奈良事件証人尋問・枝葉編

証人尋問はかなりの分量ですべてに目を通せていません。休み明けでまだエンジンも本格始動で無い部分もありますから、枝葉編から手を入れてみます。枝葉とは被告側弁護士がこだわった報道関連部分です。ここをあそこまで突っ込んだのはどうかの意見も見られますが、被告側弁護士もベテランぞろいですから、何らかの意図を持って尋問したのは間違いありません。意図については幾つかの憶測もありますが、主に日付に注目してみたいと思います。

参考資料は日々のたわごと・医療問題資料館からです。

まず事件が起こったのは2006.8.8です。同日中に国循に搬送され、産婦は2006.8.16に死亡しています。その後の遺族側と病院側の交渉ですが、まず、

原告側弁護士

    病院の方が9月2日にお悔やみの訪問をされています。(被告側の)陳述書によると、この時に「病院の機能を麻痺させてやる」とか言った、とあるのですが?

まず9/2に被告産科医師と病棟師長がお悔やみの訪問をされたようです。若干のやり取りはあったようですが、正式の折衝は、

原告側弁護士

    その後亡くなられて、国循にいってから(大淀)病院に事情を聞きたいと申し入れをされたんですね。9月21日ですよね?
高崎氏
    はい。

9/21に話し合いが持たれた事が確認できます。2回目は10/10だったようですが、

高崎氏

    10月10日に2回目の話し合いに行ったら事務長と病院長、弁護士の3人しかいなくて、「病院に過失はない」「裁判するならしろ」と言われたんです。

なるほど、なるほど、証言のように高飛車に出られれば「そこまで言うなら」に遺族の態度が変ったのは筋が通ります。態度が変った遺族に弁護士がついた経緯は、

高崎氏

    で、ある報道の方からある産科医を紹介され、その方から石川先生を紹介されました。で、(石川先生に相談したところ)正式に3回目の話し合いをしたほうが良いといわれて申し込んだのですが、個人攻撃になると言って断られました。
原告側弁護士
    それはいつですか?
高崎氏
    11月下旬です。

弁護士は「報道の方」からの紹介である事も確認できます。時期は2回目の話し合いから1ヶ月以上過ぎた11月下旬である事も証言しています。3回目の話し合いも原告側弁護士に勧められて持とうとしたようですが、どうも病院側から断られたと解釈して良さそうです。ここまでは原告側弁護士の質問ですが簡単にまとめると、


月日 事柄
2006.8.8 事件発生
2006.8.16 産婦死亡
2006.9.2 被告産科医師、病棟師長弔問
2006.9.21 第1回話し合い
2006.10.10 第2回話し合い
2006.11月下旬 原告側弁護士紹介


ここからは被告側弁護士の質問になるのですが、冒頭がまず注目されます。

被告側弁護士(金)

    カルテはいつもらいましたか?
高崎氏
    9月21日に事務長からいただきました。
被告側弁護士(金)
    もらったカルテというのは、本件で証拠として出ているものに間違いないですか?
高崎氏
    はい。

9/21の第1回話し合いのときに病院側はカルテを遺族側に手渡した事が確認できます。さらに裁判で証拠として提出されているカルテと同じと証言しています。しかしカルテは2007.4.30付け日刊スポーツ記事の一部から引用しますが、

遺族側は「報道陣に公開したのは、出産のために入院した昨年8月7〜8日の『看護記録』だけ。カルテなど公開してない。さらされた情報には、遺族も知らない通院中のカルテの内容が含まれ、病院関係者しか知り得ない情報だ」としている。

これに対する裏付けは2007.4.28に行なわれた公開シンポジウムでの原告側弁護士の発言です。

患者さんたちが入手したカルテはほんの一部なんです。全部を入手したのはごくごく最近、なんですよね。

日刊スポーツ記事では遺族はカルテを全部入手していたが公開したのは『看護記録』だけの解釈も可能ですが、シンポジウムの原告側弁護士の発言はあくまでも「ごくごく最近」と明言しています。「ごくごく最近」と言うからには、少なくとも9/21の第1回話し合いの時に病院側から渡されたカルテは「ほんの一部」でないといけません。原告側弁護士は11月下旬に依頼を受けているわけですから、どれだけのカルテを遺族が入手しているか十分知っている事になります。その上の発言ですから、9/21に病院側から手渡されたカルテが、どれだけの「ほんの一部」だったのでしょう、謎は深まるばかりです。

