兵庫津ムック7・経が島再考

兵庫津ムック3・経が島はどこだの焼き直しですが、もう少し情報を詰め込んでやり直してみます。手法も前回同様で福原会下山人氏の町名由来記を大いに参考にさせて頂きます。


湊川

六甲の川の物語より、

湊川が流れていたと考えられる筋には、「上沢」「下沢」「永沢」などの水の流れに関係する地名の他に、湿地を思わせる「柳原」や、海岸に近いところの「三川口」などの地名が残っています。

ここについては町名由来記に

永沢町、沢をソと読む、昔はナガソというていた、今はエイザワと呼ぶ、兵庫の廓外で純農地であった、ナガソグチと普通に呼んでいた、上沢下沢の地が旧湊川の河床で、卑湿であった如く、永沢の地も旧湊川の分流や絵下山一帯の水が落ちて都賀堤に支えらるる所である。

上沢・下沢は古湊川の河床としていますが、永沢については支流としています。

三川口町、三川口も江川口、永沢口と同じく兵庫の廓外であった、兵庫廓外の水流が此地方い集って東にも西にも南にも分れていた、由来兵庫地方は経ケ島築造以前は水戸川の水脈が網の目のように混乱していた、天平の時代には此辺を総称して宇治の郷と呼でいたのは、渡頭の多い地であったからである

三川口も由来的には3本の川というより、多くの細い川が錯綜していたところぐらいの解釈の方が正しそうです。それと

羽阪通、昔は今の八王寺の西一帯の小高い地であったという、彼の平相国が須佐の入江の海面三十町歩を埋め立てて経ケ島を築いた特に、塩槌山を潰したと言い伝えておるが、此塩槌山というのが宇治野山や安養寺の如く独立丘であって、今の羽阪通辺にあったものと見える、埋立に潰した残りの地が後でも少し小高くなって、羽阪と呼んでいた、羽阪の突角が入江に突き出た所が、浜ケ崎とも、針ケ崎とも呼ばれていた、旧湊川は此崎の西手を流れていた、渡り瀬という名があったのも此の為である

羽坂の西側を古湊川は流れていたとしています。ここは会下山人氏の主張を取りたいと思います。これは地図で見ると、

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湊川遊園が旧湊川なのですが、地図で見える根っこあたりから古湊川が始まっていたと考えて良さそうです。そこから上沢・下沢を通ったとして、永沢や三川口を経由するとかなり北側に屈曲してしまうからです。ここは下沢から羽阪に流れる方が自然です。この柳原ですが、

逆瀬川町、平家物語重衡落ちの条に逆手川とあるものこれである、逆瀬川は旧湊川の支流で、此川も名の如く随分厄介な川であったと見える、東の御土堰川というのがある、俗にオトヨ川という、都賀堤という御土居の外を流れる川で、柳原が分水地であった、東の水は御土堰川に、西の水は逆瀬川に落ちるのだ、分水地の岡は所謂昔の岡方で此地方は一段高い、清盛時代に花見の岡の御所というのがあったのもここである、又宝積の岡といっていたので、能福寺の山号に宝積山とつけているのも此ためである、此岡の西手に逆瀬川があって、兵庫の浜が満潮になると、河の水が逆流してどうにも始末に困ったと見える

羽阪の東隣が柳原で、柳原が分水地となって古湊川から逆瀬川が分流していたようです。逆瀬川は現在の町名にも残っていますが、問題はここからどこを河口にしていたかです。

  • 藤原通、蘆原という古名があったのを其まま町名にした訳で、由来此地は水門川の落ち口と、須佐の入江の汀などで、蘆荻の叢生していたので直覚的に名を呼んだのである。
  • 松原通、これも古名其儘を町名とした、福原遷都の頃、公卿達に和田の附近に邸地を給わるにつき、中山大納言が湊川を高瀬船で上りつつ和田の松原西の野を点検し云々とある、昔の水門川の西岸及び和田山へかけて一面の小松原であった、松原口という地名が旧西柳原の西にある、これは和田の松原へ通ずる口であったからである。

芦原通からは大輪田の泊の石椋が発見され兵庫津の道を歩こうガイドには

平成15年確認調査が行われ、古代の港湾施設と考えられる奈良時代から平安時代の中頃の大溝と建物の一部が発見されました。

そうなると芦原通まで須佐の入江は入り込んでいた事になります。でもってこの辺りには清盛時代からのランドマークが残されており、現在の真光寺は清盛が建てた八棟寺(能福寺)の東半分とされます。つまり古湊川は八棟寺の東西どちらかを流れていたことになります。

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ここは逆瀬川の地名から八棟寺の西側を古湊川、東側を逆瀬川と取りたいところです。


平安期の汀線

六甲の川の物語より、

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この地図の汀線は東は宇治川から始まっていますが、にしになぞると窪みがある個所があります。ここは佐比江になり、そこから半島状のものが見えますが、これは七宮神社にあたります。ここは微高地になっているようです。そこから古湊川河口部につながっていきますが、須佐の入江は上で考察したようにもう少し深く切れ込み、古湊川ももう少し西側に流れ込んでいたと見たいところです。


