇子が後を引き継いだと解釈できない事もありませんが、推古と厩戸皇子姉弟ではありません。さらに隋書では倭王は男性としています。証拠は隋書倭国伝に

王妻號雞彌

「雞」は現代では「鶏」に該当します。推古には妻はもちろんですが夫もいません。少し組み合わせを変えて見ます。厩戸皇子摂政ですから未明から夜明けまで聴政を行い、夜明けから馬子に委ねられるパターンです。これも厩戸皇子と馬子は兄弟ではありません。ここで馬子大王を想定すれば弟に境部摩理勢がいます。境部摩理勢は推古紀でも新羅遠征の大将軍に任じられるぐらいですから「云委我弟」ぐらいの器量と地位があったと考えてもおかしくないと感じるところです。ちなみに境部摩理勢の冠位は推古紀に

大徳境部臣雄摩侶

大徳とは冠位十二階の筆頭冠位です。隋書倭国伝を素直に読む限り、

  1. 倭王は男性である
  2. 倭王には弟がおり大きな権限を委ねられていた
こうとしか読めません。このコンビを推古・厩戸(ないしは厩戸・馬子)と取るよりも馬子・摩理勢と取った方が自然な気がしています。


第2回遣隋使の記録

ここもなかなか面白いのですが、

隋書倭国 推古紀
明年、上遣文林郎裴清使於倭國 十六年夏四月、小野臣妹子至自大唐。唐國號妹子臣曰蘇因高。即大唐使人裴世芿・下客十二人、從妹子臣至於筑紫
推古15年(607年)に遣隋使が派遣されていますから符合します。それは良いのですが推古紀にある

唐國號妹子臣曰蘇因高

これなんじゃろってところです。頑張って読み下せば「唐国、妹子臣を号して曰く蘇因高とする」ぐらいでしょうか。妹子(イモコ)を蘇因高(ソインコウ)と呼んでいたと言う事でしょうか。それとも蘇因高が当時の大陸音で「イモコ」に近かったのでしょうか。ここで気を付けないといけないのは、蘇因高と書いてあるのは書紀の方です。書紀が記録に値する事として「唐國號妹子臣曰蘇因高」を書いている点です。たとえば今回の隋使の役割は答礼であり隋からの国書を遣わす事です。その国書に妹子の事を蘇因高と書いてあったのならまだしもわかります。しかし隋からの国書は推古紀に、

爰妹子臣奏之曰「臣參還之時、唐帝以書授臣。然經過百濟國之日、百濟人探以掠取。是以不得上。」

有名な国書紛失事件が起こっています。これも様々な解釈がありますが、公式には隋からの国書は読めなかった事になります。つまり国書にそう書いてあったは書紀に書けない事になります。微妙に引っかかる点ではあります。次に進みます。

隋書倭国 推古紀
倭王遣小紱阿輩臺、從數百人、設儀仗、鳴鼓角來迎 六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津、是日以飾船卅艘迎客等于江口、安置新館。於是、以中臣宮地連烏磨呂・大河内直糠手・船史王平、爲掌客
後十日、又遣大禮哥多毗、從二百餘騎郊勞 秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日、遣飾騎七十五匹而迎唐客於海石榴市術。額田部連比羅夫、以告禮辭焉
ここは大した話ではないのですが、隋書倭国伝にある「哥多毗」とは誰だろうです。ここは素直に推古紀の「額田部連比羅夫」と取ります。一方の「哥多毗」の「毗」は現代では「毘」になるそうなので素直に読めば「カタビ」です。どうも「ヌ」が聞き取り難かったのと「べ」が当時(大陸か日本)の発音的に「ビ」に近かったのかもしれません。実はなんですが、その次の個所がちょっと注目です。「唐國號妹子臣曰蘇因高」及び国書紛失事件を踏まえて味わって下さい。推古紀よりまず、

