日曜閑話42

今日のテーマは「布団屋台」です。この名称も地域によって様々であり、屋台と言わずにヤッサ、太鼓、もしくは太鼓台としたり、ダンジリ(壇尻)の表現も使われたりします。今日は私の故郷が屋台を使いますから屋台にさせて頂きます。もっとも故郷も私の子供の頃までは屋台と言う表現はあまり使わず、「太鼓」がポピュラーでした。

屋台を「太鼓」と呼ぶがために、実際に叩く太鼓の事をわざわざ「鳴り太鼓」と分けて呼んでいたぐらいですが、最近ではどうやら屋台の方が優勢なので、そうしているぐらいです。


お祭の中心行事は屋台の運行ではなく神への感謝であり、祈願です。日本全部がそうかは調査不足ですが、神幸祭としてお旅所に神が祭の時に渡御するスタイルはよくあります。これの考え方の基本は、普段は神は神社に頑張っておられて、祭りの時にお旅所まで旅行するみたいな概念と理解しても良いかと考えます。

ただ調べてみると、神社なりに常に神が頑張っておられると言う考え方は後世の変形ともされています。どういう事かと言えば、神の居場所は高天原であり、もっと抽象的には天であるからです。その神が時に地上に降臨するというか、降臨しやすい場所が聖地であり、今の神社に常駐しているわけではなかったとするのが原型であったとされます。

神が降臨しやすい場所は、それなりに決まるのですが、そういう場所は山中であったり、交通不便な場所が多くなります。簡単に言うと、そういう場所で祭事を行うのは少々不便と言うわけです。そのために降臨した場所から、お祭がやりやすい場所に御移動してもらう形式が成立したとされます。御移動を願うわけですから、移動場所には豪華な社殿が必要となり、そこに神社が成立するわけです。

こういう降臨する聖地から神社に移動する形式は一部の神社に今でも残っていますが、考え方はさらに変化したようです。神は地域の鎮守ですし、神のために立派な社殿まで建設しているのですから、祭りの時だけ訪れるのではなく、常駐してもらった方が便利だになったとされます。常駐してもらえれば、神社に行けば神に直接祈願できるわけですから、住民にとっては有り難いになります。

常駐してもらう代わりに、今度は祭の日だけかつての降臨の聖地に御旅行してもらおうがお旅所への渡御になったのが現在の形式とされています。見ようによっては天から降臨した神を神社に拉致幽閉(つうか都合の良い分身の術)しているように思えない事もありませんが、神社信仰は人間の都合で変わった部分は多々あるようです。


布団屋台のルーツ

お祭りは地域の盛事であるにも関らず、一方で記録に乏しいと言う不思議な側面があります。郷土史研究家のテーマになりやすいのですが、地域柄にもよるのでしょうが由来は曖昧模糊なものになっている事が多々あります。つまりは良くわからないです。なぜかなんですが、文書による記録が残される事が少なく、殆んどは口伝による伝承の世界になります。

伝承といえば格好が良いのですが、つまりは見聞した当事者のお話の記憶の伝言ゲームになり、これがどこかで途絶えると由緒不明に容易になりうると言う事です。故郷で宮入の先頭を飾る屋台があります。地元住民は最古の屋台と一般的に信じていますが、これがいつ作られたかもはっきりしないと言うのがあります。優に100年以上は存在記録は確認できるのですが、いつであったかは誰も記録していないです。

そんな布団屋台のルーツですが、通説ではどうやら泉州であるとされています。ほいじゃ泉州が布団屋台の聖地であるかと言えばこれまた微妙で、泉州と言うか大阪一帯では地車の方が多い印象です。一番有名なのは岸和田のだんじり祭です。ちなみに地車のルーツはどこになるかですが、これは素直に京都の祇園祭に代表される山車形式の変形と考えます。

泉州でもどうやら先行していたのは地車であったような気配があり、貝塚宮・感田神社 太鼓台祭りには、

感田神社の夏祭りにふとん太鼓が担ぎ出されたのは、寛保元年(1741年)で、泉州地方のふとん太鼓では最も古いまつりです。

 同神社の記録によれば、「寛保元年のおまつりに北之町だんじりが出されたが、引たん志りは堺から借ってこなかった」と記されており、両者を区別しているところから、このだんじりはふとん太鼓のことと考えられます。

注目しておいて良いのは、この感田神社の夏祭りは布団屋台では泉州最古とする一方で、布団屋台が出現するまでは「引たん志り」つまり地車が使われていたとなっているところです。地車スタイルの祭があった中に、後から布団屋台形式が出現したと解釈できそうなところです。感田神社が本当に最古であるかどうかは確認のしようもないのですが、これ以上は誰も知らない世界になりそうです。

