戦前の医学部の変遷

ある有識者と「見なされている人」への反論みたいなものです。頼まれ仕事なんですが興味深いムックになりました。


医学部の源流

モトネタは

ここから引用させて頂いています。まず1874年に医制が公布されています。それまでは自称で良かったものが国家が許可する制度になったぐらいで良いかと存じます。移行期には定番のドサクサもあったようですが1875年に医師開業試験が行われるようになり、医師を目指す者はこの試験に合格する事が必要となっています。医学部と言うか医学校の始まりは、この医師開業試験のための予備校として出来たぐらいで良さそうです。もちろん医師開業試験の前から医学校は存在していますが、現在の医学部的なものは医師開業試験に合格するための学校をルーツとしていると考えても大きな間違いではないように考えます。でもって医学校ですが

公立の医学校は1880年明治13年)に30校に達し、その数を保ち続けた。一方、私立の医学校は1879年(明治12年)で25校に達したが、その翌年からは急速に減少した。

数としてこれぐらいあったようですが、質としては玉石混交が著しかったぐらいの理解で良さそうです。そのために医学校を甲乙の2種類に分け、甲種の医学校は無試験で医師免許を交付される事になっています。どうも現在の医学部卒業生にのみ医師国家試験受験資格が与えられる枠組みの始まりみたいなものに感じます。ここで甲種と認定された医学校は1885年時点で21校となっています。これも表を引用して示します。

学校名 設立年 甲種認可 その後
長崎医学校 1871 1882.5 第五高等中学校医学部
京都府医学校 1872 1882.11 京都府立医学校
広島病院附属医学所 1872 1884.3 廃校(1886年3月)
新潟医学校 1873 1883.8 廃校(1888年3月)
石川県金沢医学校 1875 1884.3 第四高等中学校医学部
秋田医学校 1875 1883.8 廃校(1887年)
岩手県医学校 1876 1884.8 廃校(1886年3月)
愛知県医学校 1878 1883.1 愛知県医学校
熊本県医学校 1878 1883.3 廃校(1888年3月)
神戸病院附属医学所 1879 1882.12 廃校(1888年3月)
宮城医学校 1879 1883.6 第二高等中学校医学部
徳島医学校 1879 1883.6 廃校(1886年12月)
岡山医学校 1880 1882.5 第三高等中学校医学部
大阪府立医学校 1880 1882.5 府立大阪医学校
三重県医学校 1880 1883.6 廃校(1886年3月)
福岡医学校 1880 1883.6 福岡県立福岡病院
大分県立医学校 1880 1884.7 廃校(1888年3月)
福島医学校 1881 1884.5 廃校(1887年3月)
県立千葉医学校 1882 1882.10 第一高等中学校医学部
和歌山県医学校 1882 1883.3 廃校(1887年3月)
県立鳥取病院附属医学校 - 1885.7 廃校(1886年11月)
この中に帝国大学(東大)が入っていませんが、帝国大学は医学校の甲種認定以前から日本唯一の大学として無試験で医師免許を交付される事になっていました。その帝国大学も含めた22校がある意味現在の医学部の源流になるとして良さそうです。今日のテーマ的にはこの22校の分布が問題になります。これも表にしてみます。
地域 学校名
北海道 なし
東北 秋田医学校
岩手県医学校
* 宮城医学校
* 福島医学校
関東 東京大学
* 県立千葉医学校
北陸 新潟医学校
* 石川県金沢医学校
東海 愛知県医学校
* 三重県医学校
近畿 京都府医学校
* 神戸病院附属医学所
* 大阪府立医学校
* 和歌山県医学校
中国 広島病院附属医学所
* 岡山医学所
* 県立鳥取病院附属医学校
四国 徳島医学校
九州 長崎医学校
* 熊本県医学校
* 福岡医学校
* 大分県立医学校
この甲乙の分類表は明治18年(1885年)時点のものなんですが、問題の東北には4校、全国の分布からしても多い方に入ると素直に見れます。また問題の福島医学校も甲種認定を受けています。ここだけでムックをやめても良いぐらいですが続きもやります。


森有礼の改革

1886年森有礼は教育制度の大改革を行っています。帝国大学に入るための高等教育機関として第一〜第五の高等中学校と山口高等中学、鹿児島高等中学校造士館の7つのいわゆる旧制高校を整備します。帝国大学への進学は7つの高等中学校(後の旧制高校と理解して良いと思います)でないとならないとしたぐらいです。この時に甲種医学校も大整理されます。どうなったかと言うと、

