日曜閑話83

古墳時代は謎の4世紀とされる時代です。記紀と言う一級資料があり、大古墳と言う目に見える物証もあるのですが、その時に本当はどうなっていたかが判りにくい時代です。漠然たる印象をつらつらと今日は書いてみます。


都市国家と広域王権

北九州と畿内の差としても良いのですが、なぜに北九州で広域王権が生まれず、畿内で広域王権が生まれたかです。弥生時代のの発達段階を単純化すると、

    稲作のためにムラができ、これが巨大化してクニになり、これが高度化して都市国家になる。
北九州を古代ギリシャに喩えていますが、日本史で考えると戦国期に近いと見て良いのかもしれません。戦国期は各地で諸勢力が割拠状態になります。そこから優勝劣敗が続いた次にある程度まとまった大勢力が生まれます。武田とか、上杉とか、北条とか、今川です。日本史では信長と言う英雄が出現して一代でほぼ天下を統一してしまいましたが、信長が出現しなければ、大勢力同士のサバイバル戦が続いていたと考えています。大陸の春秋戦国時代みたいな様相が後100年ぐらい続いていても不思議ないからです。北九州にはついに信長的な英雄が出現せずに割拠状態のまま弥生時代から古墳時代に突入していったと考えています。

では畿内では信長的な英雄が出現したかどうかですが、出現したのかもしれません。たとえば神武です。しかしこれについては正直なところ不明です。ここまで古代史の知識整理をやってきて、違う可能性を考えています。北九州に較べて畿内は後進地帯です。いわゆる神武が東征を行った時期でもクニぐらいは形成していても都市国家の形成は不十分だった可能性を考えています。もちろん唐古・鍵遺跡を無視するわけではありませんが、北九州に較べるとまだまだ数も規模もプアだったぐらいです。

どういう時代を想定しているかと言うと源平時代です。源平期にも武士はいましたが、戦国期の大名みたいな存在はいなかったと理解しています。多くて1000人程度の動員力ぐらいの小勢力が源氏なり、平家の構成基盤です。北九州の様に多数の都市国家が並立してサバイバル戦をやると言うよりも、唐古・鍵のような都市国家が幅広い衛星国家の中心として存在していたイメージです。う〜ん、これじゃわかりにくいなぁ。北九州からの植民団は断続的にあったらしいはムックしていますが、北九州からの先進文化を持ち込んだ集団が、後進地帯の畿内にいきなり北九州型の都市国家を作ってしまった印象です。北九州では全体のレベルアップの中で都市国家が生まれていますが、畿内では全体が後進地帯の中に突出して都市国家が忽然と誕生したと言えば良いでしょうか。周囲は燦然たる都市国家に自然に従属する感じです。

突出した都市国家への求心力が畿内の状況であったために、たとえば神武東征で唐古・鍵が陥落すれば、周囲は都市国家の主が交代したぐらいの感覚ですんなり政権移行を承認したぐらいです。つうか周囲に取って誰が主かよりも、都市国家自体に価値があったぐらいです。源平時代で誰が京都の主かが天下を取っているぐらいの感覚です。だから神武東征はスムーズに成功したぐらいです。もうちょっと考えるとだから広域王権に移行しやすかったのかもしれません。


広域王権の特性

都市国家の原則は自給自足と思っています。自領で取れた食料及び産品の交易で手に入れた食料で養える範囲が都市国家の基本的な上限です。一方の広域王権は都市国家に較べると遥かに広い範囲の支配領域を持ちます。それこそ都市国家10個分とかそれ以上です。で、そこから集めた税みたいなものを中央に集中させます。つまり中央部はその地域で本来養える人口の数倍を軽く養える事になります。そうやって中央が巨大化すれば、さらに支配が安定するサイクルぐらいと言えば良いでしょうか。だから大古墳も築造できた訳です。

さて、その中央ですがモノが集まれば集まるほど肥大化します。ただ肥大化しすぎると中央でもモノ不足が起こります。中央を支えるためにより多くのモノを運び込む必要が出てきます。古墳時代ではモノを集めるために増税はさほどの意味はなかった気がしています。それよりネックになったのは集めたモノをいかに中央に運び込むかの運送手段がボトルネックになったんじゃないでしょうか。ここも判りにくいと思いますが、当初は奈良盆地ぐらいぐらいから集めれば十分だったのが、次に河内からの供給が重要になり、さらにもっと広域から集める必要が生じたぐらいのステップです。もともとのホームグラウンドである大和・河内以外に新たなモノの供給地が古墳時代に育っていたと考えるのが妥当と思っています。こんなものはどこにも書かれていないのですが、推測は不可能ではありません。