それと9/21に病院側が遺族にカルテを渡した表現ですが、10/18の産経奈良版の表現では

    遺族がカルテ開示を請求
もちろん弁護士無しでも「開示を請求」できますが、この辺の本当の経緯はどうだったのでしょうか。

被告側弁護士(金)

    ではその国循なのですが、カルテや手術記録や写真などといった資料の取り寄せをお願いしていたはずなのですが、取り寄せのための努力はされましたか?
高崎氏
    先生にお願いしたのですが……
被告側弁護士(金)
    先生って?
高崎氏
    (メモ欠損。状況から、石川氏のこと?)
被告側弁護士(金)
    それではなくてその前。こちらとしては取り寄せてもらえると思って待っていたのですが。報道は一体どういう経緯だったのですか?
高崎氏
    記事が載ったのが10月16日か17日かどっちか忘れましたが、その3日前に実香と二人で住んでいた家に新聞記者が突然やって来たんです。「高崎晋輔さんおられますか?」って。新聞記者なんて、僕もその時はびっくりして「いません」って言ったんです。その後父に電話して相談したら、「とりあえず名刺だけ貰っとけ」と言われて、追いかけてとりあえず名刺を貰いました。その後家族みんなで相談して、で父が(ここ1フレーズ聞き漏らし)聞きに行って、で、話だけ聞くことにしました。僕と父と、実香の両親と記者の5人で話をして、その翌日に記事が載りました。
被告側弁護士(金)
    では、結果的に私たちとの話し合いの約束は反故になったのですね?
高崎氏
    ……そうなります。

幾つかの事が確認できますが、国循カルテの取り寄せは被告側から原告側に要請されていますが、原告側は取り寄せにかなり手間取った事が窺えます。国循カルテの取り寄せは実に訴訟開始まで行なわれていません。ここで被告側弁護士の質問の

    それではなくてその前
これは10/10の第2回目の話し合いに関しての事で、これは被告側弁護士の

被告側弁護士(う)

    10月10日に病院の弁護士と話をして、国立循環器病センターのカルテを取り寄せてもう一度話し合いをすることになったんですね。その後、10月17日に全国で大々的に報道されたことになります。……ある産科医から石川先生を紹介されたそうですが、それは報道前ですか?

第2回目の話し合いでは遺族が国循からカルテを散り寄せて幻となった第3回目を行なう合意があったのが確認されます。これがその後の記者会見で消え去る事になります。その報道の経緯ですが、

月日 事柄
2006.10.10 第2回の病院側との話し合い
2006.10.14 新聞記者訪問
2006.10.16 新聞記者と打ち合わせ
2006.10.17 記事報道、記者会見
第3回の話し合いを行なう合意があったことは被告側弁護士が臨席していたので間違いありません。ところが第2回の話し合いの4日後に新聞記者が取材に訪れ報道発表から記者会見に切り替わった事が確認できます。また記事報道から記者会見に変更した事を病院側には通知しなかった事も確認できます。どこの新聞記者かですが、

被告側弁護士(米)

    ところで、10月に来られた新聞記者って、毎日新聞の方で良いんですよね?
高崎氏
    はい。

毎日新聞である事が確認されています。

被告側弁護士(う)

    わかりました。では別の質問を。毎日新聞「『次の実香さん』出さぬように」というふり返り記事によると、記者が最初に事件のことを聞いたのは8月中旬で、それから2か月かけて高崎さんを突き止めた、とあります。それって実香さんが亡くなる前のことですよね? 国立循環器病センターの先生に聞いたのですが、8月中旬に新聞記者が来て実香さんのことを調べていたって言うんですよね。ご存じでした?
高崎氏
    はい。
被告側弁護士(う)
    いつ? 入院してすぐですか?
高崎氏
    けっこう経ってたと思います。
被告側弁護士(う)
    どこの人かは聞いていますか? 毎日新聞
高崎氏
    知りません。

ここで国循入院中に新聞社の取材があった事が確認できます。国循入院中の様子は朝日放送の「悲鳴病棟」でも放映され天漢日乗氏が詳細に分析していますが、この事件には鮮やかな映像のビデオが多数残されています。今時の事でビデオぐらいどこの家庭にあっても不思議ないのですが、天漢日乗氏は、