使主裴世清、親持書兩度再拜、言上使旨而立之

隋使の裴世清は「書」持っています。この「書」ってなんだになります。そう、妹子は百済で書を盗まれたとしています。どう解釈するのだろうです。国書は2通あったのかと言う事になります。つまりは妹子が貰ったものと、隋使が持ってきたものです。当時の外交儀礼は不明ですが、国書はその国の使節が持参します。第2回遣隋使では日本の国書は妹子が持参しています。隋がすぐに答礼の使節を出さなかったのなら妹子に国書を渡しても良いでしょうが、隋は妹子の帰国に合わせて隋使を派遣しています。国書は隋使の裴世芿が持つ方が自然な気がします。ただ不明とした外交儀礼ですがその一端だけが隋書倭国伝にあります。

大業三年、其王多利思比孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悦、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。

使者の口上と別に国書があるようです。どうも国書は隋帝の前で読み上げず、使者の口上の後に隋帝が読むようです。もうちょっと言えば使者であっても国書の内容は読めないのかもしれません。そう解釈すると、日本で隋使が話したのは口上用の「書」であり、国書は妹子に授けられ、隋使の口上に引き続いて大王に差し出される手順だったのかもしれません。隋使の口上は推古紀に

其書曰「皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘紱化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境内安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世芿等、稍宣往意、幷送物如別。」

内容的に国書の様な気がしないでもありませんが、どんなものだろうと言うところです。当時の国書の内容の形式まで調べられませんでした。


隋書倭国伝はもう少し重視しても良い気がします

魏志倭人伝に較べると関心の程度の低い隋書倭国伝ですが、記載された情報の信用度はどれぐらいと思っています。隋は581年から619年まで続いていたの理解で良いとします。隋書は唐の時代に書かれていますがwikipediaより、

636年(貞観10年)には魏徴によって本紀5巻、列伝50巻が完成する。第3代の高宗に代替わりした後の656年(顕慶元年)に、長孫無忌によって志30巻が完成後、編入が行われる。

隋滅亡後37年に完成しています。倭国伝を含む列伝部分は17年後です。それと隋書を作成するに当たって隋王朝の資料は活用されたのは間違いないでしょう。大陸文化の特徴として文章としての記録は熱心に行われており、王朝交代時の混乱でも結構残って引き継がれています。一方の書紀の完成は720年です。遣隋使の時代から120年後です。情報量が多いのはもちろん書紀ですが、記載されている情報の質は隋書倭国伝も軽視できないと考えています。もちろん隋の時代は魏の頃より日本に対する注目度は下がりますし、倭国伝の部分にそれまでの史書の情報が引用されている事も否定しません。ただ隋の時代のエピソードについての情報の質は高いとみなしても良いと考えています。たとえば遣隋使が訪れた年代です。それだけでなく隋帝への謁見記録も信用度が高いと見ています。現代でも607年の

其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云

ここは史実として取り扱っています。ならば倭王を男王として記録している部分も同様に史実と考えて悪いと思いません。倭王に妻がいる部分は、

上令所司訪其風俗

ここからの続きと読んで良いと考えています。ここでの「上」とは隋帝を指します。これは想像ですが、見知らぬ遠い国(夷狄)の使節が来訪した時に、皇帝はその国の風俗を聞くのが一種の型になっていたように思っています。どんな国なのか、どんな王がいるのかは興味としても聞きたいところと思います。なぜに隋書倭国伝では倭王を男性とし、書紀では推古女帝になっているのかの説明が必要と思っています。これについては書紀では推古女帝になっているから問答無用としている気がどうしてもします。

ありそうな説明としては隋書倭国伝にある倭王摂政である厩戸皇子のものであるとの解釈です。ただこれも考えてみれば大王に失礼なお話で、政治の実権は摂政である厩戸皇子が握っていたとしても、国書の王はあくまでも大王であるはずです。また女性が王である事をあえて伏せたなんて説明もありますが、それも力業の気がします。もうちょっと引いて考えれば、

  1. 推古が女帝であるとしているのは記紀しかない
  2. 推古が男性としているのは隋書しかない
さてどちらを信用するかの問題の気がしています。