大歳神社からの連想

大歳神社とは年神を祀る神社で、それこそ全国各地にあります。年神は神話ではスサノオの子となっていますが、実りの神、祖先信仰、歳徳神となって広まりwikipediaより、

現在でも残る正月の飾り物は、元々年神を迎えるためのものである。門松は年神が来訪するための依代であり、鏡餅は年神への供え物であった

ここまでは一般的なお話なのですが、神出を中心とした地域は少し様相が異なるとの説を福原会下山人氏は唱えておられます。なかなか興味深いので少し御紹介します。


神出

山田村郷土史より

丹生山に大国主命を祀りしは国堅の大神の子爾保都比売神云々と風土記に見ゆ、此の国堅の大神とは大国主命のことにて丹生山の西一里計にある明石郡雄岡雌岡の附近は大国主の神が八十神を生み給ひし霊地にて神出と云う地なり。早くより出雲族の蔓衍せる地にて赤石の国造は此の神裔の綿々として相紹げるものなり、されば・・・(中略)・・・猶一の証とすべきは下村に鎮座ある大歳神社は、山田庄十五ヶ村の氏神なりと伝ふ、こては日吉権現及び八幡宮より以前に祭祀ありし神にして、大歳の神は、神出村を中心に四方七八里が間の村は何れも大歳の神を氏神とせることは、此神の農業神たるの外、出雲民族との関係上、古代の民族分布の状況をも知るべき唯一の資料とすべきなり。

なかなか風格のある文章ですが、神出村を中心とする地域の大歳神社は出雲族の入植した名残りであるとの主張で、後世の年神信仰で広まった大歳神社とは少し意味合いが違うぐらいに受け取っても良い気がします。この説の信憑性を論じるだけの知識はありませんが、そう考えると面白い見方は確かに出来ます。以前に播磨風土記をあれこれ読んだことがありますが、読みようによっては大和王権の播磨侵攻の記録と見ることも可能な部分はあります。侵攻するには相手が必要で、その相手こそが出雲族ってところでしょうか。

播磨風土記では大和王権は明石を抑え、さらに印南野をこえて加古川東岸まで勢力を広げたぐらいに読んでいます。その時に活躍した記録が多いのが応神天皇です。ほんじゃその前の神功皇后はどうであったかですが、三韓征伐で微妙なルートを取っている可能性があります。神功伝承を拾う程度ですが、

  1. 務古の水門まで来て船を集める
  2. 甲山に甲を埋める
  3. 山田郷で丹生を採取する
  4. 三木で宿営する
  5. 加古の水門に至る
船と甲胄を赤く塗れとの神託を受けての動きですが、神出を中心に広がっていた出雲族勢力の取り込みのための動きに見ることも可能ぐらいです。福原会下山人氏は神出の出雲族が信託も含めて神功皇后に積極的に協力した痕跡ぐらいに解釈されています。播磨風土記逸文より

息長帯日女命 欲平新羅国下座之時 祈於衆神爾時国堅大神之子 爾保都比売命 着国造石坂比売命教曰 好治奉我前者 我爾出善験而 比比良木八尋桙根 底不附国 越売眉引国 玉匣賀賀益 苦尻有宝 白衾新羅国矣 以丹浪而将平賜伏 如此教賜 於此出賜赤土 以其土塗天之逆桙 建神舟之艪舳 又染御舟裳及御軍之着衣 又攪濁海水 渡賜之時 底潜魚 及高飛鳥等 不往来不遮前 如是而平伏新羅 已訖還上 及鎮奉其神於紀伊国管川藤内之峰

1/3ぐらい読み下せないのですが、福原会下山人氏の山田村郷土史によると国堅大神とは大国主命であり、その子が爾保都比売命(= 丹生都比売)であるとしています。明石国造は神出以来の大国主命の末裔であり、その娘である石坂比売に神託を下したと解釈しています。内容は赤土(= 丹土)を授け、その赤土を鉾、船の艪と艪(船首)、舟裳(どこだろう? 底のほうのことかな)、軍衣に塗れば航海は安全に行われ、新羅を平定出来るぐらいです。神託とはなっていますが、そういう協力を積極的に行ったぐらいの見方です。


大宮八幡宮と禰御門神社

禰御門神社については美嚢郡志より

又曰ク 月ノ輪ノ郷ヨリ子ノ方二当タル故ニ子守神社ト称シ来リシニ、中古ヨリ禰御門ト書記セラルト

これだけじゃ何の事だか意味不明ですが、神功皇后三韓征伐の帰路にも三木に立ち寄った伝承が残されています。もう少し具体的には三坂神社にはこうあります。

神功皇后三韓より凱旋の際、赤石(明石)の浦より上陸され、美酒の里へ御幸された。月輪郷(三木)の景色を山頂より御覧になっていると、にわかに雨が降りだし、たちまち御衣が濡れるのを見て、竹皮の大きな笠を捧げる人があった。皇后は大層感激なさって、笠人の名を勅わされたという。其人の住んでいる所に、神々を勧請したと云われる。

まず神功皇后が帰路も三木に立ち寄ったかですが、さすがに微妙な気がします。日本書紀では駒ヶ林から大輪田の泊への航海に難渋した記述があるので、素直に海路で東に向かったと取りたいところです。あえて可能性をあげるなら、神功皇后の帰還の時には香坂皇子・忍熊皇子の反乱があり、三木方面というか神出の出雲族の支持を固めるために立ち寄ったのはあるかもしれません。

