日曜閑話73

久しぶりに一の谷です。つうか大輪田の泊を中心に地味なムックです。


清盛時代の大輪田の泊の推測

まずはwikipediaより、

大輪田泊は、和田岬の東側にいだかれて天然の良港をなし、奈良時代から瀬戸内海を航行する際の要津であった。和田岬は、六甲山地から現在の大阪湾に流下する湊川・苅藻川・妙法寺川によって運ばれた土砂が、さらに潮汐によって集積して形成された砂嘴であった。

古代の地形を推測するのは大変なんですが、湊川和田岬を形成したのはわかります。ただ苅藻川・妙法寺川は和田岬と少しずれます。一方で3本の川は位置的にさほど離れている訳ではありません。湊川による和田岬砂嘴状の形成をしていますが、苅藻川・妙法寺川の堆積物は砂嘴状にならなかったんじゃないかと考えています。流された土砂が海岸線に横に並ぶような形だったんじゃなかろうかです。和田岬が北側に砂嘴状に突きだす一方で、その懐の海岸線沿いに小島状の陸地を形成したぐらいの想像です。これもwikipediaからですが、

平安時代には、『日本後紀』の弘仁3年(812年)6月条に大輪田泊修築のことが記されるのをはじめ、造大輪田船瀬使がおかれ、防風と防波を兼ねて石の堤(石椋)を築くなど、たえず修築がおこなわれ、その経費を充当するため勝載料もしくは船瀬庄田稲を徴収していたことのあったことが各種の文献資料で確認されている[1]。とくに、泊の西方向には和田岬があって西風の波浪には安全であったが、南東方向は海にひらけており南東風のため諸船がしばしば難破した

初期は島状のところを船着き場にしていたと考えています。ところが南東風の時には島ごと崩れる様な状態が起こったぐらいです。ここで清盛ですがwikipediaより、

承安4年(1174年)、推定面積37ヘクタールの人工島経が島が竣工し、翌1175年には修築工事を終えた。

これは経が島を作ったと言うより大規模な護岸工事を指している気がします。従来は南東風に崩されていましたが、護岸工事により入り江状の港を建設したぐらいの想像です。どんな感じであったかですが、2012.8.4神戸市教育委員会 兵庫津遺跡現地説明会資料元禄時代の兵庫津の推測図があります。

これとて元禄期であって清盛時代とは違うのですが、現在よりはマシと言う所です。まず兵庫城のすぐ北側に入り江があります。これが清盛時代に作られたものの名残じゃなかろうかです。剥きだしの海岸線に停泊させていたのでは南東風に弱かったので、完全に入り江の船着き場にしたぐらいの想像です。当然ですが湊の中心はこの入り江の周囲になります。清盛時代はこの入り江の船着き場一帯が大輪田の泊だったと考えます。

もう一つ注目したいのは、兵庫城の南側に大きな遊水地が認められることです。これは苅藻川・妙法寺川の流れが大輪田の泊の西側を流れていたためと見ます。海岸線の港付近が気持ちぐらい盛り上がっているのに対して、大輪田の泊の西側地帯は苅藻川・妙法寺川が流れ天然の濠になっているのと同時に広い範囲の低湿地帯を形成していた可能性です。一遍上人縁起にある

銭塘三千の宿、眼の前に見る如く、范麗五湖(太湖)の泊、心の中におもい知らる

この描写は一遍上人が兵庫津に上陸した時のものとされています。一遍上人が兵庫津に来たのは一の谷の合戦の100年後ぐらいですが、元禄期よりも大輪田の泊の西側の遊水地・低湿地帯は広大であった傍証になるかと考えます。それと一遍上人縁起には一遍上人が上陸したのは「兵庫島」と言う表現を取っています。つまりは大輪田の泊は島状の港であったとも解釈できます。具体的なイメージとして残されているのは摂津名所図会ぐらいしかないのですが、