水上運送

当時の運送は水路がメインです。陸路はプアであるだけでなく、陸路での運送手段もプアだったと考えています。日本では馬車的なものがついに普及しなかったのは史実です。あるにはありましたが、陸路のプアさと相俟って限定的な使用に留まっています。またたとえ馬車があっても船の輸送量と較べると勝負になりにくいぐらいです。もっと後世、それこそ江戸期であってさえそうだったと見ています。古墳時代ならなおさらです。それと古墳時代畿内王権は水路のうち海上輸送をそれほど重視していなかった気もしています。

これの傍証としては遣唐使船が挙げられます。遣唐使船が構造的にも航海技術に於てもプアであったのは史実です。古墳時代から瀬戸内海、さらには九州から幅広くモノをかき集める事に熱中していれば、それに連動して船の進化や航海技術の進歩はあっても良いはずぐらいです。そういう進歩がモノを集めるのに有用であり、有用なものは進歩発展するの原則です。ですから畿内王権は瀬戸内海沿岸からモノを集めてはいましたが、収入としてはあんまり重く見ていなかったと私は考えます。海上輸送をあんまりアテにしていなかった傍証はもう一つあります。昨日も書きましたが、古墳時代畿内王権の中心は

こういう風に移動したと考えられています。これが海上輸送重視であれば、最後の百舌鳥古墳群の後に何故に大和に都を戻したかの問題が出てきます。大和に都を戻したのは継体です。たとえば継体が飛鳥に都を置いたのが政治的理由があったとしても、その後に河内に都を遷すのが自然と思います。しかし飛鳥から都は(一時的な例外はあっても)動きません。これは飛鳥であってもモノに困らない状況が出現したと考えるのが妥当と思います。もう少し言えば、大和から都がついに動くのは桓武の時代ですが、その先々代の聖武の時から遷都は西ではなく北にばかり目が向けられます。

これらから考えて、大和の北方に畿内政権が頼りにする大きな物資供給地帯があったと考えるのが自然と見ます。大和の北方でそんなところは近江しかないと見ます。つまり近江からの物資輸送が畿内王権を事実上支えていたと考えます。そう考えれば古墳時代の中心地の変遷は説明しやすくなります。

中心地 輸送手段
大和柳本時代 奈良湖を使っての大和国内からの水上輸送
佐紀盾列時代 大和川水運による河内からの輸送重視
古市時代 淀川水運を使っての近江からの輸送重視
百舌鳥時代
もう少し補足すれば畿内王権を支える物資は、大和、河内、近江が大部分を占めていたと見ています。このうち近江の比重がドンドン増え、いかに近江からの物資を効率よく運送するかを重視して中心が動いて行ったんじゃなかろうかです。近江の物資は琵琶湖を経て瀬田川、淀川、さらには河内湖に運び込まれていたと考えています。大和への輸送は大和川水運になりますが、大和川のネックは亀の瀬になります。近江からの物資が畿内王権を支えだす比重が増えると、大和川水運のネックが重視され、大和から河内に王権の中心が移ったと考えるのが自然そうです。


継体は何故に都を大和に戻し、これが定着したか?

これを説明しないと今日の仮説は支えきれません。まず純政治的な理由はあると思っています。継体クーデーターは短期間で成功したものじゃありません。おそらく最終的に大和勢力と手を結んで河内勢力を抑え込んだ構図ぐらいを想像しています。つまり河内は都を置くには危ういぐらいの感覚です。味方勢力が多く、河内からの進攻があっても亀の瀬で食い止められる大和を都に選んだぐらいでしょうか。発端は政治的理由であったのですが、継体政権も王権を維持するために近江の物資は必要です。つうか継体の本拠地は近江ですから、近江との連絡路は重要です。連絡路として一番便利な河内は使いにくいので、近江から大和への新しい運送ルートを開拓したと考えています。木津川水運を使い佐紀丘陵を越えるルートの確立です。これが案外スムーズに稼働してしまったと見ています。

木津川水運は一部陸路を挟むのがネックとは言え、当時的には必要にして十分な輸送量を確保できたと見ています。それと河内もこの影響を受けたと見ます。古墳時代を通じて近江からの物資はすべて河内を中継点にしていたのですが、木津川水運がメインになると近江から河内への物資輸送量は減少します。中継貿易的な要素が河内から減少し、衰微していった可能性です。そいでもって強引ですが、そのまま定着してしまったぐらいです。


再びの転機

木津川水運重視は都の移り変わりも傍証となります。天武の時代に本格的な都の建設に着手します。藤原京奈良盆地の南部ですが、次に遷都したのは奈良盆地北部、佐紀丘陵の麓の平城京です。平城京造営の時に大量の木材を運び込んだので木津川と言う呼称になったの説があるぐらいです。木材供給のために平城京を選んだ部分もあったかもしれませんが、奈良盆地内の輸送のショート・カットも狙いの可能性もあります。ここは想像を膨らますと、河内からの物資も淀川を遡って木津川水運を利用するようになっていた可能性もあると見ています。

