播磨国雑談

播磨の由来を知りたくなって播磨風土記で探して見ると、

巻首闕

こうなっています。欠けている部分にはおそらくですが、

  • 播磨の由来
  • 明石郡、赤穂郡の記述
これがあったんだろうとされています。このうち明石郡は逸文が遺されていますが、播磨の由来については不明です。それと幾度か指摘がありましたが、地名を漢字で表してはいますが「好字」で表記せよの指示があったとされ、「音」はともかく字義の解釈は慎重性が必要とされます。ほんでもって播磨風土記はこの世に一冊しか残されておらず、写本系統による異本も存在しないとなっています。つまり
    播磨の由来は不明である
こうなっている事が判明した次第です。


針間鴨国

古記録では播磨ではなく「針間」と表記されている事がしばしばあります。他に「幡麻」と表記される事も多かったようです。あくまでも想像ですがとにかく「ハリマ」と呼ばれていた事は間違いなく、風土記編纂の時には「幡麻」からの連想で播磨が好字として選ばれ、やがて公式表記として定着したんじゃなかろうかぐらいを考えています。では旧令制国全体をすべて「ハリマ」と呼んでいたかどうかとなると、これまた違うようです。旧令制国として成立する以前は3つの国としてあったようでwikipediaより、

7世紀に成立した。針間国(加古川以西)・明石国(明石郡・美嚢郡加古郡印南郡)・針間鴨国(加古川中流〜上流)が大化の改新以降に播磨国(針間国)へ編入されたと推定されている。

現在の感覚なら

地元住民の実感としてもこんな感じです。実感と言っても住民以外には判りにくいかもしれませんが、西播北播東播は同じ播磨であっても気風が少々異なるぐらいのところです。おおよそ播磨は加古川によって東西に分けられ(現在でもクルマのナンバーが神戸と姫路で分けられる)、加古川の東側も海寄りの明石・加古川高砂あたりと内陸部の小野、西脇・加西はまた分かれるぐらいの感覚です。もちろんこの感覚は後世の交通体系の変化による影響も大きく、加古川の水上交通が盛んな時代と明治以降に衰退から消滅に至った以降では変わります。もう少し言えば明治以降は県庁所在地でもある神戸の急速な発展があり、神戸の発展と加古川水運の衰退により加古川東側の内陸部の目は西に向かず、神戸に向った点も大きいところと思っています。

それでもなんですが、針間鴨国と明石国の境界は説明できそうな気がします。古代の開発は河川に沿って開かれていったとして良いでしょう。もう少し言えば海から河川に沿って広がっていったぐらいの考え方です。そうであればまず海沿いの明石国が先行したぐらいは言っても良い気がします。明石から印南野方面に広がり加古川川から北上していったぐらいの見方です。加古川もそれなりの大河ですが、途中に闘龍灘の難所があります。この難所は江戸期に掘削されるまで、加古川水運を南北に分けていました。おそらく明石国の北限は闘龍灘まで、そこから北側は針間鴨国ぐらいじゃなかったかと想像しています。

一方の西播の針間国は明石国系列と別の開発体系と言うか開発集団が展開していたぐらいを想像します。想像を進めると、

  • 明石方面の開発集団
  • 姫路方面の開発集団
原初はこの2つが別個に播磨を開発したんじゃなかろうかです。ここで地名になりますが北播にあった針間鴨国は針間からの派生の国名に思えます。姫路の開発集団は開発地域を広げた結果として、加古川中流から上流にも開発地域を広げ、母国の針間国と別系統の針間鴨国を成立させたと言いたいところですが、ここで引っかかるのは「カモ」になります。カモ族は賀茂氏であり鴨氏になります。記紀では神武東征の折の八咫烏の子孫みたいな位置づけです。現在も京都に残る上賀茂神社下鴨神社賀茂氏の勢力範囲の名残と見たいところです。このカモ氏の一族が加古川上流に進出した可能性もあるかもしれません。カモ氏が加古川上流に進出した頃には既に西播の針間国は成立しており、針間国と区別するために「ハリマのカモ氏の国」として針間鴨国としたんじゃないかと思ったりしています。


祭礼分布

周期的に話題になる県民意識とか、県民性に乏しいのが兵庫県の一つの特徴です。そりゃ構成される旧令制国

  • 摂津の東側(阪神間
  • 丹波の一部(三田、篠山方面)
  • 淡路
  • 但馬
  • 播磨
こんだけあるわけです。兵庫県は行政単位としてありますが、県民は兵庫県に求心力を強く抱く事はありません。ではせめて旧令制国内にはあるかと言うと播磨では疑問です。後世の影響も大きいとは思いますが、旧令制国成立以前の三国の意識すら残っている気がします。私は北播の住人ですが、姫路を中心とする西播とは同じと思えません。ついでに言うと明石や加古川が中心とする東播にも馴染みがありません。外から播州人として括られると違和感がバリバリ出て来るってところでしょうか。そんな旧令制国播磨成立前の三国意識が反映されている物は何かないかと探していたのですが祭礼はなかなか興味深いものがあります。