絵の後ろに描かれている山が再び山です。絵図は来迎寺(築嶋寺)周辺の様子を海の方から描写していますが、来迎寺(今も同じ場所に現存します)は完全に島状になっており、島と島の間に水道が設けられ、そこから入り江の中に船着き場が形成されている様子になっているのが判ります。ここから考えると清盛時代の大輪田の泊は
  1. 防波堤兼用の島(経が島)が幾つか作られた
  2. 島の浜側に入り江を設けて泊にした
  3. 港湾施設は島に設けられた
  4. 大輪田の泊と福原方面の連絡は砂嘴である和田岬方面で行った
でもって大輪田の泊は浜側は苅藻川による低湿地帯が広がっていたぐらいです。どれぐらいの規模であったかは一遍上人縁起の描写ぐらいしかないのですが、傍証を2つばかり挙げてみます。


傍証その1 湊川の合戦

この大輪田の泊の一帯では一の谷からもう一度大きな合戦が行われています。南北朝時代湊川の合戦です。細かな経過は省略しますが主な大将は、

攻める北朝方の方が軍勢として優勢で、劣勢の南朝方は湊川で迎え撃つぐらいです。でもって北朝方は陸路と海路の二手に分かれて湊川を目指します。北朝方の動きを南朝方は心得ていたようで、義貞は大輪田の泊に、正成は会下山に陣を取っています。これって不思議と思いませんか。たしかに尊氏は水軍で西進しています。上陸地点として大輪田の泊を想定するのは良いとしても、大輪田の泊と正成のいる会下山の間の守りはどうするんだと言うところです。

南朝方は塩屋方面まで出張って守る余力はなかったと見て良いのですが、直義の陸軍が西進してきます。直義軍は塩屋の険を通り抜けたら、広く展開して大輪田の泊の新田軍を包囲する事だって可能なはずです。しかし直義軍もまたその戦術を取りません。西国街道方面にも別動隊を進ませはしますが、直義自身は白川道から長柄越を進みます。それ以外にも陸軍は鵯越道、白川道に軍を分けて侵攻します。大輪田の泊周辺の足場がソコソコであるなら一番常識的な北朝方の戦術は、

  1. 直義の陸軍が塩谷方面から進み大輪田の泊の新田軍を包囲攻撃する
  2. そうやって新田軍を追い払ってから尊氏が上陸するか、直義軍が攻撃している背後から尊氏が上陸作戦を敢行して挟み撃ちにする
だいたい正成がポツンと会下山に陣を構えたところで役に立たないんじゃなかろうかです。ところが実際の合戦の推移は、
  1. 尊氏の別動隊水軍は大輪田の泊を通り越して魚津ぐらいから上陸の構えを見せる陽動作戦を取る
  2. 新田軍は退路を取られてはならないと釣られて動く
  3. 新田軍が動いた後に大輪田の泊から尊氏は上陸
  4. 残された楠木軍は包囲殲滅を喰らう
何が言いたいかですが、湊川合戦当時も大和田の泊の北側・西側には通行できない地域が広がっていたと見るしかない気がします。正成が会下山に陣を構えたのは東に抜ける道はここしか存在していなかったためとするのが妥当な気がします。正成にすれば会下山で千早赤坂をやろうぐらいでしょうか。一方の北朝方の陸軍は正成に千早赤坂をやられては厄介なので長柄越、鵯越道の2方面にも軍勢を回しての包囲戦を行ったぐらいの見方です。


傍証その2 平家物語

一の谷の合戦は源氏軍が東西の木戸を挟撃する作戦が行われているとなっています。平家物語の記述もそうなっており、東の木戸の激戦の様子はかなり具体的に描かれています。ところが西の木戸の戦いに関してはかなり曖昧な記述になっています。とくに不思議なのは大輪田の泊の攻防戦についての記述が少ない点です。平家に取って海は生命線であり、補給路であると同時に万が一の時の脱出路です。西から攻めるにあたっては本営の一の谷より、福原よりも重要戦略拠点になります。極端な事を言えば大輪田の泊を源氏に奪取されると一の谷の平家軍は逃げ場を失って全滅しかねないぐらいです。

