梅松論から考える湊川合戦と一の谷

前にも湊川合戦をやりましたがもう一度。


梅松論より

五月十日備後の鞆を立て、舟路・陸地同日御発向有り。舟は纜を解きて陸は轡(くつわ)を鳴らしぬ。先陳は、太宰少弐頼尚の二千余騎とぞ聞えし。

一度は九州まで追い落とされた尊氏が反攻を目指しての上洛戦が湊川の合戦です。上洛を目指す尊氏は九州・中国・四国の軍勢を集めて東に向かいます。この鞆に結集した後に海路軍(尊氏軍)と陸路軍(直義軍)に分かれますが、直義軍の目標は新田軍が包囲していた三石城の救援と見て良いかと思います。新田軍も三石城を包囲するだけでなく福山まで進出しているとなっていますが梅松論より、

  • 但だ播磨の赤松・備前の三石の城合戦の最中のよし聞え候処に、結句新田・江田某(=行義)、大将として馳下りて近日備中の福山に楯籠る間、今夕手分けせしめ、明日払暁に追ひ落とし火を上ぐべく候
  • 下部(しもべ)(=部下)走り下りて 云ふ、「すでに御方の大勢福山を責め落として飛入りて火を放つ間、敵皆落行よし」申し上げたり。時分柄実(まこと)に仏神の御加護と、頼母敷ぞ思し召しける。則ち陸地の御勢備前国へ責め入り給ひしかば、三石の城の寄せ手脇屋没落すと聞えしかば、下御所より飛脚を以て賀し申さる。

ただなんですが福山と三石の間は結構な距離があります。地図を見てもらいますが、

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新田軍が白旗山の赤松軍を攻めていたのは確実で、船坂峠を越えて三石も攻めるのは良いとして、福山まで進出するだろうかです。また新田軍が福山まで進出している状態で鞆に尊氏がいるだろうかの疑問はあります。三石から福山はチト距離があり、白旗山・三石には赤松軍が頑張っているのですから、そこまで新田軍が進出していたかどうかです。尊氏が鞆に進出したのは三石の新田軍と適度な距離を置いてのものと私は見たい所です。海路の尊氏軍は鞆の次が児島ですが、これは陸路の直義軍の進出に合わせてなら合理的です。まあそれでも、福山に新田軍に味方した勢力があったぐらいは想像は許されるところです。

結果として三石の新田軍は蹴散らされ、これに動揺した新田軍は白旗山の包囲も解いて湊川に撤収したぐらいでここは済ませます。梅松論より、

去程に備前三石の寄せ手の勢落上りしかば、新田義貞、赤松の城の囲みを解きて没落す。しかる間、陸地の大勢は播磨の掛河(=加古川?)に陳を取る。御舟は田室の泊(=室津?)に着き給ふ。翌日、赤松入道御舟へ参り申して云は、「今度円心が城に馳籠軍勢の着到(=名簿)并びに敵没落の時せめ口に捨置旗百余流持参す」

三石・白旗山の新田軍撤退後は陸路の直義軍は加古川に、海路の尊氏軍は室津に進んだようです。

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陸路の直義軍がかなり先行しています。当時は陸路に較べると海路は天候・風向きに左右されるのでたまたまそうなったのもありますが、見方によっては陸路の直義軍が陸上の安全を確保した後に海路の尊氏軍が進んでいるとも見えないこともありません。


湊川

梅松論より

海と陸の両陳見渡たりし間、明日五月廿五日兵庫の合戦のこと御談合の御使、夜の中に往復度々に及ぶ。当所において御手分けあり。大手は下御所、副大将は越後守師泰・大友・三浦介・赤松、播磨・美作・備前三ヶ国の惣軍勢なり。山の手の大将軍は尾張守殿(=斯波高経)、安芸・周 防・長門の守護厚東并びに軍勢共なり。浜の手は太宰少弐頼尚并びに一族の分国筑前豊前肥前・山鹿・麻生・薩摩の輩相随て向くべきにぞ定められける。

注目したいのは陸路です。直義軍は兵を三つに分けています。

これ以上は書かれていないので想像が必要ですが、陸路軍は加古川から明石まで山陽道を進んできたのは確実でしょう。明石まで来た時に海路の尊氏軍も

多くの船共廿四日の暮れ程に、御船を始として播磨の大蔵谷の澳(おき)にぞ碇(いかり)を下ろしてかゝり(=停泊)給ひし。四国船を本 船にて御先に走る。是も淡路の瀬戸、須磨・明石の澳にぞ泊まりし。

こういう状態ですから翌日の決戦のための打ち合わせが行なわれたとして良さそうです。陸路の三方面軍の具体的な攻め口ですが、

    大手・・・長坂越
    山手・・・鵯越
    浜手・・・山陽道
こう考えて良さそうです。でもって陸路軍は明石からさらに山陽道を東に進んだと見て良さそうです。

陸地の勢は一谷(いちのたに)を前にあて、むかし土肥次郎実平が陳取たりける塩屋の辺りより始めて、後は大蔵谷・猪名見野あたりまでぞ篝火を焼きたりし。

塩屋まで進んだ上で3つに別れたとしてよい気がします。塩屋から3つの攻め口に向かうには浜手はシンプルでそのまま山陽道を東に進みます。大手は前に調べましたが、

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塩屋から多井畑に北上し、奥妙法寺から長坂越に向かいます。山手は大変で、奥妙法寺から白川峠を越え藍那近くまで北上してから鵯越道に至ります。