泉州でも地車と布団屋台は混在しているのですが、どちらをその地域が選択したかの理由もほぼ不明です。ただ一つだけ判りやすい理由はあります。地車は当然ですが道路と言うか平地を走るものです。つまり階段を乗り越える事は基本的に無理です。神社も平地にある事は少なくないですが、一方で小高い丘の上にある事も珍しいとは言えません。

祭のクライマックスは宮入ですから、神社に石段があれば地車では宮入が不可能になり、担ぐ形式の屋台が選択されたとの考察がどこかにありました。どうもそれだけではないような気もしますが、ある程度の拡がりで泉州を中心に広まったのであろう事だけは間違いありません。とくに堺の伝承は面白くて、地車がトラブルを起こして停止された時に代用として導入され定着したともなっています。

この泉州の布団屋台は対岸の淡路にも広まったとされます。ソースが見つけられないのですが、泉州から伝わったの記録が残っているそうです。淡路では地形の関係もあってか広く定着し、さらにこれが瀬戸内海沿岸の西日本に広く伝播したともされています。ここも微妙なところが多々あり、淡路経由で広がった分もあるでしょうが、泉州からの直輸入の分もあったはずです。

ただ淡路での屋台製作がある程度盛んであったため、西日本一帯に広まった布団屋台形式の祭の由来は混乱している部分はありそうです。


なぜに布団屋根なのか

これも各所で違いがあるので一概には言えませんが、屋台であれ、地車であれ、ダンジリであれ、これには神は乗りません。神が乗るのは神輿です。神幸祭でお旅所旅行される時も神は神輿で動く事が多くなっています。ほいじゃ、屋台は何をしているかですが、神輿の供奉と言うか付き添いです。故郷の祭の形式で言いますと、

  1. 宵宮に屋台が神社に集まり、神に旅行を促す
  2. 夜間にお旅所に移動
  3. 昼宮にお帰りになられる神を出迎える
神輿は神の乗り物ですから神社所有になりますが、屋台は供奉のために氏子が付き従うものですから、それぞれの町の所有物になります。祭に関する記録が乏しいのは、屋台が神社の所有ではなく、町の所有であり、神社サイドが積極的に記録しなかったと言うのは大きかったようにも思います。

それはともかく、問題は布団です。太鼓や地車にあるお囃子はわかりやすいところです。神への奉納です。神に賑々しく感謝を捧げるものとも言えますし、供奉行列を華々しく盛り上げるためとわかります。ほいじゃ布団はになるのですが、これはなんと神がお旅所旅行の時に寝てもらうためと言うのがルーツだそうです。

今では綿入りの分厚い布団など当たり前のものですが、祭の形式が成立した江戸期でも貴重品とされました。神に寝てもらうために特注の綿入り布団を製作し、これを高く捧げるのが始まりだとされています。高く捧げるというか、原初的には重ねて縛り、載せていたと考えても間違いではないでしょう。

布団屋根の形式も様々で、3段から7段ぐらいまであったはずです。布団の厚さも様々ですが、原初的には厚いほど、枚数が多いほど良かったんじゃないかと考えます。そりゃ寝具ですから、そうなります。


オリジナルに近い形はどんなものだろう

現在の布団屋台は豪華で華麗な物になっています。祭りも時代と共に変わりますし、さらに言えば屋根の布団が、元もとは神の寝具であったなんて事も忘れ去られます。一方で町同士の見栄の張り合いも祭の華であり、ひたすら豪華に大きく肥大化していきます。屋根に使っている布団も、本物の布団から布団風の構造物に変わりますし、屋台の飾りも派手になっていきます。

そうなってしまうとオリジナルを想像するのが困難になるのですが、長崎のコッコデショはかなりオリジナルに近いと考えます。コッコデショの由来なんですが、wikipediaより、

1799年(寛政11年)- 初めてコッコデショ(境壇尻)が登場する。

  • 江戸時代、唐船・オランダ船の舶載する商品等の運送は、主に境船によって行われていた。境船の船頭や水夫は長崎滞在中に樺島町の船宿に宿泊していた。そのような縁から境壇尻が樺島町の奉納踊りで行われるようになった。

ちょっと自信がないところもあるのですが、「境船」の「境」とは「堺」を意味するようで、長崎くんちに参加するときに故郷の布団屋台を持ちこんだと見ます。持ち込まれたのは感田神社の記録が1741年ですから、オリジナルに近い時代であったはずです。とは言え200年以上も経っていますから、他地域同様に変化や過大化が行われても不思議は無いのですが、そういう変化が乏しい可能性があります。

一つはコッコデショは毎年奉納されるものではなく、7年に1回だそうです。wikipediaからですが、

長崎市の秋の祭り「おくんち」で奉納される演し物のひとつ。担当の町は樺島町。樺島町(旧字:椛島町)は、学校の歴史の教科書などでも有名な出島と長崎奉行があった江戸町の隣の町である。