播州も祭りが盛んな地域で春秋の祭礼には多くの屋台が奉納されます。この屋台のタイプは大別すれば三種類になります。播州祭見聞記から引用させて頂きますが、

平屋根型 反り屋根型 神輿屋根型
祭りの基本的な形式はどこも似ていまして、地域の祭神を年に一度「御旅所」に旅行してもらうスタイルになります。でもって派手な飾りの屋台に祭神が乗るのではありません。祭神は屋台とは別の神輿の乗って御旅所に向います。ほいじゃ屋台は何をしているのかと言えば、祭神の旅行の供奉ってな役回りです。実際的には地域差があるのですが、
    宵宮・・・御旅所に向う祭神を見送る
    昼宮・・・御旅所から帰った祭神を出迎える
御旅所形式の祭礼は別に播州独特のものではありませんので、これが共通している事は不思議ではありません。供奉する屋台がいずれも担ぎ屋台になっているのは前にも少しムックしましたが、江戸期の流行と地形的な問題もあったと考えています。地形的なとは、山車や地車形式は宮入する神社が平坦地にある必要があります。つまりは階段を山車や地車は登れないってところです。もっとも平坦地にある播磨の神社でも担ぎ屋台を用いますから、これは最低限の播州人の共通性かもしれません。

担ぎ屋台である事は共通性として認めますが、屋台の形式はかなり異なるのは見ればわかってもらえるかと思います。これも播州祭見聞記に祭屋台の分布地図があったので紹介しておきます。

大胆に分ければ

    針間国・・・神輿屋根型(水色地域)
    針間鴨国・・・反り屋根型(ピンク色地域)
    明石国・・・平屋根型(黄色地域)
こう見れないだろうかです。形式で言うと反り屋根と平屋根は布団屋根の共通部分はありますが、神輿屋根型は正直なところ異質です。播州の祭礼の研究家に言わせると布団屋根は原初は平屋根で、それが徐々に反って反り屋根型に発展したと言う説があり、その証拠として平屋根と反り屋根の中間型が存在します。

まあどうなんだろうと云う所ですが、針間鴨国と明石国は祭礼に於いては未だしも共通性があるぐらいに言っても良さそうぐらいってところです。


神話

ではでは針間国と針間鴨国、さらには明石国の神々の間で抗争があったかとなると、私の知る限りなさそうです。播磨風土記に遺されているのは、、

ただなんですが、話の骨子は針間北部に勢力を伸ばそうとした天日槍命と地元の伊和大神の争いであり、結果は針間は伊和大神、但馬は天日槍命とする事で決着しています。たとえば伊和大神が明石国に攻め込んだとか、針間鴨国と争った的な神話は風土記にはないようです。こんだけの事で何かを語ろうとするのは無理があるのですが、伊和大神に代表される古代西播勢力は東に勢力拡張をするより、姫路平野に代表される西播そのものの開拓に目一杯であったぐらいの想像は出て来ます。

ほいじゃ針間北部に天日槍命が勢力を伸ばした時に反応したかですが、古代の開拓の中心地は針間北部だったからではないかと考えています。姫路平野は市川、夢前川、揖保川が織りなす平野ですが、古代の開拓技術では下流部の水害は手強かったぐらいの見方です。中流から上流の谷間がまず開拓されたのは古代史の知識になります。つまり下流の姫路平野の開拓は「まだまだ、これから」ぐらいの想像です。でもって天日槍命は神話にあるようにまず針間北部に勢力を広げたのではなく、但馬から針間への進出を行ったと見たいところです。但馬から播磨への進攻は後世でも結構あります。中流域まで開拓地を広げていた伊和大神勢力は、上流域に進出してきた天日槍命を看過できるはずもなく全面戦争になったぐらいを想像しています。

それと東の明石国に進むには印南野があります。ここは台地となっており、明治期まで水に困り水田が十分に開けなかったところです。そんなところにわざわざ進出するより、姫路平野の下流部に開拓地を広げる方が効率的ってところでしょうか。加古川流域への進出に積極的であったのはむしろ明石国であったかもしれません。明石にも平野部はありますが、なにぶん広くありません。東は六甲山になり、西は印南野ですから、印南野を越えて加古川流域に開拓地を広げようとするのは自然の流れです。

播磨の地名の由来は不詳なのは冒頭に書いた通りなんですが、開拓状況を考えれば「針の間」はあるかもしれません。現在の姫路平野中心部が手つかずで市川、夢前川、揖保川の中・上流部に開拓地が広がっている様子を表現したぐらいです。それと針間鴨国の成立は明石国からの開拓者が加古川上流まで遡って開いた国ってなストーリーが一番合いそうな気はします。祭礼文化の共通性から姫路より明石に近いところがありそうだからです。

先に気にした「カモ」ですが、カモ族に結びつけるより「かも?」だったなんて想像もしています。古代ヤマト政権が国名を決める時に、

    官僚A:「加古川の上流にも国があったけど、なんて言ったっけ?」
    官僚B:「えっと、えっと、あの辺も針間(ハリマ)かもしんないけど」
    官僚A:「そっか『ハリマカモ』か!」
てなことはまさか無いとは思うのですが・・・。