応神紀と神功紀の関係を考える

日本書紀古事記の前にも歴史記録があった事は推測されています。代表的なのは旧辞帝紀ですが、他にも聖徳太子蘇我馬子で歴史書が編纂されたともなっています。推古紀28年より、

是歳、皇太子・嶋大臣共議之、録天皇記及國記、臣連伴造國造百八十部幷公民等本記。

天皇記」「国記」「臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」の3書が作成されたとなっています。これらのうち「天皇記」と「臣連伴造國造百八十部幷公民等本記」は乙巳の変蝦夷邸が焼き討ちされた時に焼失したとされ、国記のみが残り中大兄皇子に献上されたとなっていますが、国記も現存してません。推測するに壬申の乱で失われたか、それとも記紀編纂時に旧辞帝紀と同様に封印され失われてしまったかは不明です。まあ、上宮聖徳法王帝説が天皇記の逸文、もしくは基にして書かれたんじゃないかの想像は楽しいのですが、なんの証拠もありません。旧辞帝紀と同様に逸文さえも現存していません。考え様によっては記紀こそが逸文の塊と言えなくもないですが、記紀編纂時にどういう風に扱われたかは検証しようもないってところでしょうか。

もうひとつ隔靴掻痒なのが百済三書です。百済と当時の日本の交流は深かったとして良さそうで、百済の記録に日本のことは結構書かれていたんじゃなかろうかと推測はされます。しかし百済三書も記紀編纂後は失われ、百済の歴史も高麗時代の三国史記まで待たないと残っていません。それ以前の半島の歴史書もまた失われてしまっているからです。結局のところ日本の古代史を文献的に調べようと思うと記紀のみになってしまうってところです。だから楽しいのですけどね。


年表と年干支

想像に過ぎないのですが、書紀と言う歴史書を作るにあたって年表みたいなものを編纂部では作っていたんじゃないかと思っています。書紀の最後は持統ですが、そこから舒明あたりまでは実際に知っている人もあり、伝聞にしても一世代ぐらいのお話です。これがどんどん遡り、継体以前になってくると年代特定が怪しくなるのは致し方ないところです。書紀の完成は720年とされますが、応神あたりになると書紀編纂時からしても330年前ぐらい昔の話になるからです。

この年表を作る時の年代は年干支です。なにせそれ以前の旧辞にしろ帝紀にしろ国記にしろ原本は完全に失われてしまっているわけで、その当時から年干支で年代を表記していたか、それとも○○大王△△年みたいなものであったか確認しようがありませんが、書紀編纂時には年干支表記にしようとした部分はある気がします。ここも「ある気がする」はいいすぎで、年干支で確定できるところは年干支を使おうとして部分は確実にある感触があります。

この年干支ですが発祥は大陸王朝です。大陸文化圏に属する半島も日本もこれを導入しましたが、当時の東アジアの国際年代みたいな位置付けで、これを用いると言うのは現在なら元号を使うよりモダンな感じもあったんじゃないかと想像しています。モダンなだけではなく、大陸や半島の歴史書に日本関係で年干支で記載されていたら基準年代として重視していた部分はあったとこれまた想像しています。

年干支は大陸・半島・日本で共通の年を指すメリットはありますが、欠点として60年しか数えられないところがあります。今では寿命が延びてさして珍しくもなくなってはいますが、干支が一巡り(一運)すると60歳になり還暦の祝いとなりますが、これは60通りの年干支を一周するほど長生きした意味になります。雄略紀・応神紀・神功紀の年干支の扱いには興味深いところがあると思っています。とくに応神紀と神功紀の関係は私の感想としては非常に興味深いところがあります。


