私にとって福島大野事件は巨大な存在であり、加藤医師も重い位置付けがあります。余りに巨大で重いがために、ロハス記事の見方に大きな、大きなバイアスがかかっていた事にようやく気がつきました。加藤医師の存在に気を使う余り、ロハス記事が何を伝えたかったに思いが巡らなかったとすれば良いかと思います。
今回のシンポジウムは加藤医師を招待しての公開シンポジウムです。ロハスも加藤医師が出席し、講演を行うから取材し、私も加藤医師の発言に注目していました。多くの方もそうであったんじゃないかと思っています。ロハス記事も加藤医師が中心になるのは必然なんですが、ロハス記事は加藤医師の発言だけを記事にしているわけで無いと言う点です。
ロハス記事は加藤医師だけではなく、公開シンポジウムも取材し記事にしている側面を忘れていたと言う事です。判り難い言い方ですが、ロハス記事は加藤医師だけを記事にしたのではなく、加藤医師が出席した公開シンポジウム全体を記事にしている点を見なくてはならないと考えます。取材価値の重点は加藤医師の発言にはなりますが、それを受けたシンポジウムでどういう発言がシンポジストから出てきたかも重要な点だと言う事です。
ここも私は加藤医師が出席したからには、加藤医師を傷つける内容が「出てはならない」の先入観が余りに強く、さらには「失敗は許されない」の心情に余りに偏りすぎていたと反省しています。加藤医師が出席してもシンポジウム自体は失敗する事も当然あり、失敗したか、成功したかの材料も情報として提供したのがロハス記事であると言う事です。
記事の一つの重点がそこにあった事に気が付かなかったのは大きな失敗であったと考えています。
私の反省を念頭に置いてもらって取材記者のコメントを読んでもらえば話はわかりやすくなります。
読者の皆様、某救急医様
今回、私の方で13日に記事の一部を14日に削除いたしました。
この経緯について、ご説明申し上げます。14日に主催者側から記事の削除を求める連絡がありました。
しかしこのシンポジウムは公開であり、筆者は取材許可も得ていました。
削除を求められても応じる理由は見当たらないものです。しかし、主催者側はパネリストの勝谷氏から削除・修正の要望があったということで筆者に相談をしてこられました。
筆者自身がこのシンポジウムのブレーンとして参加しており主催者側との信頼関係があったこと、主催者を支援しようと毎年参加している勝谷氏に対して主催者側が最大限配慮したいという思いがあったこと、など様々なことを考え、一度記事の一部を削除いたしました。
削除の理由については早々に公開すべきでしたが、私の方でしばらくどう書くか悩んでいたために遅くなってしまいました。
皆様にご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。
記者は公開シンポジウム全体を記事にしようとしていた事がわかります。注目は加藤医師であった事は誰も否定できないでしょうが、加藤医師だけではなく、加藤医師を招待した公開シンポジウムがどう展開したかも重要な情報です。加藤医師の発言にそれこそ罵倒の嵐があったのか、共鳴の声があったかも知りたい情報です。
ロハス記事は加藤医師の発言だけ切り取って記事にしたのではなく、加藤医師の発言の反応、また加藤医師を迎えたシンポジウム全体の雰囲気をなるべく飾る事無く読者に伝えようとしたのだと思います。そのためか記者自体の感想は極力抑えられ、シンポジウムでの主要発言の文字起こし記事中心の編集になっていたと解釈します。
消えたページに対する批評は加藤医師が出席したシンポジウムと考えれば相応しくないの感触を私は持ちました。同じ感想を持つものは少なくなかった様に感じます。この相応しくない部分が公開シンポジウムに存在した事は、会場にいたもの以外ではロハス記事しか情報がなかったわけです。記事に伝えてくれたからこそ、これを知り、評価が可能になったとできます。
これを記事にしたセンスを疑うと早合点したのは非常に恥しいものであったと深く反省しています。常々、メディアには事実を冷静に伝えるように望み、評価は読者が行うべきだと主張していたにも関らず、福島大野事件の重さに我を忘れていたとしても良いと思います。知りたくない情報を編集で蓋をするように望んでいた自分を恥じ入ります。
勝谷氏からの削除要請に苦汁の思いで応えた事は記者のコメントに滲みでています。勝谷氏もシンポジウムの場の雰囲気で失言があったと反省された結果からだと考えています。シンポジウムは用意された原稿を読み上げる声明や発表とは異なり、その場の流れからの発言を当意即妙に行うところに妙味があります。言ったら悪いですが、思わぬ発言が聞ける楽しさもあるとすれば良いでしょうか。
当意即妙であるが故に、失言も出る危険性があります。失言は言いすぎだとしても勇み足発言ぐらいは出る事はありえます。勇み足である事に気が付けばこれを訂正する事は許されるべきだと思います。人間ですから「つい」はありうるわけですし、「つい」一つで徹底糾弾してしまうのは必ずしも好ましいものではないと思うからです。
もちろん発言時のシチュエーション、発言時の肩書き等の存在感の重さ、失言なり勇み足発言の内容の重大性、影響力から一概に言えないにしろ、少なくとも釈明にも十分に耳を傾ける寛容は持つべきだと思います。
今回の件で言えば、勝谷氏が失言なり勇み足であると自覚され、これを訂正したいと考えられたのは基本的に許すべきかと存じます。ただ釈明は記者を通じての削除ではなく、訂正・削除を要求した勝谷氏自身が行うべきものではないかと思います。記者は公開シンポジウムで許された範囲の公開発言を記事にしただけであり、これを裏からもみ消す様に見える工作は好ましくないと思うからです。
もちろんこれから釈明を行うつもりであるなら構いません。週末に記者は勝谷氏の削除要求を呑んだわけです。呑ませた勝谷氏がこれを受けて、これから釈明されても十分間に合うかと存じます。勝谷氏の事は正直なところよく存じませんが、誠実な対応を期待します。