西の木戸を目指した源氏搦手軍が攻撃を集中するなら大輪田の泊になりそうなものですが、義経が目指したのは一の谷です。これはどう考えても西から平家陣地を攻めたてても、直接には大輪田の泊を攻められない状況にあったとしか考えようがありません。そこから西の木戸は大輪田の泊からかなり西側に設けられていたはずの推測が出てきたのだと考えます。つまりは塩屋あたりに西の木戸があるです。しかし塩屋なんかに西の木戸があると平家陣地は非常に広大になります。広大になるだけでなく防御地点も広がります。これは前にも考察しましたが、

  1. 西国街道(浜沿いの街道)
  2. 西国街道の古道(多井畑に抜ける道)
  3. 白川道妙法寺に通じる道)
白川道が当時軍勢が通れたかどうかは微妙ですが、1.と2.の道は合戦時にも健在です。当然ですがその方面にも守備隊を派遣し、防御陣地を構築する必要があります。大輪田の泊の地形を上で長々と考察していたのはそのためで、当時は大輪田の泊に西から軍勢が接近するのは困難だったとみたいところです。大輪田の泊への連絡路は、これしかなかったと見ます。だから義経の奇襲によって混乱を来した平家軍は敗走しながらこのルートをたどり大輪田の泊を目指したぐらいです。逆に言えばそう出来るように平家陣地全体のデザインが為されていたと考えます。一の谷は源氏の大勝になり平家は多くの有力武将を失いはしましたが、それでも全滅しなかったのは大輪田の泊を最終段階まで保持していたため、つうか源氏も他を攻め落としてからでないと行けなかったからと私は考えます。


オマケの一の谷比定

明治期の地図を基にした地形図を示します。

丸山一の谷説は前にやったので簡略にしますが、前回までは明泉寺のあたりの奥まったところを想定していました。明泉寺が仮御所ぐらいの可能性もあるぐらいです。建物にこだわったのは、福原は平家都落ちの時に焼き払っています。一の谷まで安徳天皇が来ていたかどうかについても意見が分かれるそうですが、来ていたと仮定すると建物が必要だからです。ここで仮御所にするのに相応しい建物と言う観点で考えると、明泉寺より長田神社の方が良いんじゃなかろうかと考えた次第です。まあどう考えても平気陣地の内ですから源平合戦に関わっているはずです。

そう考え直すと一の谷は明泉寺がある一番奥だけを指すのではなく、長田神社から奥すべてを指していたんじゃなかろうかです。福原方面への交通は当時も会下山の北側が街道として整備されています。つまり福原から会下山を越えて長柄越を行う道です。会下山の南に広がると推測している低湿地帯は川船程度なら交通できると考えれば、会下山経由の陸路と水路の2つで大輪田の泊と連絡している事になります。それなら長田神社記にそれ関連の事が何か書き残されているはずだと調べてみたんですが、、

中世以降兵乱相襲ぎ社記旧記多くは散逸せられ、又寛文二年祠官大中の火災に罹り古記録を灰燼に帰したりと云へば、其詳細を知るに由なきに至る

残念ながらなんにも記録は残っていないそうです。


この丸山一の谷説のネックは、西からの攻撃に対して縦深性が欠ける点です。東からなら生田の森の前線と福原の二つの防衛線がありますが、西側は一の谷本営に直接攻撃がかけられます。ここについては平家も源氏の攻撃は東側が中心になると想定していた気がします。源氏が来るなら京都方面からになりますから、普通に考えれば東側から攻めてくるとするのが常識的発想でしょう。東側からの攻撃を想定すると、生田の森の前線で防ぎながら、福原から適宜援軍を送る体制が成立します。一の谷は会下山を挟んでさらに西側になりますから、東からの攻撃で危なくなれば陸路なり水路で大輪田の泊に容易に行けるぐらいの戦術構想でしょうか。

源氏が大手・搦手の二手に分かれたのは「平家はそうしているはず」と見たからだと考えます。東からの攻撃だけでは突破は容易でないの判断です。大手の東に較べると西は弱い、ないしは西からも圧力を加える事により東側の平家軍が少しでも減ってくれないかの期待ぐらいです。平家も陣地構成からして西と北に弱点がある事を知っており、義経の動き、とくに三草山での敗北を大きく受け取っていたかもしれません。この辺は散々やったので、今日はこれぐらいで。