ふとん太鼓考

この歳になっても祭りが近づくと何故かソワソワします。前回に屋台の話を触れたもので、余計にソワソワしてしまったので、そのソワソワ感をムックにぶつけたいとおもいます。前にもやっているのですが、新資料が手に入ったので二番煎じです。ちなみに最近では屋台と地元でも呼びますが、元はと言うか本来は「太鼓」と呼びます。そのためかwikipediaの分類でもふとん太鼓としています。基本的な特徴としては

  • 太鼓を据えて打ち鳴らす
  • これを担いで町内や神社で練る
関東の方にイメージしてもらうなら、神輿に太鼓を付けて叩きながら担いでいるようなものです。播州には神輿屋根型の屋台があるので見てもらいますが、

神輿なら中心部に神が乗るのですが、屋台では太鼓が据えてあり人が乗り打ち鳴らします。布団屋台の場合は屋根が布団になり、

こういう風になる訳です。屋根の赤い部分は布団を表し、起源としては神が祭礼の時に御旅所に行かれた時の布団を運ぶのを意味したとされます。布団屋台の最古の記録としては貝塚宮・感田神社 太鼓台祭りに、

感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

泉州最古としていますが、発祥は泉州として良さそうで1741年頃までには使われていた事がわかります。歴史的には泉州から淡路に広がり、さらに瀬戸内海沿岸に広く伝わったとなっています。播州もそうですが、伊予の太鼓台も泉州の布団屋台の系譜を受けています。ここで歴史マニアとしては一番古い形式の布団屋台とはどんなものかに関心が集まるわけです。


屋台の基本構造

播州祭り見聞記から引用しますが、

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泥台と呼ばれる足元の部分には太鼓が備え付けられています。この図では見えませんが、泥台からは4本の柱(四本柱)が伸び、四本柱の上部は虹梁と言われる横桁が設けられます。その上が複雑なんですが、

  1. 斗組と呼ばれる上方に広がる構造物があり、斗組の間に狭間を設け、そこに彫物(木彫り)と呼ばれる飾りをはめ込む
  2. 斗組の上には雲板が組まれ、さらにその上に布団台が設けられる
  3. 布団台の上に布団屋根が置かれる
こういう構造になっています。布団の枚数は播州では3段が多いですが、泉州などでは5段も多く、七段なんてのもあるそうです。基本的な装飾としては、
  1. 高欄に掛けられる高欄掛(地元では座布団って呼んだりもします)
  2. 四本柱を覆うような水引幕
  3. 四方に提灯
  4. 屋根に布団締めと呼ばれる飾り
神輿屋根型の場合は水引幕が非常に短いタイプになり太鼓の打ち手を見せるところもありますが、布団屋台の場合多くはは豪華な刺繍を施したもので覆ってしまいます(もちろんそうでないものもあります)。見るからに高価そうなのですが、私がかなり前に聞いた時には提灯一つで100万円ぐらいって話もありました。豪華にしようと思えばいくらでも値段は上がるってところみたいです。


オリジナルに近いものは

絵図で残されているものとしては、1796〜1798年に発行された摂津名所図会があります。これは武庫川女子大学学術成果コレクションからですが、主要部分を見てもらいます。

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屋台の足許部分や担ぎ棒のあたりははっきりしませんが、構造として

  1. 四本柱があり、高欄が設けてある
  2. 斗組や雲板などの構造物は無く、虹梁の上に直接もしくは布団台的なもの(実質的には天井)の上に布団屋根が載せられている
もう少し言うと、布団屋根は本当の布団に近いものであった可能性もありそうです。現在の播州屋台の布団屋根は「元布団」ってところで、実際は型の上に布が貼り付けてあるものです。そのため布団締めと言っても装飾化していますが、摂津名所図会の布団締めは布団がばらけないように縛ってあるように見えます。もう少し言えば最上段の膨らみから本当の布団が使われていると見れそうな気がします。これを当時はなんと呼んでいたかですが

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提灯に「太鼓」と書かれているのがわかります。壇尻とも呼ばれていたとの記録もありますが、太鼓とも呼ばれていた事がわかります。現在の布団屋台に較べると提灯も、水引幕も、高欄掛けもない割と質素なものであったように見えます。このオリジナルに近い布団屋台はおそらく泉州にも、播州にも残っていないとして良さそうです。それでも日本は広いもので、長崎にオリジナルに近いものが残されています。wikipediaより、

1799年(寛政11年)- 初めてコッコデショ(境壇尻)が登場する。

  • 江戸時代、唐船・オランダ船の舶載する商品等の運送は、主に境船によって行われていた。境船の船頭や水夫は長崎滞在中に樺島町の船宿に宿泊していた。そのような縁から境壇尻が樺島町の奉納踊りで行われるようになった。

1799年と言えば摂津名所図会が発行された時期とほぼ同じです。でもってコッコデショの画像ですが、

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摂津名所図会の太鼓と非常に類似しているのが判ってもらえるかと思います。あえて共通点を挙げれば

  1. 虹梁の上に斗組や雲板などの構造物がない
  2. 屋根の布団が本物に近い
それとこれはタマタマかもしれませんが、太鼓の叩き手が4人で、その4人が長頭巾(てエエのかな?)を被っているのも共通しています。コッコデショには提灯や高欄掛けもありますが、これは堺から導入された当時からあったのか、それとも後世に付けくわえられたのかは私の調査能力では不明です。

もうひとつ太鼓台を紹介しておきます。坂出市HPより

伊予の太鼓台も

太鼓台は泉州堺から瀬戸内海沿岸地方に伝えられ,各地で独自の祭礼文化として伝承されました。

やはり泉州由来なのですが、ここは蒲団締めが非常に発達したようです。布団屋根は布団と言うより蒲団締が全面を蓋い巨大化し「どこに布団があるんだって」ところです。実際に見たことがないので推測になりますが、太鼓の叩き手は太鼓の上部あたりにいるはずですから、図では高欄幕のあたりになりそうです。上幕は播州系屋台の斗組とか雲板のあたりになるのでしょうか。つうか高欄はどこだったところです。ルーツは同じでも装飾の方向性でこれだけ変わるってところでしょうか。


アクション

コッコデショは非常に激しいアクションを整然と行うのですが、その中でも見せ場は、

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完全に宙を舞っているのがわかってもらえるかと思います。ちなみにこれを片手を差し伸ばして受け止めます。こんな荒業は播州には残っておらず、せいぜい両手を差し伸ばして屋台を差し上げる程度です。この屋台を宙に舞わせるアクションがコッコデショ独自の物かどうかですが、太鼓台のYouTubeを御覧ください。

コッコデショと較べたら投げる高さは低いですが、それでも屋台を投げ上げるアクションを行っています。これだけしか傍証が無いのですが、18世紀の屋台のアクションには「放り投げる」はかなりポピュラーな手法であった可能性があると考えています。それが衰退したのは、

    装飾のデラックス化による重量の増加
太鼓台が1.5トンぐらい、播州系屋台もそれぐらいですがコッコデショは1トンぐらいだそうです。担ぎ棒の長さと担ぎ手の数はどこもチョボチョボですから、50%の重量増加は投げ上げるのも、ましてやこれを受け止めるのも物理的に不可能となっていったぐらいの見方です。そりゃ下手すりゃ死人が出ます。一方のコッコデショは投げ上げるアクションを見せ場として保つためにデラックス化による重量増加が抑制され、オリジナルに近い形態が維持されたのでないかと推測しています。