日曜閑話10

今日のお題は「お祭り」。それも、私の地元の祭りのスノブなお話です。去年もやったのですが続編と言うか拡充版です。

私の地元は鄙びた街ですし、たまに帰っても「寂れ行く」がヒシヒシと感じてしまうのですが、祭りのときだけはまだこれだけのパワーが街に残っているのかと驚かされます。お祭りのクライマックスは地元では「太鼓」ないし「屋台」と呼ばれるものの宮入です。それだけならどこの祭りでもあるのですが、宮入りする時に石段があります。神社特有の急な石段で、

石段下から見る 石段上から見る


本来は87段のはずなんですが、現在は石段下をコンクリート舗装した関係か85段ぐらいになっているはずです。実際に登ると運動不足が実感できます。

そこに宮入りする屋台ですが、今日の話題の屋台は新町と言うところのものです。実は去年も書いたのですが、これが祭り直前に火事で消失しています。在りし日の屋台と火事で焼けた屋台を見てもらいます。

在りし日の新町屋台 焼失した屋台


少子高齢化の厳しい故郷の事ですから再建は無理とも思われましたが、なんとか来年には復活すると聞きました。今日はこの焼失した新町屋台の昔々のお話です。なんと言っても祭りキチガイは多い割りに故事来歴の伝承には極めて不熱心な土地柄で、私が聞いて集めた話もどれだけ正確かに疑問が持たれるのですが、記録と言う意味で残しておきたいと思います。

この祭りのルーツは混沌としているのですが、元々は神社に歌舞伎を奉納していた事が始まりとされます。石段は今も昔もありますが、歌舞伎の衣装や舞台装置を担いで昇り降りする時に威勢を挙げていたのが屋台奉昇に変化したんじゃないかと言われてます。なんと言っても絵図一つ残っていないので分からないので、その歌舞伎がどういう形態で行なわれていたかも不明です。有力な説として各町が舞台を持込みで行なっていたんじゃないかとされ、その舞台の持込みが屋台に変化したみたいな感じです。

地元の祭りの故事来歴をまとめてあるデータが三木の屋台年表(含む近隣祭礼事情)しかないのでこれに頼りますし、実は直接会って著者と言うか研究家に話も聞いたのですが最古の記録は、

宝暦元年(1751): 大宮八幡宮祭礼、享保年中"檀鶴"(だんじり?)毎年有之所、三十年中絶、又々宝暦元年に始まる

この「檀鶴」が屋台ではないかと研究家は考証しています。説得力はあるのですが大きな問題点はあります。今でこそ「屋台」と言う表現が広まっていますが、私の子供の頃は「屋台」などとは言わずあくまでも「太鼓」でした。決して「だんじり」と言う表現は使わないのです。「檀鶴」が「だんじり」であって、これが今の屋台に発展しているのであれば「太鼓」ではなく「だんじり」と呼ばれているかと考えます。

だんじり」は岸和田の地車が有名ですが、大阪から淡路にかけて広く使われている表現ですが地元では決して使いません。「だんじり」と言う言葉は歌舞伎奉納から屋台奉昇に祭りの形態が変っていく中で地元に継承されずに滅んでいるのです。「檀鶴」からの発展系ならば呼称としての「だんじり」も受け継がれると考える方が自然で、後世に伝わっていない点から考えてこれは別のものと考える説を私は取ります。

では「檀鶴」とは何かになります。研究家は「だんじり」の当て字ではないかとの説ですが、私は「だんづる」と読みたいと思います。あくまでも私の説ですがこれは歌舞伎奉納に関連するもので、「壇上で(歌舞伎)を演ずる」が「だんづる」と短くなり、当て字として「壇鶴」となったと考えます。壇としての屋台を持ち込んでいたかどうかはこの古文書からは判明しませんが、現在の屋台(太鼓)と明瞭に当時の人間は区別していたと考えます。

ここでもう一つ記録を見て欲しいのですが、

文化14年(1817): 滑原町、稲荷神社祭礼(九月十八日)に担い太鼓を奉納し、滑原町若ものと平山町若ものが争いとなり祭礼お預けとなるが、その後東条町若ものが取なし仲裁、円満解決した旨三者連判の書状を大年寄に提出

ここに「担い太鼓」の記録があり、これが確認される最古の記録とされるそうです。19世紀初頭のお話ですから、今から200年ぐらい前のお話です。確認できる資料が乏しいので推測の翼を広げざるを得ないのですが、この「担い太鼓」が直系の先祖ではないかと考えます。「担い太鼓」がどんなものであったかの絵図の記録も全くないのですが、「壇鶴」を行なう時の太鼓の持込みの発展系ではないかと考えています。