報道が接触していた件について、ずっと疑問に思っていることがあった。

昨年放映された、ABCの「悲鳴病棟」で、亡くなられた産婦さんが、意識不明の状態でいる場面でカメラが回っており、誰がカメラを回していたか謎だった。今回のご遺族の証言は、その点について、示唆するところがあるのではないか、と考えている。

ABC「悲鳴病棟」の問題の箇所については以下に。2007-06-26「マスコミたらい回し」とは? (その78) ABC「悲鳴病棟 “医者を訴える”夫の決断」@5/29の謎→加筆・訂正あり→画像は削除しました
http://iori3.cocolog-nifty.com/tenkannichijo/2007/06/78abc529_ba44.html

私も今回の高崎氏の証言に、ビデオだけではなくいろいろ示唆される事があるように感じています。ここでもう一つですが、「『次の実香さん』出さぬように」には、

取材は8月中旬、高崎さん一家の所在も分からない中で始まった・・・(中略)・・・実香さんの遺族にたどり着けたのは10月だった。

記事と法廷証言を繋ぎ合わせると毎日記者が高崎氏を初めて訪れたのが2006.10.14であり、この時は名刺だけ渡しているような高崎氏の法廷証言があります。

新聞記者なんて、僕もその時はびっくりして「いません」って言ったんです。その後父に電話して相談したら、「とりあえず名刺だけ貰っとけ」と言われて、追いかけてとりあえず名刺を貰いました。

そうなると振り返り記事にある、

「県内の実態を改善させるよう継続的に取材する」と伝えると、憲治さんの話は5時間以上に及んだ。

これがいつの話になるかです。これも記事にあるのですが、

その取材から3日後、実香さんの実父母、夫の晋輔さん(24)にも話を聞いた。

どうも最初の取材の日に「5時間以上の取材」は行なわれたと解釈して良さそうです。高崎氏の法廷証言の

その後家族みんなで相談して、で父が(ここ1フレーズ聞き漏らし)聞きに行って、で、話だけ聞くことにしました。

毎日記者が取材に訪問し、最初は名刺だけ受け取り、その後に家族で相談し、5時間以上の話を行なったのは日取りからして最初の取材の日であった事だと考えられます。そうなるとこれも高崎氏の法廷証言の、

僕と父と、実香の両親と記者の5人で話をして、その翌日に記事が載りました。

これは振り返り記事での「その取材から3日後」の報道前日の事になるかと考えられます。高崎氏の法廷証言と1日ずれますが、これはおそらくですが高崎氏の記憶が10/16と10/17のどちらを起点にするかで記憶に混乱があり、振り返り記事と合わせると、

月日 事柄
2006.10.10 第2回の病院側との話し合い
2006.10.13 毎日記者1回目訪問、義父氏と5時間以上の取材
2006.10.16 毎日記者2回目訪問、高崎氏及び4人の取材
2006.10.17 報道発表、記者会見


ここで振り返り記事にある

取材は8月中旬、高崎さん一家の所在も分からない中で始まった。産科担当医は取材拒否。容体の変化などを大淀病院事務局長に尋ねても、「医師から聞いていない。確認できない」。満床を理由に受け入れを断った県立医科大学付属病院(同県橿原市)も個人情報を盾に「一切答えられない」の一点張りだった。

この部分には、

  1. 事件が起こったのは大淀病院である
  2. 「搬送拒否」した病院の一つに奈良県立医大が含まれる
この二つの事実が判明していた事が分かりますが、この事をいつ毎日記者は知ったのでしょう。文脈からすれば高崎氏を訪問する前に既に判明していた事と受け取れます。解釈として高崎氏を10/13に訪問してから判明し、第2回の取材までに問い合わせを行なった可能性もありますが、「容体の変化」は高崎氏及び高崎氏が9/11の第1回の話し合いで入手したカルテで確認可能なのでそうは考えにくいところがあります。

毎日記者は高崎氏を知らなくとも、事件の概要をかなり知っていた可能性が高くなります。それはどこから、また死亡した産婦が入院中の国循の取材に訪れた新聞記者のその後の動向に関心が寄せられます。高崎氏はどこの新聞記者かは知らないとしていますが、取材があったことは知っているとしています。これもまた示唆に富む報道発表前の動きに感じられます。