ツーリング日和(第10話)斉明天皇の温泉

 道後温泉も三千年の歴史があるけど、湯之谷温泉も斉明天皇が入浴した伝説あるらしいんや、

「あれって白村江の時でしょ」

 斉明天皇の晩年に百済派遣軍を送るんやけど、斉明天皇は九州の朝倉宮まで行くんよね。その途中に伊予にも寄って、

『御船泊于伊豫熟田津石湯行宮』

 これは天皇の御座船が伊予の熟田津に停泊し、石湯行宮に行ったぐらいの意味や。熟田津の比定は諸説あるけど、入った温泉は道後温泉とするのが定説かな。そりゃ、景行天皇の時代から入湯の話があるぐらいや。気になるんは舒明天皇の時や日本書紀には、

『幸于伊豫温湯宮』

 これは伊予の温湯宮に行ったになるけど、石湯行宮やないんよな。ここやけど字だけの意味やったら、

 宮・・・・・常設
 行宮・・・仮設

 これぐらいになる。舒明の時に常設の温湯宮があったから、斉明も道後に行ったのなら温湯宮になるはずで、仮設の行宮としてるから道後じゃないてな仮説は立てられん事はない。そやけど、ずっと伊予に天皇がおるわけやないから、舒明の時には常設やったんが、斉明の時には無くなっていて仮設なってたぐらいでも余裕で反論できるんや。

 そやけど可能性はまだあるんよ。舒明とか聖徳太子は道後温泉目当てに伊予に来てるんや。いわゆる温泉ツアーやな。そやけど斉明はそうやない。百済遠征のためや。伊予に来たのも温泉ツアーのためやないと見るべきや。そう、百済遠征軍のための兵士や物資の調達のためや。

 そういう時にどこに行くかや。そりゃ、伊予の中心地や。今は県庁も道後温泉のある松山にあるけど、あそこって伊予の西の端っこみたいなとこやんか。中心地は国府のあったとこと見るのはアリや。

 伊予の国府はまだ特定されとらへんけど、今治が最有力や。今治城のちょっと南ぐらいのとこや。それだけやない、国分寺や国分尼寺もその近くにあったんよ。これは今治が古代の伊予の中心地やったと見てもエエと思うんよ。

「そうかしら・・・」

 ユッキーも痛いとこ突いてくるな。古代の伊予にも国造がおってんけど、

 小市国造(応神天皇)・・・今治市東部
 怒麻国造(神功皇后)・・・今治市西部
 風速国造(応神天皇)・・・松山市北部
 久味国造(応神天皇)・・・松山市東部
 伊余国造(成務天皇)・・・松山市の南側

 神話の時代もエエとこやけど、景行天皇の息子が成務天皇、孫が仲哀天皇でその嫁さんが神功皇后、神功皇后の息子が応神天皇や。これ見たらわかるけど古代の伊予は松山平野と今治平野に二大勢力がおったと取れるんよ。

 伊予はこの五つの国が合体して成立したことになるんやけど、国名は伊余国から来とるのは間違いあらへん。たぶんやけど伊予になった頃には風速国も久味国も伊余国に従っていたと見てもエエと思う。

「国府が今治に置かれたのは伊予東部の開拓が狙いじゃないかしら」

 今治平野の南側、今の東予港のある辺りの中山川が作った平野を周桑平野、さらに東側の加茂川が作った平野を西条平野になる。今治からは連続してるような平野やけど、周桑平野にも西条平野にも国造は置かれてないんよね。古代においてはフロンティアやったことになる。

 伊予最大の平野は松山平野やけど、国造が三つも置かれとるし、松山平野から周桑平野に出るには山越えなあかんやんか。それやったら今治からフロンティアを伸ばしていく方が効率的とは言える。

「それと今治に国府が置かれたのは和名類聚抄が根拠だけど、八世紀初頭って考えられてるよ」

 斉明は六六一年崩御やから七世紀の人なんよな。コンチクショー、ユッキーは歴女やないのに、なんでこんなに詳しいんや。負けてられるか。力業でも斉明を湯之谷温泉に放り込んだるで。

 斉明が伊予の熟田津に来たんは間違いあらへんけど、そこから娜大津、これは博多のことや。そこに向かったのは間違いあらへん。日本書紀にも、

『御船還至于娜大津』

 こうなっとるからな。ここで問題になるのは「還至」ねん。ここの解釈も割れてるとこがあるけんど、元の航路に戻った説は強いんよ。普通はそう読み下すぐらいや。ここでやけど斉明が東から進んできたんは間違いあらへん。

 進んで来たらしまなみ海道を、どっかで通り抜けなあかんやんか。そこから関門海峡を越えて博多に行くのが本来の航路のはずやねん。そうやねん、斉明が伊予に行ったのは、わざわざ寄り道したことになるんよ。

 軍事支援の要請もあったかもしれへんが、伊予は大和王権の直属国みたいなもんや。そやから歴代天皇も温泉ツアーに来てるんよ。わざわざ斉明が寄る必要はあらへんはずや。何かが斉明の心を動かして伊予に寄り道させたはずなんよ。