「壇鶴」のお囃子の一部であった太鼓の持込みが発展した、もしくは江戸時代にしばしばあった奢侈禁止令で歌舞伎奉納が出来なくなり、歌舞伎無しで太鼓持込みだけが許可された事柄が積み重なったとも考えられます。そうなれば当時の人間にとって歌舞伎を演じる「壇鶴」と持込みの「太鼓」はまったく別の概念になり、歌舞伎奉納が衰微するともに「壇鶴」の言葉は消え「太鼓」が残ったとの説明は可能になります。

なんにも証拠資料が無いので想像だけですが、祭りで歌舞伎奉納をするにあたり、街中で景気付けをしていたのが「担い太鼓」であったとも考えています。大相撲の触れ太鼓みたいな感じで祭り当日に町内を巡回していたのだと考えています。それが単に太鼓を鳴らして歩き回るだけでは寂しいので、太鼓を台上に置き担ぎ上げて回るに発展した可能性を考えます。

台に置いて担げば今度は飾りが必要になります。つまり美々しく装った太鼓を載せた台が現在の屋台の原型であり、主役であったはずの歌舞伎の方が何らかの理由で衰微し、本来景気付けのオマケに近かった「担い太鼓」が発展して現在に残ったと私は推理します。


それでもって現存する最古の屋台は明石町の屋台といわれています。これもいつから存在するのかよく分からないのですが、19世紀の末ではないかと考えられています。この明石町の屋台は古いだけではなく、地元の屋台の典型的なスタイルとも呼ばれ、いわば元祖的なものとも考えられています。

明石町屋台


どこが典型的かと言われてもピンと来ないと思いますが、平屋根三段で屋根の布団がやや薄目と言うのが特徴と思ってもらえれば良いかもしれません。もう少し細かく言えば、屋根が広く拡がり、その下にある狭間への絞りが強く、そこに独特のプロモーションがあるとされます。他の町も基本的にこのスタイルを踏襲して屋台を作ったとされています。この「踏襲した」と言うのは研究家の言葉なんですが、実はそれほど他の町の屋台が似ているかと言えばこれがまた疑問です。

100年以上前に明石町が新調した時には市内随一の巨大な屋台であったとされます。明石町が最大の屋台であるというのは子供の時に散々聞かされたのですが、見る限りそうでもなさそうに感じます。明石町より小型の屋台は存在しますが、随一と言うほど大きな印象はありません。ただ100年近くも伝承されるからには新調当時は余ほど大きかったと考えられます。つまり他の町は現在の小型の屋台程度がきっと標準だったのだろうと推測されます。

その後、屋台奉納をする町が増え、途中で新調があったりするにつれ「どうも」なんですが、明石町基準で屋台の大きさをそろえたと考えます。事は祭りですから、新調するなら他の町より大きく豪華にしたいというのは人間心理です。ではなぜ明石町より屋台を大きくしなかったかですが、これもまた祭り独特の物理的制限からだと考えられます。どんな制限かといえば宮入とは鳥居を潜って行なわれます。そう、鳥居の大きさが屋台の大きさの物理的制限になります。

また寄り道してしまいましたが、話は「似ていない」です。問題は新調した時になります。新品を製作したのであれば地域の伝統的デザインに副ったものが通常作られます。ところがなんですが、新調せずに他の祭りの屋台を中古で購入するという手法が多々行なわれています。布団屋台デザインは似ているとは言うものの地域の独自性が微妙に出るのですが、中古で購入すればそれが直輸入されてしまいます。そういう事が平然と行なわれています。

もちろん余り極端なものは矯正されます。末広と言う町は西播磨から御輿屋根型の屋台を購入していますが、御輿屋根ではさすがにという事で布団屋根に変更しています。ただ基本デザインはあくまでも御輿屋根を前提にして作られていますから一種独特のデザインになります。どう違うかの細かい談義は省略しますが、要は「似ていない」になります。

地元の屋台の歴史を見れば他の地域からの購入が非常に目に付きます。地元の経済力の問題であったと言えばそれまでなんですが、今はともかくそこまでの寒村ではありません。これは非常に捻った見方になりますが、播州の他の地域では屋台奉納(御輿の発展型)が成立していたのだと考えます。ところが地元では歌舞伎奉納からの派生型である「担い太鼓」から屋台に遅れて発展したと考えられます。