雄略紀と応神紀

雄略紀で目に付くのは武寧王の記事の引用による年代特定です。前に作った表ですが、

西暦 干支 雄略年 百済三書逸文 西暦 干支 雄略年 百済三書逸文 西暦 干支 雄略年 百済三書逸文
473 17 * 461 5 武寧王誕生 449 * *
474 18 * 462 6 * 450 * *
475 19 蓋鹵王没 463 7 * 451 * *
476 20 * 464 8 * 452 * *
477 21 * 465 9 * 453 * *
478 22 * 466 10 * 454 * *
479 23 三斤王没 467 11 * 455 * *
480 * * 468 12 * 456 * *
481 * * 469 13 * 457 1 *
482 * * 470 14 * 458 2 *
483 * * 471 15 * 459 3 *
484 * * 472 16 * 460 4 *
雄略紀の時代は武寧王の年代引用から5世紀半ばから後半の時代を指している見て良さそうです。雄略紀の時代も書紀完成時からすると270年前であり、書紀編纂時からすると250年ぐらいまであってもおかしくなく、百済三書の百済王の記述の引用で年代基準を決めたとんじゃないかと思っています。この5世紀半ばの雄略紀の時代から応神紀までには
    雄略 → 安康 → 允恭 → 反正 → 履中 → 仁徳 → 応神
こうなるのですが書紀の記述では、
  1. 安康と雄略は兄弟(允恭の息子)
  2. 履中と反正と允恭は兄弟(仁徳の息子)
  3. 仁徳は応神の息子
雄略は応神から見て曾孫世代になります。雄略から見れば応神は「ひいじいちゃん」になります。応神もまた百済三書の年代引用がなされています。この表は書紀にしたがったものではなく、私が考案したものであるのは御注意頂くとして、
西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢 西暦 干支 事柄 応神年齢
413 * 34 401 * 22 389 * 10 377 * *
414 * 35 402 * 23 390 即位 11 378 * *
415 * 36 403 * 24 391 * 12 379 * *
416 * 37 404 * 25 392 * 13 380 誕生 1
417 * 38 405 花王 26 393 * 14 381 * 2
418 * 39 406 * 27 394 * 15 382 * 3
419 * 40 407 * 28 395 * 16 383 * 4
420 腆支王没 41 408 * 29 396 * 17 384 * 5
421 * 42 409 * 30 397 * 18 385 * 6
422 * 43 410 * 31 398 * 19 386 * 7
423 * 44 411 * 32 399 * 20 387 * 8
424 * 45 412 * 33 400 * 21 388 * 9
つまり応神紀の時代は4世紀後半から5世紀前半に特定出来そうってところです。書紀では雄略の即位が457年、応神の即位が390年で87年の間隔がありますが、雄略は応神の3世代後になりますし、仁徳の後は履中3兄弟の末っ子の系統ですから87年は必ずしも長すぎるとは言えないぐらいに判断はできるんじゃないとか思っています。


問題は神功紀

神功紀にも雄略や応神と同様に年代特定が可能な文献を利用しています。かの有名な魏志倭人伝で、百済三書と較べての大きな違いは現存してネットでも誰でも読めるって点です。魏志倭人伝邪馬台国研究で専門家から私のような歴史好きまでが舐めるように読み尽くしていますから、そこに出てくる年代の特定も既に確定しています。ですから魏志倭人伝を引用した神功紀の年代も雄略紀や応神紀と同様に信用できそうかと言えば、全然そうでないのが日本書紀になります。

言うまでもありませんが神功は応神の実母であり、夫の仲哀の死後すぐに行なわれた三韓征伐から帰国途中に生まれています。この辺は伝説部分があるとしても、書紀上は神功と応神は紛れもなく実の親子です。神功は書紀では摂政とはなっていますが、明治期以前には大王として扱われた人物でマイナーな存在ではありません。つうか書紀での摂政の表現も妙で、摂政とは大王が幼少とか、なんらかの問題で政務を取れない時に大王の存在を前提に、大王の権限を取り代わって行使する重職です。

推古の時がわかりやすくて、推古は崇峻暗殺事件の後の政治的計算の産物で生まれた飾り物的な女帝で、大実力者馬子とのバランスとして皇太子である聖徳太子摂政となったわけです。神功の場合は応神が幼少であるのは良いとしても、応神の即位は神功の死後となっています。つまりは神功時代は大王不在で神功が摂政であった事になります。もちろんこの辺も記紀が連綿とほぼ間断なく大王位を継続していたとする先入観念が宜しくない部分があるかもしれませんが、神功の摂政時代は書紀では驚きの69年間です。昭和天皇さえしのぐ長期間になります。そのために皇太子であり、実子である応神が即位したのは70歳になってからになります。夫の仲哀が死に、生まれたばかりの応神が成長するまでの「つなぎ」の大王(摂政)とするには長すぎると誰でも感じると思います。


神功紀編集の裏舞台を考える

大陸なり半島の年代を引用をした時にその年干支はかなり重視されたと考えています。あくまでも私の感想に過ぎませんが、神宮紀を編集するに当たりこういう前提があった気がしています。

神功紀編集の前提 書紀記述 前提となる年干支 確定西暦
神功が三韓征伐を行い応神を産んだ年 天皇、以皇后討新羅之年、歳次庚辰冬十二月、生於筑紫之蚊田 辰年
応神即位年 元年春正月丁亥朔、皇太子即位。是年也、太歳庚寅 庚寅年 390年
神功崩御年年 六十九年夏四月辛酉朔丁丑、皇太后崩於稚櫻宮。(時年一百歳)。冬十月戊午朔壬申、葬狹城盾列陵。是日、追尊皇太后、曰氣長足姫尊。是年也、太歳己丑。 己丑年
理由は今となっては不明ですが、応神即位は庚寅年であるだけでなく西暦換算で390年である事は絶対の前提として取り扱われたと考えると編集方針が見えてくる気がします。ここに「神功 = 卑弥呼」として魏志倭人伝を引用して組み込む編集方針が決定されます。取りこむ上の問題点は、書紀編纂時は奈良紀であり、日本の正史である日本書紀の年代(= 年干支)と大陸の正史の年干支の不一致は対外的に宜しくないであろうぐらいの判断は想像されるところです。ここで魏志倭人伝(泰初2年は晋書)に出てくる年代を表にして見ると、

