飯豊皇女再考・陰謀扁

やっぱり履中紀を読んでおかないといけません。

日本書紀 古事記
葦田宿禰之女鄢媛、爲皇妃、妃生磐坂市邊押羽皇子・御馬皇子・逭海皇女。(一日、飯豐皇女。) 娶葛城之曾都毘古之子・葦田宿禰之女・名鄢比賣命、生御子、市邊之忍齒王、次御馬王、次妹青海郎女・亦名飯豐郎女
書紀でも古事記でも市辺押磐皇子と飯豊皇女は同母兄妹です。書紀が異なるのは注みたいな形で次の一文が入っています。

譜第曰「市邊押磐皇子、娶蟻臣女荑媛、遂生三男二女、其一曰居夏姫、其二曰億計王、更名嶋稚子、更名大石尊、其三曰弘計王、更名來目稚子、其四曰飯豐女王、亦名忍海部女王、其五曰橘王。」一本、以飯豐女王、列敘於億計王之上。蟻臣者、葦田宿禰子也。

どうも書紀は「本当はこっちだ」ってしているように読めます。ここも書紀の記述から履中の娘の飯豊皇女と市辺押磐皇子の娘の飯豊皇女は別人とする説も出ています。字で書いても判りにくいところなので系図にしてみると、

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億計王・弘計王から飯豊皇女を見れば

こうなります。今日は陰謀論的な観点からムックしているのですが、私が抱く大きな違和感は
    記紀は何かを隠そうとしているんじゃないか?
これです。飯豊皇女が実質的に大王位にあったのは書紀でも古事記でも伏せきれていません。これは記紀編纂時でも伏せようがない程の伝承であったと考える他はありません。飯豊皇女が大王であった事を伏せきれない代わりに、他の事実を伏せた可能性があるんじゃなかろうかです。それは女系天皇が存在の可能性があると疑っています。


万世一系の法則

記紀編纂の重要なテーマの一つに万世一系があります。この万世一系は男系であるのが条件です。女帝が存在しても

  1. 女帝は皇親である
  2. 女帝が大王以外の男性と産んだ子は大王位を継承しない
ちいとややこしいのですが、1.は男帝でも条件は同じです。もっとも継体のように「ホンマかいな」みたいなケースもありますが、そこは辻褄さえ合っていれば力業でもクリアみたいなところです。問題は2.で私も理解が怪しいところがあるのですが、女性皇族が大王になるのはまず問題にはなりません。これは男系大王から出た娘だからで、だから敏達3世孫の斉明(皇極)でもクリアになります。では斉明の息子が大王になったら女系になるかとすれば、そうはなりません。斉明の息子の天智も天武も大王になっていますが、これは斉明の夫の舒明による男系が継続しているぐらいの解釈です。2.の条件が起こる時はおそらく
  1. 女帝が未婚で即位し、皇配として非大王の男性とし、その子どもが大王になった時
  2. 女帝になるまでに非大王と結婚し、夫は大王とならず、その子どもが大王になった時
ここで自信がないのは女帝の配偶者が非大王・非皇族なら文句なしなのですが、非大王・皇族ならどうなのかです。ここは「おそらく」ですが大王からの系譜を記す時に一番最近に大王になったものから代数を数えるはずです。たとえば男性配偶者が○○天皇の3世孫であったとして配偶者が△△女帝になれば、その子どもは○○天皇4世孫ではなく、△△女帝1世孫として扱われるはずですからアウトと思います。ちと自信がないのはやはり斉明のケースで、夫婦とも大王ですからどうなるんだです。天智も天武も舒明の1世孫ですが、同時に斉明の1世孫です。なおかつ斉明の方が舒明より後に大王になっています。非常に微妙と思うのですが、記紀的にはクリアにしています。クリアにしないとどうしようもない最近の事実だったからだと思っています。