御輿からの発展系であればその地域の独自のデザインが根付きますが、地元では太鼓を載せる派手な乗り物であれば良いと言う考え方になり、屋台の形式のデザインの縛りの意識が緩やかであったので、各地の微妙に違うデザインの屋台が奉昇されても誰もさして問題にしなかったのではないかと思われます。各地にいろんな呼称の屋台を奉納する祭りはありますが、ここまでデザインがバラバラの祭りは珍しいと思っています。それもこれも遅れて屋台奉納形式が成立したので、独自のデザインが定着しなかったのが原因じゃないかと考えています。


長い寄り道でしたが、ところで新町です。記録に残る最古のものは、

明治7年(1874): 参考、多可郡中町より購入の新町屋台に記された墨書

これ以前がどうだったのかが分からないのですが、当時の記録に新町以外の3町が合同で屋台を運営していたのではないかと考えられる記録があるそうで、この時に購入とあるのは町で独立して奉納するために購入したのではないかと考えられています。これはもちろん焼失した屋台ではありません。この屋台は伝承では大きすぎて宮入の石段登りに難渋し、売却したと言われています。売却先は同じ市内でつい先年まで現役でした。

先々代新町屋台(先代大塚屋台)


どこまでが100年前のオリジナルかは今や不明ですが、この売却記録は

大正元年(1912): 新町、大塚へ屋台を売却

大塚町の記録にも明記されています。では売却した後に新調した先代屋台はどんなものであったかですが、申し訳ありません、実家に行けば写真が残っているのですが、一回りこじんまりした屋台であったようです。この先代屋台ですが、祖父が町内会長をしているときに事件が起こります。台風で屋台倉の屋根が破損し、ついでに屋台も破損してしまったと伝えれています。これは我が家の伝承なのですが、本当にそんな凄い台風が当時にあったのかです。まず購入の年代ですが、

昭和36年(1961): 新町、北条町より屋台購入

昭和36年の台風になるのですが探してみるとありました。

第2室戸台風(だい2むろとたいふう、昭和36年台風第18号、国際名:ナンシー〔Nancy〕)は、1961年(昭和36年)9月16日、室戸岬に上陸し、主に近畿地方に大きな被害を出した台風である。

さらに近畿地方を通過したのは、

9月16日13時過ぎ - 兵庫県尼崎市と西宮市の間に再上陸。その後、日本海沿岸を北北東進。

伝承の台風は第2室戸台風であり、屋台倉及び屋台が損傷したのは9/16である事が確認できるかと思います。当時の祭りは10/16、10/17に固定されており、祭りまで1ヶ月しない時期に屋台を失う事になります。この辺は推測ですが、現在より当時の方が町も活気があり、「なんとかして祭りに屋台を」の合意が速やかに為されたものと考えます。そうでなければこの年の祭りに間に合いません。

とは言え期間は1ヶ月しかなく新調は時間的に不可能です。新調が無理なら中古という事になりますが、屋台の中古屋があって問合せれば見繕ってくれるものでもありませんし、当然の事ながらどこの街でも秋祭りシーズンですから、おいそれとは売ってくれるものでもありません。ここら辺の事情がよく分からないのですが、「祭りには参加する」の合意が為されたとしても果たして「買う」と言う同意があったかどうかが不明です。当時の関係者はさすがに残っていませんからね。

祭りに参加するには「買う」と言う選択のほかに「借りる」と言う選択もあるからです。この年はとりあえず借りておいて新調するという選択です。祭りまで1ヶ月と言う時間を考えると「借りる」方が現実的な選択だと思うのですが、結果は「買う」になっています。どういう経緯を背負って祖父が奔走したのか誰も覚えている人に出会えませんでした。

推測すると「借りる」と言う選択を持ちながら探していたらたまたま見つかったはあり得る事です。とは言え1961年の事ですから、売り出し屋台が存在するなんて事を祖父がどこから聞きつけたのかが大きな謎です。これも研究家の説では、祖父は薬局を経営しており、薬局ネットワークで見つけたのではないかと推測していました。当時の薬局数は今より遥かに少なく、薬局同士の結束も今より固かったはずのなので、その線ではないかという訳です。