学校名 場所 医学部
第一高等中学校 東京 千葉医学校を移管
第二高等中学校 仙台 宮城医学校を移管
第三高等中学校 大阪 岡山医学校を移管
第四高等中学校 金沢 石川県金沢医学校を移管
第五高等中学校 熊本 長崎医学校を移管
山口高等中学校 山口 医学部設置せず
鹿児島高等中学校造士館 鹿児島 医学部設置せず
山口と鹿児島に高等中学校が設置されたのは薩長政権の意向があったとしても良いとは思います。ただし医学部に関しては設置されていません。そしてこの改革により無試験で医師免許を交付される学校は
  • 帝国大学
  • 第一〜第五高等中学校
  • 大阪、京都、愛知の医学校
残りの医学校は従来の甲種認定が取り消され、そのためかバタバタと消滅したものも多くあったようです。この改革は22校もの医学校が無試験の資格を持つのは多すぎるの考え方と私は素直に感じます。やはり甲種とは言ってもある程度の玉石混交があったぐらいでしょうか。そのために数を絞ったうえで県立から国立に移管して教育水準を高めようとしたのが狙いぐらいと見ます。。


制度はさらに変わる

まず京都にも帝国大学ができ、さらに福岡にも京都帝国大学福岡医科大学が出来ます。帝国大学医学部は3つになった訳です。これに加えて1903年に専門学校令が出来ます。帝国大学以外の高等教育機関の教育水準の確保を狙った政策と考えます。様々な経緯があるのですが、まず第一〜第五高等中学校の医学部ですが、

校名 分離 大正年間
第一高等中学校 千葉医学専門学校 千葉医大
第二高等中学校 仙台医学専門学校 東北帝国大学
第三高等中学校 岡山医学専門学校 岡山医大
第四高等中学校 金沢医学専門学校 金沢医大
第五高等中学校 長崎医学専門学校 長崎医大
第二高等中学校から東北帝国大学への移行は一旦廃校となり後に復活する経緯を取っています。とりあえず3つの帝国大学医学部と5つの医学専門学校がまず無試験校としてあり、さらに京都・大阪・愛知に3つの公立医学校がありました。さらに私立で東京慈恵医院医学校と熊本医学校が明治35年には無試験校として認可されていたとなっています。それでは試験が必要な予備校的な私立学校はどうであったかですが、
    済生学舎、京都医学校、大阪慈恵病院医学校、関西医学院
この4校があったとなっています。


追っかけるとキリがない変遷

とりこぼしもありそうなところですが、そこには目を瞑って3つの帝国大学と5つの医学専門校体制のうち5つの医学専門学校の推移として、東北帝国大学に移った仙台医学専門学校以外の4校に加えて新潟医大、熊本医大が昇格します。この6つの医大を俗に「旧六」と称します。帝国大学も七帝大体制となり、さらに私立も認められるようになります。1939年時点の医学部の一覧表があったので引用します。

区分 種別 学校数 学校名
官立 帝国大学医学部 7 東京、京都、九州、東北、北海道、大阪、名古屋
医科大学 6 千葉、岡山、金沢、長崎、新潟、熊本
公立 医科大学 1 京都
私立 医科大学 2 東京慈恵会、日本
大学医学部 1 慶応義塾
大学専門部医学科 1 日本
医学専門学校 8 東京女子、東京、帝国女子、大阪高等、岩手、昭和、大阪女子高等、九州
全部で26校で帝国大学が7校、官立医大が6校、公立医大が1校、私立が12校です。この後に戦時体制に移行し医専がドカドカ作られるのですがそこは割愛させて頂きます。