大和川水運は大和と河内を結ぶ重要な輸送ルートですが、亀の瀬の難所は当時でも陸路だったでしょうし、奈良盆地の開拓が進むと大和川の水量が維持できなくなり運送が出来なくなる時期が長くなっていったとされます。それでも藤原京を作った頃は大和川水運は重視されていたと思いますが、都が平城京に遷ると大和川を使うより淀川を遡るルートに変わった可能性はあると考えています。距離は長くなるように思えますが、水路を使う方が効率よく運送できるのが古代の輸送体系です。まあ、大和川の亀の瀬の難所と佐紀丘陵なら、佐紀の方が陸路としてはラクだったのかもしれません。当時の水運の推測図を挙げてみます。

だいたいこんな感じです。


今日のまとめみたいなもの

広域王権が成立すると中央に物資があつまり都は肥大化します。これが政権安定の循環になる一方で、物資の集中は更なる都の肥大化を起こします。要するにもっと物資が必要になる状態です。古墳時代畿内王権の主要な物資の供給元は大和、河内、近江だったと推測しています。とくに河内と近江です。畿内の先進地は河内と大和ですが、少し遅れて近江が発展し、発展した近江の物資供給が畿内王権に取って重要なポイントになったと考えています。要するに如何に効率よく都に近江の物資を運び込むかです。近江の物資は

これで大和に運ばれていたと考えていますが、このルートで一番ネックになるのは亀の瀬だったと見ています。ここを船で登るのは無理なために陸路を使ったと考えていますが、ここの陸路も結構険しいと言うところです。亀の瀬の陸路で音を上げて古墳時代の中心地は大和から河内に移って行ったと考えています。河内なら淀川系水運で効率よく近江の物資を運べます。もちろん河内の物資は地元ですから手に入ります。大和からは逆に不便になりますが、それを上回るメリットがあったから河内に都を置いたと考えます。ここで継体クーデターが都を大和に戻します。この時に開発されたのが木津川水運だったと想像しています。木津川水運とて佐紀丘陵を越えなければなりませんが難度は、
    亀の瀬 > 佐紀丘陵
このメリットは河内からの物資輸送も大和川水運から淀川水運経由の木津川水運にシフトさせてしまうぐらいのものがあったと推測しています。河内からの輸送が淀川系水運にシフトすれば都が奈良盆地の南方にあるのは不便です。木津川水運の恩恵を受けやすいように平城京に遷都した理由がコレぐらいです。平城京の繁栄をもたらした木津川水運ですが、平城京の発展が木津川水運の限界を越えたと見ています。やはり最後の陸路部分がボトルネックとして解消しようのない問題として浮上したと考えています。

ならばと思いついたのが佐紀丘陵の陸路をスルーする事の様に思っています。聖武が何故に恭仁京なんて作ろうとしたのか後世になると判りにくいですが、とにかく佐紀丘陵を回避したかっただけに感じます。聖武はどっちかと言うと思いつきの人ですが、聖武に取っても現実の政治課題の物資不足は深刻に受け止めて、そのボトルネックを回避する試みを行ったぐらいに見ています。聖武の時は遷都騒動を中途半端に起こしただけで終わりましたが、桓武の時代になっても物資不足は深刻になりこそすれ解消はしていません。

桓武も佐紀丘陵越えを企画しますが聖武より大胆になります。長岡の地は瀬田川、木津川、淀川の合流部になります。あくまでも想像ですが当時の運送状況として、瀬田川水運の近江の物資、淀川水運の河内の物資は一旦長岡に集められ、そこから木津川水運に積み替えていたんじゃなかろうかと見ています。つまり物資が一番集まりやすいところになります。ならば佐紀丘陵を越えるだけでなく木津川水運もスルーしてしまえば良いと考えたと想像しています。木津川水運は大和の物資を運ぶだけに限定しようです。

長岡京は水害問題、地形の狭隘問題もあって最終的に平安京にさらに遷りますが、基本的な水運メリットは維持できています。こうやって考えてみると何故に平安京はあそこに位置するかも説明できる気がしています。畿内王権の主要物資供給源は河内、近江、大和であり、この3地域から水運で一番物資を運び込みやすいのが平安京となります。このメリットは畿内王権が全国区になっても基本的に変わらず、

  1. 北陸・東日本の物資も最終的に琵琶湖水運経由で運ばれる。
  2. 瀬戸内海沿岸からの物資も難波津から淀川水運経由で運ばれる。
後世になるほど瀬戸内海経由の物資の比重が増えたと思っています。それなら近江だって良さそうなものですが、瀬田川水運がネックになった気はしています。瀬田川は結構な急流で下るのはともかく、物資を満載して上るのは少々無理があった気がしています。ですから都は淀川水運の終着駅あたりに置く必要性があったぐらいでしょうか。