とにもかくにも祖父は北条町に売り出し中の屋台を見つけ、これを購入し、その年の祭りに無事参加しています。わずか1ヶ月でそれを成し遂げたのですから、これは驚異的と言って良いかと思います。何が驚異的と言っても、あの口下手でおよそ活動的と言い難い祖父が短期間でそれだけの奔走を成し遂げたと言う点です。ちなみに北条町も祭りが盛んな地でたくさんの屋台が繰り出しますが、ここは「節句祭り」すなわち春祭りなので購入可能であったと言うことです。

それとこれも伝承なのですが、売った方の北条サイドの理由は、ここでも屋台を新調したのだそうですが「小さすぎて見栄えが悪い」で売りに出されていたそうです。他の町の屋台に較べて小さくて威勢が悪いので、売り払って新調したかったのだと伝えられています。実は買った町の名前まで分かっているのですが、本当にそうであるかどうかは確認できません。ただ買った新町側には今でも「中古で買った」の伝承が残り、実質新古であるとの話は見事に欠落しています。


ここからもう一つの伝承の検証に入ります。購入された屋台を見て新町の人間は非常に驚いたの伝承です。理由は上に掲げた明石町と新町の屋台を見比べると分かります。屋根の形状が大きく違う事が分かると思います。反り屋根型とも言いますし、屋根に太い綱を張り巡らす様子からフンドシ絞め、もしくはフンドシ太鼓(屋台}とも子供の頃は呼んでいました。この見慣れない異様な屋根を見て仰天したという伝承です。

伝承では地元で最初に導入された反り屋根型の屋台であるとなっていますが、どうもこれが怪しい話なのです。1961年以前にも記録によれば反り屋根型屋台は存在します。記録によれば、

大正2年(1913):下町、北条町より屋台購入(反り屋根型)
昭和31年(1956):大手町、吉川町細田神社より屋台購入(反り屋根型)

まず下町屋台は平成8年に新調され、また旧屋台の屋根も、

昭和36年(1961):下町、平屋根を新調(平屋根型となる)
昭和38年(1963):下町、反り屋根を町内古老の希望により再度使用
昭和41年(1966):下町、旧平屋根を再度使用する
昭和44年(1969):下町、桝組、垂木、屋根新調、平屋根を反り屋根に戻す

このうち元の反り屋根がどんな形だったのかが問題なりますが、おそらくこんな形であったかと考えられます。

下町先代屋台


これは昭和30年代の写真とされ、オリジナルの反り屋根と考えて良いかと思います。地元の人間ならすぐに分かるのですが、新調された現在の屋台と酷似しています。モノクロ写真なので分かり難いですが、布団締めとも呼ばれる屋根にかけてある綱は、なぜか昔からシロクロで、地元で葬連屋台と呼ばれる形状を大正2年(1913)から見せていた事になります。

もう一つの大手町ですが、

大手町屋台


新町以前に反り屋根屋台が確実に存在していた事は確認できます。地元の人間にとって反り屋根を初めて見て仰天する必要は無かったはずです。でも仰天したの伝承は確かに残っています。何に仰天したかに関心が向けられます。これも当時の人間がいないので推測になるのですが、飾りの派手さに仰天したんじゃないかと考えています。

これもまたまた伝承の世界になるのですが、北条町側が売り払った理由は「小さいから」と伝えられています。ただ小さいと言っても、どうやら全体に小さいからではなくて、胴が細いからのようです。ここで北条の屋台を見てもらいますが、

北条節句祭りの様子


焼失した新町屋台とよく似ているのですが、もう少し胴回りが太い印象です。ここで売り払った側の町では新調した時に、とくに屋根飾り(梵天、締め綱)を新調前のものを流用したと伝えられています。つまり屋根が小さくなったのに大きな飾りをつけていたとされています。焼失した新町屋台と現在の北条の屋台はよく似ていますが、確かに飾りの大きさのバランスが違います。つまりアンバランスなぐらい大きな屋根飾りが付くことにより、異様なぐらい派手になっていたというわけです。

もう一つは高欄の金具使用の派手さです。北条の屋台は化粧屋台とも言われるぐらい金具が派手です。高欄にも金具が張り詰めてあり、これがキラキラと派手に輝きます。それまでの屋台は高欄の要所に地味な金具が配されていただけですから、日に当ればこれもまたキラキラと輝き、それまで見慣れていた屋台の概念からすると「ド派手」の印象を持ったのだと考えています。

伝承とはおもしろいもので、購入された新町屋台の伝説に「これは担がずに置いておく化粧屋台であった」なんてものがあります。おそらくこれは北条の屋台が化粧屋台とも呼ばれているが誤って伝えられたのだと考えられます。それぐらい急遽購入された屋台の異質さを受け止めた人々は衝撃的であったのだとも考えています。