多数の町が所有し、毎年いずれかの町が披露する龍踊りなどとは違い、樺島町のみが行う演し物である為、 7年に1回しか行われない。

コッコデショ自体は他にもあるという情報もありますが、長崎くんちで登場するのはこれ一台であり、それも7年に1回しか出ません。つまり比較競争する相手がいないわけですから、町同士の見栄の張り合いからの変化の影響は少ないと考えられます。

もう一つは動きの激しさです。

相当練習しないとできない見事な動きですが、それはともかく、これだけ激しい動きをするには大型化、重量化は難しくなります。現在でも1トンぐらいはあるそうですが、布団屋台の大きなものになると2トンを越えるものも存在します。飾りを派手にしたり、屋台を大型化して重量が増せば、この動きを行うのは少々無理になります。

1799年当時とは変更部分はあるとは思いますが、他の地域に較べて少ないと考えて良さそうです。そう考えて各部をもう少し詳細に較べてみたいと思います。比較に出すのはもめないように故郷の屋台にして見ます。

長崎コッコデショ 播州屋台


似ているが相違は明らかです。とりあえず屋根の布団がかなり違います。コッコデショの布団は、布団(つうか巨大な座布団)である事がかなり明瞭に確認できます。一方で播州屋台になると、言われれば元は布団であった事がわかるぐらいに変化しています。子供の頃に屋台の屋根を見て、あれが布団であるといわれてもピンと来なかった記憶があるぐらいです。

それとこれは屋台の基本的な構造になるので細かいのですが、とくに中心部を注目してもらいたいところです。まず地面に付く台の部分があります。これを私の地元では泥台と呼ぶのですが、ここに太鼓が収納されています。泥台の上に高欄といわれる柵状構造が張り出しており、さらに四本柱が屋根に向かって立っています。

ここの基本構造は長崎も播州も同じですし、他の地域の布団屋台も同じです。問題は四本柱のさらに上の構造なんですが、柱同士は虹梁と呼ばれる横木で結ばれています。長崎では虹梁の上に布団屋根が乗っかる形になっています。ところが播州屋台では虹梁の上にさらに構造物が追加されています。

  1. 桝組みと呼ばれる3段構造があり、桝組みの間に狭間と呼ばれる場所を設け、そこに木彫りをはめ込んでいる。
  2. 桝組の上にさらに雲板と呼ばれる2段構造が組まれる
  3. さらにその上に布団台座とも呼んでも良さそうな三段構造が置かれる
ここの構造も地域差があるのですが、他地域では多かれ少なかれ虹梁の上に構造物が追加されていますが、長崎を見る限り「元はなかった」と考えて良さそうです。元はシンプルに虹梁の上に布団が乗っかっていたとしてよさそうです。

それとこれは変わりすぎて判り難いと思いますが、長崎では布団を縛っている帯状の部分がよくわかります。見るからに布団が崩れないように縛っている感じがよく判ります。一方で播州屋台になると、金色の飾りになっています。あれは一応シャチとなっているのですが、地元ではああいう屋根飾りを「布団締め」と呼びます。

つまり元もとは長崎のように本当に布団を縛っていたのが、屋根が布団風屋根に変化していく過程で、単なる飾りに変化したと考えて良さそうです。ただ言葉としては残ったとするのが妥当そうです。

ついでですから提灯も大きく変わっています。播州屋台の提灯は昼提灯と言って、夜になれば本物の提灯に変えられます。これも元もとは長崎のように小型の提灯であったのが、大型化しただけではなく、昼間は華麗な飾り物に変化していったと見ても良さそうです。

後は叩き手を見せるかどうかでの違いだけかも知れませんが、四本柱の周りの幕の有無があります。長崎でも虹梁のところに形ばかりはありますが、播州屋台になると完全に覆う形式になっています。故郷では水引きと呼んでいますが、ここを飾り立てる事により極彩色の様相になっているとしても良いと見ます。


文化の伝播と保存の関係は周辺部の方が残りやすいとされています。中心部は常に新しい文化が創造され変化していくのに対し、周辺部の方が受け止めた文化を原型のまま保存しようとする動きが強いからだとされています。長崎も江戸期は文化の中心の一つでしたから周辺部と言うのは失礼にあたるのですが、偶然が積み重なって奇跡的にオリジナルに近いものが残っているように思います。

それと誤解を招かないように付け足しておきますが、どちらが良いとか悪いとかの話ではありません。祭は地域特性の発露であり、時代による変化もまたその地域の文化です。それぞれがオンリーワンであるわけです。優劣なんて議論をやらかせば、こんなブログは燃え尽きて跡形も残らなくなります。と言う事で今日は休題にさせて頂きます。