経が島と築島

町名由来記より

関屋町、これは兵庫関を設けられていた遺址である、兵庫の関は海関で税関の事務所であった、建久七年に東大寺の俊乗坊重源が兵庫の港を改修して其結果東大寺鎮守八幡宮の修復料として兵庫港へ入津の公和船に対して石別一升の課役を徴したのが、永い間の恒例となった

関屋町が兵庫の関由来となっており、これが正しければ清盛時代の大輪田の泊の一角になります。それだけでは経が島にするには力不足なので兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書の地図を見てもらいます。

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兵庫城は関屋町の北側に隣接と言うより食い込むように位置しています。つまりは兵庫城の南端になります。この兵庫城築城に当たっては能福寺の寺伝に築島堀の北半分を埋め立て、さらに南側の入江を拡張したとなっています。地名を見ると南側に拡張した部分は新在家です。これは関屋町が兵庫津の南限であったことを意味していると解釈して良いんじゃないでしょうか。経が島建設については福原会下山人氏の

    第1期工事:防波堤としての経が島建設
    第2期工事:港湾施設としての築島建設
この説が合理的なので傾いています。大輪田の泊の弱点は南東風であったとされますが、清盛が古大輪田の泊から新大輪田の泊に移動させても地形的には解消しません。むしろ悪化したと見る方が自然です。そのために人口の和田岬である経が島を築いたとするのは工事手順としても順当です。当時の事ですから防波堤といっても現代程度の薄い構造では耐えられず、かなりの幅のある島が必要であったと考えます。この経が島工事が難航したのは、どれぐらいの幅なら防波堤として耐えられるかの試行錯誤が必要となり、作ったものの嵐で崩壊したことがあったぐらいを想像し、それが松王丸伝説につなっがったぐらいでしょうか。

ただ第2期工事が港湾施設であったかは微妙です。港湾施設でもあったと思いますが、それよりも南東風以外の風対策だったんじゃないでしょうか。南側の経が島だけでなく、西側にも防波堤を作り湊ごと囲ってしまうプランです。兵庫津遺跡第52次発掘調査報告書の築島船入江を見て欲しいのですが、船着場は完全に袋状になっています。でもって島上町にある来迎寺(築島寺)当時と同じ場所に存在します。ここも築島の一つで良いと思いますが、その南隣の船大工町も築島であったとみます。この2つの築島を築くことによって船着場は防波堤の内側になります。

経が島も含めてですが、この3つの人工島は完全に島だったと考えています。とりあえず船大工町と関屋町の間にある新町の由来は、

新町、兵庫の船入場は経ケ島時代の面影が幾分残っていた、新川開鑿の頃に此船入場は埋立てられた、そこに新町は出来たので、幾念経っても新町である、浜新町も同様である。

新町は築島船着場を埋め立てて出来上がったもので、これは明治期のお話ですから会下山人氏にとってはごく最近のお話です。経が島と2つの築島が完全に島だった理由として摂津名所図会で島に渡る橋が描かれていたのと、一の谷の合戦時に敗走する平家軍が最後まで拠点として維持できたこと、さらには西から攻めてきた土肥実平軍が大輪田の泊を見向きもしなかった点です。当時の騎馬武者は宇治川は渡れても経が島や築島には渡れなかったぐらいでしょうか。


清盛の構想

上で考察してきたことを地図に落としてみます。

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少し補足しておきますが、西国街道は江戸期の道ですが、もともとは福原から大輪田の泊を結ぶ道であったで良さそうです。西国街道は札の辻で直角に曲がりますが、こちらは山陽道に向かう道で良いと思います。大輪田の泊は平家滅亡後も兵庫津として江戸期も栄えていますから、直線的な山陽道ではなく兵庫津を経由する西国街道が官道として整備されたぐらいを考えています。古湊川時代なら川を渡らずに大輪田の泊と福原を歩けたんじゃないでしょうか。

さて清盛が古大輪田の泊から新大輪田の泊に移した理由ですが、まず南東風対策でなかったで良いと思います。南東風対策ならむしろ逆効果にしか見えません。それよりも古湊川による水害と、水深の低下対策のためのように思います。古湊川も暴れ川でしたが、水害は流域はもちろんのこと、河口の大輪田の泊にもあったと考えるのが自然です。そのために新しい湊を作ろうとしたのが根本の気がしています。それなら佐比江でも良さそうなものですが、清盛が構想したのは、より理想的な湊を作る事だった気がしています。それが防波堤に囲まれた湊だったんじゃないでしょうか。

もちろん根拠地の福原に近いだけでなく、新都の計画を持っていた和田京との連動も大事だったでしょうが、素直に見て無から有を作り出すぐらいの大工事に思えます。どう考えても莫大な投資が必要ですが、それに耐えられる財力と完成した後の投資の回収について余程の自信があったとぐらいは言えそうです。それにしても、これほど雄大な規模での土木工事を行った人物は、歴史上でも少ない気がします。音戸の瀬戸の掘削工事もそうですが、流通による経済効果を良くわかっていた人物なのは間違いなさそうです。