三木の祭の屋台ムック・延長戦

持つべきものは故郷の長老じゃなかった親戚で頼んだら「出てこない」と思っていた情報が入手できました。


先々代新町屋台と先々代滑原屋台

先々代は1912年(明治45年/大正元年)に先々々代(初代)を大塚に売却した代わりに登場したものです。これが中古購入か新調かが不明だったのですが、新調で間違いないようです。しかも滑原町と同時新調の兄弟屋台であったとなっています。

先々代新町屋台 先々代滑原屋台
私は屋台の細かい構造に詳しくないのですが、並べて見るとよく似ています。どちらの屋台も末路は悲運で、先々代新町屋台は1961年(昭和36年)の第二室戸台風で破損し、先々代滑原屋台は1965年(昭和40年)の台風7号で破損して今は見ることが出来ません。


先代平田屋台ムック

先代平田屋台の情報も1965年(昭和40年)の台風7号により破損したのと、かつて画像があったサイトのコメントに、

幻の平田屋台ですね。実はこの屋台に旧新町屋台がそっくりなのです。薄い布団は同様で、総金具の布団台の並びも全く同じです。これは白黒写真ですが、記憶の片隅に残っているのは、銀色の総金具だったと思います。多くの屋台が下段から上にかけて厚みが増していくのが普通ですが、これは全く逆で上に行くほど薄くなっています。その下の二段の雲板も同じです。そして二重の大和桁に井筒と、これは明石町屋台の影響だと思うのです。また、大和桁の下の金具張りの蛇腹支輪も全く同じです。蛇腹支輪は旧末廣屋台にも付いていました。それと全体の形もそっくりです。これは、おそらく同じ大工さんが作った物だと思います。

画像がないので隔靴掻痒なのですが、先代平田と先々代新町が同じであれば先代平田も1912年に新調した可能性が高くなります。つまりは三兄弟屋台であったんじゃなかろうかです。なんとか画像はないかと探していたら地元情報で、、

現在は明石の とば へ行っている。

なんと先代平田屋台は破損後も廃棄されずに転売されたようです。明石の「とば」で検索すると鳥羽八幡神社その屋台はあります。経歴を山車・だんじり悉皆調査で確認すると、

昭和45年、三木市平田より購入。平成10年、姫路の河野屋台製作所で改修。平成24年(2014)4月6日、屋台大改修御披露目会。この改修で平田当時は雲板と挟間のみとなる。平屋根三枚布団太鼓。高さ3.8m。幅3.31m。長さ8m。

平成10年(1998年)の改修前の画像は発見できませんでしたが、平成24年(2014年)の大改修前の画像はなんとか見つかりました。

角度をそろえて新町、滑原と並べてみると、

先々代新町屋台 先々代滑原屋台 鳥羽屋台
微妙だなぁ、とくに屋根の感じが微妙に違う気もします。この辺は先々代新町・滑原の画像から50年以上はラクに経っているのもありますし、1965年の台風被害の修復の影響もあると思います。さらに1998年の改修の影響も不明です。長い年月の間に鳥羽神社風というか、明石風に屋根は改修されているのかもしれません。この辺はこれ以上の情報はないので、ここでは三兄弟屋台とさせて頂きます。


1912年

三兄弟屋台がモデルにしたのはやはり明石町の可能性があります。屋台の構造は四本柱(屋根柱)の上を柱で結ぶのですが、この組み方に井筒と虹梁と呼ばれる手法があるそうです。詳しくは播州祭り屋台のページを見て欲しいのですが、大雑把には