億計王・弘計王伝承では2.のルール違反が実は起こっていたんじゃないかと思う次第です。


中磯皇女

古事記の億計王・弘計王発見時の様子ですが、

其姨飯豐王、聞歡而

「姨」とは飯豊皇女の姉妹になり、億計王・弘計王の母も履中の娘であった事になります。しかしなんですが履中の子どもとして確認できるのは古事記では市辺押磐皇子、御馬王、青海皇女の3人だけであり、書紀でもこの3人の他に

次妃幡梭皇女、生中磯皇女

ほいじゃ中磯皇女がそうだったかと言うと、お手軽にwikipediaより、

中磯皇女(なかしのひめみこ、生没年不詳)は大草香皇子の妃、のち、安康天皇の皇后

大草香皇子は仁徳の皇子なんですが、大王位を兄弟で継承した履中・反正・允恭とは母が異なります。シンプルには傍流ってぐらいの位置づけで良いぐらいでしょうか。だから大王位も回って来なかったぐらいです。


草香幡梭姫皇女

これが読めば読むほど複雑怪奇なんですが、お手軽にwikipediaより、

安康天皇が彼の同母妹の草香幡梭姫皇女と弟の大泊瀬稚武皇子を結婚させようとした際、彼は承諾したものの、その印として献上しようとした宝冠・押木珠縵(おしきのたまかつら)を使者の根使主が詐取しようとし、それを隠すために大草香皇子は拒否したと虚偽の報告をしたために殺されてしまう。

その後安康天皇は中蒂姫命を妃としたが、この一件によって、安康天皇は自らの暗殺の原因を作ってしまった。

ここで、ややこしいのは草香幡梭姫皇女で、

  1. 応神の娘で履中皇后と古事記に記されている幡日之若郎女である
  2. 書紀では仁徳の娘であり大草香皇子と同母兄妹
これに中磯皇女が入りますから話が難解になります。1.の説なら中磯皇女は草香幡梭姫皇女の娘になりますが、大草香皇子は自分の義母の結婚の承諾を迫られた事になります。母ったって履中の皇后ですし、年齢を考えても「なぜに雄略の妃なんだ」って疑問が出て来ます。2.の説なら年頃としては雄略の奥さんにまだしもの気もしますが、一方で中磯皇女は誰の子なんだってところになります。書紀で確認すると

  1. 元年春二月戊辰朔、天皇、爲大泊瀬皇子欲聘大草香皇子妹幡梭皇女
  2. 爰取大草香皇子之妻中蒂姫納于宮中因爲妃、復遂喚幡梭皇女配大泊瀬皇子

えっと、えっとで書紀で無理やり整合させると履中は黒媛を皇后にしていましたが、黒媛が亡くなった後に草香幡梭姫皇女を皇后としています。この草香幡梭姫皇女は仁徳の娘であり、大草香皇子の妹であった事になります。履中と草香幡梭姫皇女の間に生まれた中磯皇女は母の実の兄(従兄弟)である大草香皇子と結婚した事になります。自分で書いていてもこんがらがるので、系図にしてみます。

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仁徳の娘説を取っても雄略より草香幡梭姫皇女の方がかなり年上だと思うのですが、政略的な意味があったのかもしれません。近親婚の多さはこの時代の特徴ですから置いとくとして、書紀より

父子並仕于大草香皇子、共傷其君无罪而死之、則父抱王頸、二子各執王足而唱曰「吾君、无罪以死之、悲乎。我父子三人生事之、死不殉是不臣矣。」即自刎之、死於皇尸側、軍衆悉流涕。

ここの読み下しが難解なのですが、大草香皇子が殺される時に「我父子三人」つまり大草香皇子とその息子2人がいたと記載されており、父子三人とも自決したとなっています。これが一体誰の子なんだろうかです。大草香皇子と中磯皇女の間には眉輪王がいるのは記載されていますが、それ以外に2人の息子がいるようです。同母すなわち中磯皇女の息子の可能性もありますが、異母の可能性もあるわけです。