それとこの「驚いた」に関連する伝承ですが、誰がこの屋台を急遽購入するの決定を行なったかです。祖父が町内会長であったので決定権はある程度あったと思いますが、祖父は田舎的にはよそ者と言うか新参者です。新参者でも町内会長をする事は田舎でもありえますが、祭りのような伝統行事になれば発言力は低下します。由緒不明の約束事がタンマリあるのが祭りです。

北条の屋台情報を祖父が発見したかどうかの確定情報も無いのですが、誰が検分しに行ったかの確定情報はあります。町内会長の祖父とその他2人です。残りの2人もおそらく町の役を務めていたか、町内の有力者(ないしうるさ型)と推察されますが、基本的に3人も見て驚いたとは思います。飾り付けた現物は見ていないと考えられますが、写真でも「異様」は感じたと想像します。さらに言えば人間の習性として出来れば「前の屋台」と似たものが好ましいと考えていたはずです。

まったく異質の北条の屋台を見て一体「誰が」買うとの決断を下したかも問題です。ここで検分に行ったうちの一人がいわゆる「新し物好き」の評判があり、この人物の賛成ではないかとの説も出ましたが、伝承ではなんと「反対」であったとなっています。こういうものは確固たる反対者が一人出ただけで話は暗礁に乗りあがる物ですが、結果は購入しています。

ここの経緯は本当に興味があるのですが伝承は失われています。日取りも9/16に第2室戸台風で屋台が損壊してから、10/16に祭り本番ですから、30日しかないのです。30日間に行なわれただろう事は、

  1. 損壊した屋台の廃棄決定
  2. 屋台新調の町内合意
  3. 売り出している中古屋台の情報収集
  4. 購入予定屋台の検分
  5. 町内合意の取り付け
  6. 購入屋台の運送手配
この辺は祖父が生きているうちに聞いておけばよかったとシミジミ思いますが、日程を考えるとよく間に合ったと改めて感心します。感心すると同時に、日程がギリギリであったが故に「これが嫌なら祭りに屋台で参加できない」の殺し文句がよく効いたんじゃないかとも考えます。購入決定の推進にもっとも力を入れたのが祖父であったのか、他の誰かであったのか、それとも何か違う要因で押しきったのかは既に謎です。


最後にもう一つ伝承の検証をしたいと思います。屋台を新調するの話をしましたが、サイズは焼失した屋台と全く同じにするとなっています。ただし屋根だけは少し変えるとしています。変えると言っても反り屋根を平屋根にするようなものではありません。焼失した屋台の屋根は年代は忘れましたが、一度新調しています。新調した時に屋根の反りを強くしたとされ、あれは反らせすぎたのでオリジナルの反りに戻すという話です。

言われてもそんなに反りが変っていたか疑問ですし、そもそもオリジナルの屋根の反りと言われても写真で確認するぐらいしかありません。そこでこれも古い写真を掘り出してみたのですが、

新町屋台(旧屋根)


う〜ん、そんなに変っているのですかね。どう見てもあんまり変わっていない気がするのですが、「変える」と言うからには「変える」のでしょう。そういう点のこだわりに部外者が口を出すと火傷しますから、新調されたのを見て評価することにします。

今日はウルトラローカルな話にお付き合いありがとうございました。では今から祭りに行ってきます。


※追伸

探せばあるもので、先代新町屋台(台風で破損したもの)と失われた現新町屋台(火事で焼けたもの)の北条時代の写真がありました。ここまで情報を集めたので掲げておきます。

先代新町屋台
昭和36年第二室戸台風で破損廃棄)
北条御幸時代の現新町屋台
(平成19年失火により消失)


改めて較べると、これだけ変ればやっぱり驚くかも。それとこれも見つけて驚いたのですが、購入価格が当時20万円でその他の費用を合わせると44万8000円だったそうです。これが高いか安いかは貨幣価値が相当変っていますから一概に言えませんが、それでも安いと思います。ただ情報の信憑性にやや疑問(参照資料の屋台変遷に疑義あり)は残りますので桁が間違っている可能性は残ります。

それとこれも補足になりますが、担い太鼓から現在の屋台への発展説の補強ですが、西脇の春日神社に暴れ太鼓と呼ばれるものがあり、



ひょっとすると担い太鼓の原型はこんな感じであったかもしれません。