鉄オタじゃないもので・・・

 普段は鉄道利用と言ってもせいぜい三ノ宮とか元町に行くぐらいですが、春秋のハイキングの時はそれなりの遠征をします。鉄道利用のハイキングですから、どうしても登れる山が限られてしまうのですが、今春は可能な限り西に足を伸ばしてみました。

 西に行って見てわかったことを幾つか。ローカルになるほど便数が減って不便になる点はさておき、JR神戸線は感覚的に播州赤穂までです。たいした理由ではありませんが、播州赤穂行きの新快速が存在するからです。JR神戸線と言っても東海道本線と山陽本線なんですが、山陽線は播州赤穂に続いていると思い込んでいました。

 ところがそうではなくて、播州赤穂は赤穂線なのです。相生までは山陽本線ですが、JRはそこで山側に向かう山陽本線と、赤穂に向かう赤穂線に別れます。だもので白旗山に登った時なんて、

    三ノ宮 → 姫路 → 相生 → 上郡 → 智頭急行

 姫路までは新快速でしたが、そこから相生行きの普通に乗り換え、相生から上郡行の普通に乗り換え、さらに上郡で智頭急行に乗り換えです。ちなみに帰路も同じ乗り換えでした。乗った感想として、

    なんて岡山に行き辛い
 だって相生でのアナウンスは岡山方面に向かうのなら30分ぐらい後の次発でヨロシクでしたから。まあ、岡山行くなら新幹線を使えって趣旨だとは思いますが、神戸から滋賀に行くより不便と感じた次第です。


 さて登ったのは白旗城と感状山城です。これまたローカルな話題で申し訳ありませんが、播磨と言えば赤松氏になり、赤松氏と言えば赤松円心になります。つらつら考えていたのですが、播磨で歴史に名を残した英雄は赤松円心ぐらいじゃないかと考えた次第です。

 赤松氏は村上源氏を称していますが、これがまた非常に怪しいようで、鎌倉時代は佐用郡の赤松荘の御家人ぐらいで良さそうです。円心は六波羅探題に出仕していた記録があるようですが、とにかく時代を見る目を持っていたで良さそうです。

 後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒にいち早く呼応し、京都まで攻め込んでいます。それだけの軍略もあったで良さそうです。さらに建武の新政の時に後醍醐天皇と尊氏の対立が出てくると、一貫して尊氏側に立ったで良さそうです。ですから室町幕府では四職にもなっています。

 そんな円心の功績の一つが湊川合戦の時の働きです。この時の構図は、九州まで追い落とされた尊氏が勢力を回復させて上洛を狙い、これを阻止するために新田義貞が迎え撃つぐらいです。

 円心が行ったのは湊川合戦の前哨戦とも言えるもので、白旗城に籠り、義貞を五十日も釘づけにし、ついに新田軍を撃退してしまったというものです。

 太平記を読んだことがある人なら白旗城の存在は知られていますが、これが行ってみると450mぐらいの険しい山の上に作られた城で、登った感想として、

    こんな山城、どうやって攻めたんやろ?
 この頃の城攻めで有名なのは千早赤阪ですが、南北朝初期はまだまだ鎌倉武士の軍制のはずで、城攻めは苦手だったはずって思った次第です。

 円心の迎撃作戦は白旗城だけではなく、wikipediaより、

円心は、則祐を配した城山城などの城郭を播磨各地に築き、市川沿いに書写山を中心とする第一防衛線、揖保川沿いにを城山城を中心とする第二防衛線、そして千種川沿いに白旗城を中心とする第三防衛線をもうけて徹底抗戦した。

 この記述も微妙で、これもwikipediaから、

則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し感状山城を守り抜く。白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促す。

 則祐は感状山城で指揮を執っていたともなっています。こうやって読むと円心が播磨で敷いた抵抗線はかなり大規模なもので、義貞は白旗城に行くまでに幾つもの城砦を踏み潰して西に進んだで良さそうです。

 この感状山城も登ったのですが、相生駅からバスで15分ぐらいかかる山の中。こんなところに戦略的意味なんかあるのかと感じた次第です。あれこれ考えていたのですが、当たり前のことに気づいたのです。今と昔は違うのだと。

 当時も当たり前ですが軍勢の移動は街道を使って行われます。この辺でメインの街道といえば山陽道しかないじゃありませんか、さっそく地図に起こしてみると。

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 古代の山陽道は現在の国道2号線よりかなり北側を走っていたのがわかります。さらに太市駅から佐用に向かう美作道(現在の姫新線に近いかな)もあります。感状山城に有力な軍勢がいれば、これを放置して進めば背後を襲われる危険性があるのがわかります。

 城山城(きざんじょう)は山陽道の抑えの意味もあるでしょうが、美作道も抑えているように見えます。城山城が落ちたかどうかが確認できませんでしたが、感状山城は落ちてませんから、義貞が白旗城を囲むには感状山城に十分な抑えの兵を置いて進まないといけません。

 義貞が軍を返したのは、白旗城が落ちなかったのもそうですが、備前まで尊氏軍が来ると、今度は山陽道を攻め上ってくる尊氏軍を懸念してで良さそうです。

 この地図を作りながら思ったのは、義貞が白旗城を落とし、播磨制圧に成功していたら、尊氏は海路を使いにくくなった気がします。陸路もこの辺は山道ですから、ここで迎え撃たれたら東に進むのは簡単ではなさそうぐらいです。

 まあ、それをさせなかったのが円心の功績ですけどね。