最後は力業

大草香皇子はもう少し注目しても良い気がしています。履中たちとは異母兄弟ですし、母は諸県君牛諸井女の日向髪長媛と「どうも」母の実家はマイナーそうな皇子ですが、仁徳の息子の間で兄弟継承をやっているわけですから、允恭から安康の親子継承の時に問題になった可能性はあります。また傍流といっても妻は履中の娘なのですから、皇位継承者としてそれなりに存在感があったぐらいの想像です。妄想を広げれば履中兄弟が大王位をたらい回しにするにあたり、気を使う人物ぐらいの想像です。だから安康に難癖を付けられて殺されたぐらいでしょうか。何が言いたいかですが、大草香皇子は中磯皇女だけではなく飯豊皇女も妃にしていたんじゃなかろうかです。書紀より、

秋七月、飯豐皇女、於角刺宮與夫初交、謂人曰「一知女道、又安可異。終不願交於男。」(此曰有夫、未詳也。)

飯豊女王は旦那との初夜の時に「もうせえへん」としたようですが、旦那の名前は不詳となっています。だったら大草香皇子の可能性もある訳です。また初夜の時だけしか性交は行っていないとはなっていますが、実際のところは子を産んでいた可能性もある訳です。つまり大草香皇子が殺された時に

  • 飯豊皇女は父とともに殉死したとされる自分の息子2人を逃がした
  • 中磯皇女は眉輪王を連れて安康の后となった
こうであった可能性はゼロでないぐらいに考えます。雄略時代が過ぎ、清寧が崩御した時に男性の皇位継承者は枯渇します(残っているのは応神の息子の家系)。その時に履中兄弟の子どもの最長老格であった飯豊皇女が大王として執政を行ったぐらいの想像は前にも書きました。この時に死んだ事にしてあった自分の子である億計王・弘計王を後継者として亡命先から呼び戻したんじゃないでしょうか。力業の推測系図です。

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顕宗・仁賢時代を存在ごと消去するのは不可能で、なおかつこのピースが抜けると、さらなる難題の継体問題の解消が難しくなります。飯豊皇女が実質として大王であったのも隠せず、顕宗・仁賢の存在の否定も難しいとなると、飯豊皇女に子が無かった事を強調し、事績が定かでない履中の息子の市辺押磐皇子の系列に億計王・弘計王を継いだぐらいの想像です。傍証は播磨風土記です。

語云為此子汝母手白髪命 昼者不食夜者不寝有生有死泣恋子等 仍参上馘如右件即歓哀泣還遣少楯召上 仍相見相語恋

古事記では億計王・弘計王発見に喜んだのは

    其姨飯豐王、聞歡而
甥が見つかった事を喜んだとしていますが、実際は母である飯豊女王が喜んだと解釈したいところです。この大王である母が喜んだ話は志深里では強い伝承として残った可能性はあります。伝承が強く残った理由としては風土記でも亡命先の美嚢郡に億計王や弘計王はかなりの褒美を与えています。もう少し言えばこの伝承は志深里だけではなく、かなり広範囲に残っており、記紀で編集を加えても風土記編纂時には残ってしまったぐらいは・・・妄想させて頂きます。地元の話ですから、これぐらいは飾りたいってところです。

億計王・弘計王の推測系譜ですが、手法として天武の系譜の処理に似ている気がしています。天武の出自も非常に不透明で、本当に舒明と斉明の息子かどうかについては疑問符が多多付けられているのは歴史好きなら有名です。天武なんて記紀編纂時からすれば、ごくごく最近の事績であり、それこそ天武をリアルで知っている人(持統なんて奥さんですからね)がテンコモリいるにも関わらず、切れの悪い出自になっています。これは天武の母とされる斉明も同様です。それに較べれば億計王・弘計王は時代が遡る分だけラクだったんじゃないかと思っています。