合戦

梅松論より、

  1. 陸地の御勢も同く打立て、一谷を馳越すと見えし程に、辰の終り(=午前九時頃)に兵庫島を近く見渡したりければ、敵は湊河の後の山より里まで旗をなびかし、楯を並べて罄(ひか)へたり。是は楠大夫判官正成とぞ聞えし。
  2. 時移りて巳刻(=午前十時頃)に御方の三手の勢、山の手、須磨口、浜手同時に向ひしが

1.は浜手の少弐軍の描写に思えます。理由は「兵庫島を近く見渡したりければ」で、近く見えるのは浜手軍のみ可能です。これが辰の刻となっていますが、大手・山手軍が攻め寄せたのは巳の刻となっています。合戦前夜に塩屋まで寄せているのですが、源平の時のように卯の刻の矢合せになっていないようです。この辺は海路の尊氏軍の動きが遅れたのか、三方面に分けた陸路軍が合戦場に到着する時間帯を調整したのか不明です。たしか太平記では尊氏軍はえらい巧妙な戦術を取っており、

  1. 細川定禅の海路軍が新田軍の後ろに回りこむ行動を見せる
  2. これに釣られた新田軍が動く
  3. がら空きになった兵庫島に尊氏上陸
ただ足利方の梅松論を読む限り、そこまで巧妙な戦術を施した記述は無い気がします。つうか、そういう小細工無しに陸路三方面から新田軍を追い落としたぐらいで良さそうな気がします。湊川合戦の双方の兵力はいつもの通り不明なんですが、三石・白旗山から逃げ帰った新田軍は尊氏軍よりかなり少ないのは確実と考えて良いとは思っています。尊氏軍の戦術は大軍の利を活かす事で、これが陸路三方面と海路からの包囲戦術になったぐらいに考えています。

湊川合戦は大雑把に分けると前半が「義貞 vs 尊氏」で後半が「正成 vs 尊氏」です。どうも時刻関係からすると午前中に義貞軍は敗走し、取り残された正成軍に午後から尊氏軍は襲い掛かったようです。

定禅、義貞には目をかけずして、湊川に楠正成残て大手の合戦最中のよし聞えしかば、下御所の御勢に馳加て責め戦ふほどに、申の終り(=午後四時過ぎ)に正成并びに弟七郎左衛門(=正季)以下一所に自害する輩五十余人、討死三百余人。

これが申の刻までかかっています。これも想像なんですが尊氏にとって義貞は同族のライバルであり、出来れば討ち果たしてしまいたいの思いはあった気がします。一方の正成に対しては出来れば味方に引き込みたいの思惑があったんじゃないかと考えたりしています。あくまでも想像ですけどね。


一の谷

またかと思われる人が多いと思うのは遺憾とさせて頂きます。梅松論の作者は一の谷の位置を正確に知っていたんじゃないかと見ています。湊川合戦で一谷は2ヶ所出て来ます。まず

陸地の勢は一谷(いちのたに)を前にあて、むかし土肥次郎実平が陳取たりける塩屋の辺りより始めて、後は大蔵谷・猪名見野あたりまでぞ篝火を焼きたりし。

通説の一の谷との位置関係は、

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塩屋からなら「一谷(いちのたに)を前にあて」は地形的に矛盾はしません。ここはエエのですが次の個所です。

陸地の御勢も同く打立て、一谷を馳越すと見えし程に、辰の終り(=午前九時頃)に兵庫島を近く見渡したりければ、敵は湊河の後の山より里まで旗をなびかし、楯を並べて罄(ひか)へたり。是は楠大夫判官正成とぞ聞えし。

「馳越す」をどう解釈するかで話は変わりますが、私は一谷を通り過ぎた時点で「兵庫島を近く見渡し」湊川の正成の陣地が見えたと解釈したいところです。

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青線が山陽道ですが、破線で示したルートは兵庫島への連絡のために清盛の時に設けられたなっています。この辺まで古代の兵庫津は入江状になっており、さらに兵庫津は兵庫島と言われるように海上に存在しています。おそらく道が曲げられたあたりに兵庫島からの船着場あったはずです。兵庫島がこのあたりなら正成が陣を敷く会下山も近くに見えます。一方で駈越した通説の一の谷はかなり離れている事がわかってもらえるかと思います。梅松論に出てくる「一谷」「兵庫島」「湊河の後の山(会下山)」は素直に読んで一望というか、かなり近い位置にあると考えるのが妥当です。

これが私の丸山一の谷説なら、かなり無理が少なくなります。ここも修正が少し必要で、梅松論が指す一の谷は丸山というより、高取山と会下山の間の地域を指す気もします。ちょうど長田神社から北側一帯です。そう仮定すると一谷を駈越したぐらいのところで、兵庫島が近くに見えますし、会下山の正成勢を臨む位置になります。具体的にはこんな感じです。

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今日はこの辺で。