大陸年号 年干支 西暦
正解 一運 二運
景初3年 己未 239 299 359
正始元年 庚申 240 300 360
正始8年 癸亥 243 303 363
正始8年 丁卯 247 307 367
泰初2年 丙戌 266 316 376
年干支は60年ごとに同じものが出て来ます。これを一運とするようですが、年干支を一致させるためには60年単位での年代操作が必要になります。魏志倭人伝及び晋書の年代を神功時代にあてはめ、さらに応神が生きている可能性があるうちにするには二運(120年)の繰り下げが必要としたと考えます。二運繰り下げた時に三韓征伐にリンクする応神の出生の干支年が先に決まってますから、結果的に神功の時代はまるまる60年延長(干支一運繰上げ)されたと考えます。魏志倭人伝引用の結果として、
  1. 卑弥呼の時代は干支二運(120年間)分、新しくなった
  2. 神功の時代は干支一運(60年間)分、長くなった
そうした操作の無理ははっきりと残り、
  1. 正始8年の卑弥呼の死は伏せざるを得なくなった
  2. 卑弥呼の後継者である台予も伏せざるを得なくなった(該当者がいないし、応神は男性)
  3. 神功の摂政時代が一運分(60年間)長くなった
  4. 三韓征伐の年も一運分(60年間)繰りあがった
  5. 応神の即位が70歳というトンデモになった
  6. これは必然ですが応神も神宮も非常な長寿になった
どうもこうなっている気が私にはします。


なぜにそうなったか?

上記した応神の年表を見て欲しいのですが、神功紀の干支一運の繰り上げがなければ

  1. 神功が三韓征伐を行い応神を産んだのは30歳ごろ(380年)
  2. 応神の成長を待つ間摂政を行ったのが10年間(つまり神功崩御は40歳頃)
  3. 辛うじて11歳になった応神は滑り込みで元服を行い大王になる
こういう政治状況が展開されていたわけです。これもスリリングですが、この程度なら「ありえる」ぐらいには言えます。応神天皇

四十一年春二月甲午朔戊申、天皇崩于明宮、時年一百一十歳

110歳で崩御し41年の治世となっていますが、干支一運分を引けば同じ41年の治世でも崩御時に50歳ですから、まあそれぐらいでも普通に「ありうる」ぐらいに受け取れます。応神紀と神功紀の関係は神功期に魏志倭人伝を挿入引用した事により、年代特定がガタガタになったぐらいを考えます。ではなぜにそうなったかです。これも推理に頼らざるを得ませんが、書紀編集の過程で先に応神紀が出来上がっていた可能性が強いと思います。出来あがっていただけではなく、旧辞帝紀、生き残っていたかもしれない国記、さらに百済三書からの引用で応神の事歴は編集部で動かせない事実になっていたぐらいの想像をしています。もう少し言えば、確定している応神の年代を基に応神から後の事歴の組み立ても完了していたぐらいの状態です。

問題の魏志倭人伝なんですが、これは書紀編集の終盤部に持ち上がった問題の可能性があります。これは旧唐書倭国・日本国伝からですが、

日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。或曰:倭國自惡其名不雅、改為日本。或云:日本舊小國、併倭國之地。其人入朝者、多自矜大、不以實對、故中國疑焉。又云:其國界東西南北各數千里、西界、南界咸至大海、東界、北界有大山為限、山外即毛人之國。

(日本国は、倭国の別種なり。その国は日の出の場所に在るを以て、故に日本と名づけた。あるいは曰く、倭国は自らその名の雅ならざるを憎み、改めて日本と為した。あるいは日本は昔、小国だったが倭国の地を併せたという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが大にして不実な対応だったので、中国はこれを疑う。また、その国の界は東西南北に各数千里、西界と南界いずれも大海に至り、東界と北界は大山があり、限界となし、山の外は、すなわち毛人の国だという。)

読みようなんですが、唐は魏志倭人伝に出てくる邪馬台国と日本との連続性において疑問を持った時期があったと読みたいところです。大陸だって王朝交代があるからエエようなものと思うのですが、書紀編纂においては重大視された可能性はあります。書紀では卑弥呼の時代よりもっともっと前にヤマト王権は成立し「万世一系」で連綿として続いている事にしています。この「万世一系」なんですが、記紀編纂の至上の政治的テーマでもあります。遣唐使からの報告を聞いた不比等は国際問題だけではなく、国内問題としても早急に解決すべき問題として書紀編纂部に卑弥呼問題の「解消」を指示したなんてのを想像します。


妄想ついでですが、魏志倭人伝にしろ、晋書にしろ遣唐使がもたらした可能性がありそうな気もします。旧唐書で日本王朝の連続性の疑義の証拠として魏志倭人伝や晋書の記述を示され、

    ゲッ、そんな記録が残ってるんか!
まあ、さすがにこれは言い過ぎで、個人的には書紀編纂時には組み込みにくいから棚上げにしておいたぐらいを想像します。大陸がヤマト王権の連続性に疑問を持ったのなら、これを解消できるように神功紀を大幅に改訂したのが現在の結果ぐらいが一番ありえそうな気が私はしています。