それと月輪郷とは初めて聞きました。これは播磨風土記にも出てこない地名なんですが、律令制では1郷は4里であり、美嚢郡には志深里・吉川里・高野里・枚野里の4つの里が播磨風土記に記されているので、これを1郷として呼ぶ時に月輪郷としていたのでしょうか。神功皇后関連で月輪は、応神天皇の出産を遅らせる石に関連して出てきますが、これと関連があるのかどうかも不明です。地元でも滅んだ地名ですが、わずかに月輪寺が存在します。月輪寺大宮八幡宮の神宮寺であった(知らなんだ!)ので、「月ノ輪ノ郷」は大宮八幡宮周辺と私は取りたいところです。


大宮八幡宮は社殿の裏の山の上に八畳敷と呼ばれた磐座信仰が遥か古代からあったようですが、これが応神天皇を祭神とする大宮八幡宮に成立したというか、美嚢郡大和王権支配下に完全に組み込まれたのはもう少し遅い気がします。播磨風土記

美嚢郡 所以号美嚢者 昔大兄伊射報和気命 堺国之時 到志深里許曽社勅云 此土水流甚美哉 故号美嚢郡

伊射報和気命とは履中天皇であり、「堺国之時」とはなんらかの敵対勢力との境界を定めた時ぐらいに読みたいところです。「堺国」をしたのですから、最前線防御態勢及び統治体制が必要になって大宮八幡宮に防御拠点を設けたのが始まりぐらいじゃなかろうかです。というのは大宮八幡宮の地形を見ると、

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山の中腹に平坦地がある地形です。防御施設を設けるには格好と思われ、後の三木城はこれを拡大したものと見えます。大宮八幡宮美嚢郡経営の拠点と考えて禰御門神社の位置はどうなっているかですが、

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北と言うより北西から北北西に当たりますが、禰御門神社は大村坂越の麓にも位置します。あくまでも推測ですが大村坂越は古代から北播磨へのルートとして存在していたと考えて良い気がします。そこを守る拠点であったので子を守る子守神社と古くは呼ばれていたと思われます。いわゆる出城と言うか、本城の大宮八幡宮を守る支城ってところでしょうか。

禰御門神社は大村坂越を守る以外の戦略的な意味もあった気がします。「堺国」をした敵対勢力はこれも具体的には出雲族として良いかと思います。もし出雲族が攻めてきたら、美嚢郡内の出雲族に呼応を呼びかけるのは常套戦術です。そういう目で見ると高木と平田の大歳神社が気になります。とくに高木の大歳神社はwikipediaより、

別所地区の東側の美嚢川左岸の丘陵地と沖積平野に位置し、住宅地と農地が混在する地域である。由来は「高い木のある所」から取られ、大歳神社が立地し、その神社の周辺に集落を形成し、祭ることから神聖な場所とされた。

出雲族にとって重要拠点であった可能性があります。もうちょっと想像の翼を広げると、美嚢郡内の出雲族の中心地は高木であり、もし動くとすれば高木を中心に動き平田が連動するみたいな観測です。その高木と平田の連携を分断する位置に禰御門神社が位置すると見えなくもありません。そこまで考えてのものかどうかは不明ですが、とくに禰御門神社は大和王権からの派遣軍と言うか、駐屯軍というか、屯田軍団がそのまま土着したぐらいはありそうに思えます。

大和王権への組み込みは平穏に行われたぐらいに想像しています。つうのも残された伝承に血腥いものが見当たらないからです。播磨風土記でも記載の中心は億計王(仁賢天皇)・弘計王(顕宗天皇)の逃避行のエピソードが中心で、逃げ込めるぐらいですから安全地帯だったんだろうぐらいは想像できます。まあ捻って逃げ込んだら大和王権の手も及びにくかったと取れない事もありませんが、個人的には畿内文化圏の端っこで目立ちにくい地域ぐらいに解釈しています。

高木の御旅所

大宮八幡宮の祭礼は神幸祭形式なんですが、高木の御旅所が成立した、つまり神幸祭形式になったのはかなり遅かったようです。はっきりした記録はないのですが、大宮八幡宮の祭礼は高木・平田の参加が江戸後期に始まってから現在の形式になっていったという説があり、高木が参加していないのであれば御旅所も存在しなかっただろうぐらいの推測です。

高木・平田は大歳神社のある地域で出雲族天孫族の和解なんてストーリーも脳裡に浮かんだのは浮かびましたが、そんな意識が江戸後期まで続いていたとするのは少々無理があり、ここは単純に当時の大都市であった大宮八幡宮の祭礼への参加を高木・平田は単純に望み、三木町側も受け入れたぐらいに考えています。神聖地としての高木も、時代と共に出雲族の神聖地の属性が抜け落ち、古からの神聖地扱いだけが残り御旅所に選ばれたぐらいです。現在の高木の御旅所を祭り馬鹿、どこ行く記。より、

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そんな中であえてそんな古代の意識が残っていたとすればむしろ禰御門神社のある大村だったかもしれません。大村の祭礼への参加は昭和10年からとなっており、大村のみが屋台奉納に独特の慣行を残しています。地元の人間なら良く知っているお話ですが、

  1. 石段登りに引き綱(命綱)を用いない
  2. 拝殿前での屋台の差し上げの時に、屋台を横に向ける
差し上げ時の向きは禰御門神社でも同じで、
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禰御門神社 大宮八幡宮
大村秋祭保存会より
まあ、禰御門神社は大村だけの屋台奉納ですから見栄がする横向きが慣行として定着し、複数台が並んで差し上げをするために縦向きが慣行となっていた大宮八幡宮でも変えていないだけかもしれません。あんまり古代意識に無理やりこじつけても詮ないですねぇ、それぐらい記紀風土記の時代から隔たりがあるってところでしょうか。