  • 神輿型屋根は井筒
  • 平屋根布団型は虹梁
これが一般的だそうです。ところが三木の屋台は平屋根布団型にも関わらず井筒であるものが多く、これはかなり珍しく三木の屋台の一つの特徴とする意見もあります。ここも明石町が井筒であることから中古購入改造説があり、元は反り屋根じゃなかったかなんて説もあります。それはともかく平田が1912年新調の三兄弟屋台であれば当時の大宮八幡宮の奉納屋台は
    明石町、新町
先代高木は明治20年に売却されて1912年当時にはありませんから、この2台だけだった事になります。このうち新町は初代屋台を大塚に売却しています。理由は新町の口碑に
    大きすぎて往生した!
どうも明石町に対抗して新町も大型(つうか今時のサイズ)を買ったものの、石段登りに四苦八苦していたぐらいを想像します。明石町だって間違いなく四苦八苦していたと思うのですが、とにかく小型化して新調することにしたようです。実はこの口碑もなんとも言えないと思ってまして、なんとなく新調の話は滑原から起こった気がしています。新調前の滑原屋台になると雲をつかむような話になりますが、それこそ江戸期からのもので老朽化による新調の必要が出ていたぐらいはありえると思います。

滑原の新調の話が新町にも伝わり、それなら「うちも」ぐらいです。新町と滑原は隣町ですから情報も早く伝わると思います。ここに平田がどう加わったかは想像しようもないのですが、「それならウチも」ってところでしょうか。新町では当時の屋台での石段登りに往生していたのもあり、口碑としては大きすぎたが残ったぐらいでしょうか。明石町モデルになったのも滑原先行説なら説明しやすいところで、滑原は岩壷神社氏子ですから、大宮の明石町をモデルにしたぐらいです。一回り小さくなったのは・・・予算の関係かなぁ?

では何故に1912年なのかで、この年は明治45年でもあり大正元年でもあります。いうまでもありませんが明治天皇崩御され、大正天皇が即位された年になります。明治天皇崩御は7月30日なんですが、おそらくこの年の秋祭りは中止なったんじゃないかと推測しています。天皇崩御昭和天皇しか存じませんが、あの時も自粛ムードが強かったですが、明治天皇なら「なおさら」ぐらいの想像です。でもって翌年の1913年(大正2年)は喪が明けて一転して新天皇の慶祝ムードになったぐらいはありそうな気がします。その慶祝ムードに乗って新町・滑原・平田の3台同時新調が行われたぐらいはありそうな気がします。

ついでですが、末広が昭和3年に妻鹿から屋台を買って参入していますが、これは昭和天皇御即位御大典に合わせたものと見て良い気がします。


明石町モデル

明石町も何度か改修されており、オリジナルがどれぐらい保たれているのか評価が難しいのですが山車・だんじり悉皆調査に、

  • 平成23年(2011)9月25日、屋台改修入魂・御披露目式
  • 制作年は不明なれど、江戸期よりある。昭和3年に柏木福平師により改修。平成元年にも改修。

私が見たことがあるのは昭和3年改修後のものになりますが、三兄弟屋台がモデルにしたのはそれ以前のモデルになります。つうのも明石町をモデルにしたにしては三兄弟屋台の布団が薄すぎる気がするからです。布団屋根は「どうも」改修を重ねるごとに厚くなる傾向があり、たとえば大村屋台もかつてはもっと薄い布団だったはずです。ここで地元の屋台研究家の言葉を思い出しました。三木の屋台の特徴は、

    三段平屋根で布団が薄めで幅が広め
明石町も明治期はそうだったんじゃなかろうかです。だから先々代新町も先々代滑原も布団が薄いものになっています。三兄弟屋台が登場した1913年(大正2年)に大宮で屋台奉納を行っていたのは、
    明石町、新町、平田、下町
この3台であり、新町・平田が明石町のダウンサイズバージョンとしたら、大きさの大小こそあれ同じ形の屋台が宮入りしていたことになります。この明石町モデルが結局定着しなかったのは、大正2年に登場した下町のためだったかもしれません。下町も大正2年に参入したのは慶祝ムードに乗っかってで良いと思いますが、下町は四兄弟にはならず北条町から中古購入を行い、1996年に新調はしましたが今と同じ反り屋根屋台です。
先代下町屋台
結局のところ井筒に薄めで広めの三段平屋根の明石町モデルでの統一は行われなかったぐらいとみます。明石町モデルも、新町・平田は反り屋根中古(平田は平屋根に改修)を購入、滑原は破損で失われてしまい、残ったのはモデルとされた明石町のみってところでしょうか。