感想

1939年時点の医学部の分布を地域別に分類し直します。

地域 学校名 所在地 旧藩
北海道 北海道帝国大学 札幌 松前
東北 東北帝国大学 仙台 伊達家
関東 東京帝国大学 東京 将軍家
* 千葉医科大学 千葉 堀田家
北陸 新潟医大 新潟 牧野家
* 金沢医大 金沢 前田家
東海 名古屋帝国大学 名古屋 尾張徳川家
近畿 京都帝国大学 京都 朝廷
* 大阪帝国大学 大阪 天領
* 京都医科大学 京都 朝廷
中国 岡山医科大学 岡山 池田家
四国 なし
九州 九州帝国大学 福岡 黒田家
* 長崎医大 長崎 天領
** 熊本医大 熊本 細川家
今日のテーマ的には幕末時に官軍派(討幕派)であったか賊軍派(佐幕派)であったかがポイントになります。その官軍派なんですがガチは長州と薩摩だけです。土佐は郷士階級が討幕、山内容堂を始めとする上士階級が佐幕派で、壮絶な藩内闘争の末にギリチョンで官軍派に流れ込んだぐらいでしょうか。肥前になると中立の立場を取り続け土佐よりさらに遅れての合流組としてよいでしょう。それ以外では芸州浅野家が比較的早期に討幕派の姿勢を示しているぐらいです。幕末に四賢侯とされた宇和島伊達宗城も最終段階では存在感を失いますし、福井の松平春嶽も家柄から積極的に動けなくなっています。戊辰戦争時点では多数の藩が官軍として参加していますが、その殆どは鳥羽伏見の後の勝ち馬組です。土佐や肥前もそれに近いのですが扱いとしてはその他大勢ぐらいでしかありません。

佐幕派京都守護職に任じられた会津を筆頭に、京都所司代の桑名、さらに奥羽列藩同盟を結んだ東北から越後の諸藩になると見ます。後は言いだすとキリがないので、この程度でだいたいの色分けぐらいとして良いでしょう。で、賊軍の象徴となったのがまず会津です。会津戦争戊辰戦争の山場の一つです。もう一つの激戦地として越後長岡があります。ここも北越戦争として戊辰戦争に名を残しています。冒頭に挙げたある有識者と「見なされている人」は福島に国立医学部がないのは会津が賊軍であったせいであり、東北全体にも少ないのは同様の理由であると何度も繰り返し主張されております。

その主張なんですが賊軍として激しく戦った越後長岡藩に旧六の一つである新潟医大が成立しているのをどう説明されるのでしょうか。まあ幕末期から京都守護職として佐幕派の筆頭として活躍した会津と、戊辰戦争時に登場した越後長岡藩では官軍からの報復の度合いが違うぐらいは説明されるかもしれません。ただそれが成立するなら東北の会津以外の諸藩もまたそうであり、そこのところをどう説明されるかは興味深いところです。それよりもっと目を広げて見たい所があります。1939年時点で官公立の医学部は14校。私学を含めても26校しかないのですが、京都を除いて考えると賊軍県に医学部を設置しなかったと言うよりも、

    旧有力官軍派の県には医学部を配置しなかった
こう見る方が正しい気がします。実際にいわゆる薩長土肥には医学部がありません。旧制高校が出来た時には長州に山口高等中学校、鹿児島に鹿児島高等中学校造士館を設けていますが、そこには医学部を含ませていません。


維新政府は薩長政権と言われたぐらいで旧長州藩、旧薩摩藩の出身者が多く登用されています。維新政府もある種の革命政権ですからそれぐらいはやっても何の不思議もありません。身内の論功行賞をおろそかに出来ないからです。ただそういう官僚登用システムでは欧米列強の脅威に対抗できないと判断したとも見ています。そのために官僚登用システムを基本として公平選抜システムに移行させていったと考えるのが良いかと考えます。たいした話ではないのですが、帝国大学を頂点とする教育システムです。ここの入試を突破し、優秀な成績を挙げた者を官僚として登用していこうです。今もこれは変わっていないとして良いでしょう。

ここでなんですが政権の実質的な支配者は誰かです。これまた今も昔も官僚です。官僚は文系の優秀者のためのものになります。一方で理系は文系から見ればただの技師、いや技術屋程度に見られているとして良いかと思います。天下国家を目指すのであれば文系の道から官僚を目指すのが明治期の気風に強かった気がします。明治の言葉に、

    末は博士か大臣か
こういう言葉がありますが、文系の成功の象徴が大臣であるのに対し、理系の成功の象徴は博士です。博士も今とは比べ物にならないぐらい権威があったとは思いますが、大臣と較べると現世の権力に於ては月とスッポンぐらい差があります。維新政府は確かに恣意的な人事操作を行い、教育機関の配置についても恣意的な部分はあったと思いますが、それは官僚登用システムに連動する文系についてであり、理系については関心が薄かったと考えるのが妥当です。

そこまで考えると薩長人の優遇のために文系学校を郷土に厚く配する一方で、医学部も含む理系は賊軍派にむしろ厚く配置したと考える事も十分可能です。官軍派は文系から大臣の道を整備し、賊軍派は理系から博士の道で満足してもらうぐらいでしょうか。それぐらいは維新政府も恣意的に動いていたとして良いかと思います。