「それって、禽獣葡萄鏡」

 大山祇神社の国宝で、日本にある銅鏡の中でも逸品中の逸品なんや。これは斉明天皇が九州朝倉宮に行く途中に奉納したってなってる。これも伝承に過ぎへんと言えんことないけど、このクラスの銅鏡は当時であっても国の宝で、大王家やないと持てへんぐらいでエエと思う。

 軍事で重要なんは兵士の動員、武器兵糧の調達やけど、古代ではそれに並ぶぐらい重視されたんが神の加護や。斉明は大王家の宝を大山祇神社に奉納することで必勝祈願をしたはずや。

「そこから小市国造と関りが出来たのね」

 小市氏は越智氏になるんよね。さらに越智氏は大山祇神社を創建したとされとって、今でも神職におるぐらいやし、今治のあたりも旧分国の時は越智郡になったぐらいやねん。

「石鎚山か・・・」

 さらなる必勝祈願に有効なところとして越智氏が石鎚山を斉明に献言したんやと思うんよ。大三島まで来とるから、足を延ばせんこともないやろ。越智氏にしたら、松山平野の伊余国造への対抗策として大王家との緊密な関係をアピールしたいんもあったと思うで。

「必勝祈願のためだから西条に直行してもおかしくないものね」

 JR予讃線の石鎚山駅の名前はダテやない。あそこから石鎚山が近いんよ。それと海岸線も今より海が迫っていたはず。船から降りた斉明は行宮を設けて石鎚山に必勝祈願してもおかしないやろ。

「当時は泉を神聖視していたから、湯之谷温泉に行っても不思議無いよね」

 斉明が入浴したのは石湯となってるけど、これの考え方として、岩から割れ出ている温泉と解釈するのもある。その延長線で岩風呂だったと考えられんこともない。そやけど湯之谷温泉は冷泉なんよ。

「わかった石焼風呂にしたのね」

 泉はあったんやと思うけど、これを入浴できるように温めるのにお手軽なのは焼き石を放り込むこと。やっと斉明が風呂に入ってくれた。こんな苦労するとは思わんかった。

「伊予国風土記逸文は?」

 伊予国風土記逸文の温泉ツアーの記録は、

 ・景行天皇とその皇后
 ・仲哀天皇と神功皇后
 ・聖徳太子
 ・舒明天皇と皇后
 ・斉明天皇と皇子

 この中で確実なんは書紀にある舒明と斉明や。聖徳太子以前は極論すれば伊予国風土記逸文しかあらへん。ここなんやけど舒明の奥さんは斉明なんよな。ホンマに舒明と道後に来てたなら二度目になるけど、道後温泉に行ったのは、

『十二月己巳朔壬午、幸于伊豫温湯宮』

 これユリウス暦やったら一月ぐらいになるんよね。そんな季節によう行く気になったもんや。

『夏四月丁卯朔壬午、天皇至自伊豫』

 これは舒明が伊予から帰ってきたでエエはず。これはユリウス暦の五月やから四か月の温泉ツアーやった事になる。もし夫婦旅行やったら、

「一緒にいて四か月も道後にいたなら、石鎚山に遊びに行ってもおかしくないじゃない」

 伊予におるから物見遊山もありか。斉明が石鎚山の存在を知ったのは、そん時かもしれん。ほいでも冬の海を斉明も渡ってんやろか。舒明も怪しいと思うぐらいやのに、斉明もホンマに付いて行ったんかいな。

 それはさておき、書紀でよく出てくる温泉はまず有馬や。次がたぶん白浜、紀湯が勝浦としたら遠すぎるやろ。そやから伊予の温泉と言えば道後しかないぐらいや。書紀に伊予の温泉に斉明が入ったの記録を読めば絶対に道後やと思い込んでも不思議あらへん。

 確実なんは書紀の舒明だけやけど、斉明も伊予に来て温泉入ったんは書紀に書いてあるから、斉明が道後外して石鎚山に必勝祈願してたなんて考えもせんかったぐらいや。

「伊予一之宮が大山祇神社になったのも、そういうつながりかもね」

 古代の伊予で今治と松山が主導権争いしとった名残やろな。南下する今治勢力と西に進む松山勢力が周桑平野の支配権で小競り合いぐらいしとったんかもしれん。

「全部推測に近いけど、なんとか斉明が湯之谷温泉に入れたじゃない」
「そんな歴史ロマンがあった方がありがたく感じるもんな」

 斉明はしわくちゃの婆さんやから有難味が薄いとこもあるけど、当時の絶世の美女かって入浴した可能性もあるねんよ。

「額田王ね」

 額田王が斉明に付いて来てるんは万葉集に、

『熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬいまは漕ぎいでな』

 額田王やったら斉明と一緒に風呂入ってもおかしないやろし、一緒やなくとも後から入ってもエエやろ。斉明よりありがたい気がするで。