ツーリング日和26(第5話)山陰道

 ツーリングで歴史をダイレクトに味わいたいのなら、やっぱり歴史街道だろ。そこには昔からの人々の足跡が残されてる。

「舗装されて残ってへんと思うで」

 そうなんだけど、昔からの街道の多くは今でも国道とか、県道として残されてるはずなのよ。路面は変われど、何百年、下手した千年も、二千年も前から同じ風景を人は見て旅してたはずじゃない。

「田舎に行くほどそうやろな」

 都市部だって山とかは変わってないところだってあると思うけど、田舎ならなおさらなのはそうだ。兵庫県だって歴史街道はあるのよ。

「西国街道は走れんで」

 あれも断片的には残ってると言うか、おおよそ国道二号のはずだけど、それこその都市部の市街地走行だけになるものね。だったらさ、南が西国街道なら北には山陰道があるはずよね。

「古代の山陰道で、江戸時代なら山陰街道やな」

 あの辺だったら昔の気分を味わえそうじゃない。

「それはそうやねんけど、山陰道なり山陰街道は歴史的にはマイナーやねん」

 あんまり有名じゃないのは同意だ。でもさ、有名じゃないからこそ残ってるはずよ。

「歴史の法則からそうなりそうなもんやけど、あそこはややこしいねん」

 古代の山陰道は七道の一つとして整備されて、京都から山陰の国々を巡る道だったそう。律令期の街道は国府をつなぐ道だから京都を出発してまず丹波に向かうよね。

「ああそうや、丹波の国府も諸説あると言うか、何度か移転したみたいやけど、おおよそ亀岡にあったでエエはずや」

 山陰道はおおよそ国道九号のはずだけど、

「国道九号は江戸時代の山陰街道のはずや。山陽道も山陰道も同じとこが多いけど、山陰道は福知山やのうて篠山に向かって進んどった」

 国道九号は福知山に向かうけど、山陰道は国道三七二号だったのか。今ならデカンショ街道って呼ばれる道だな。天引峠を越えて篠山に入り、鐘ヶ坂峠を越えて・・・

「そこもようわからんとこがある。まずやけど篠山まで来た山陰道から支道が出るんよ」

 これは丹波から丹後に向かう道だそうだけど、丹後の国府は宮津だったのか。

「篠山から北に向かうとなったら・・・」

 篠山は盆地なんだけど北側に屏風のように連なる多紀連山がある。ここは大雑把な分類だけど多紀連山の北側が奥丹波で、今なら丹波市になる感じ。山陰道はどこかで多紀連山を越えて奥丹波に入らないと行けないのだけど、

「篠山から丹後の国府があった宮津に向かう道は丹後支道ぐらいになるはずやねんけど、この支道は佐仲峠を越えてたそうや」

 そんな峠なんか聞いた事ないぞ。

「今でも県道二八九号やし、途中にある佐仲ダムはワカサギとかヘラブナ釣りで賑わってるそうやねん。そやけどな・・・」

 篠山側から佐仲ダムまでの道は悪いながらもクルマは通れるそうだけど、佐仲ダムから北側は荒れ放題なんてレベルじゃなくて、

「あそこまで行ったら険道どころかスーパー険道や」

 落ち葉が降り積もったり、木が倒れてるレベルじゃなくて、道路の上に土が堆積して、

「あそこまで行ったらオフロードバイクでも無理ちゃうか」

 さすがはユーチューブで、わざわざ行った人もいるけど、これって単なる山道でしょ。

「そやからスーパー険道や言うたやろ」

 春日から佐仲峠まではなんとかバイクなら行けたみたいだけど、そこから先になると人じゃないと到底進めるようなものじゃないよこれ。どこが県道だと言いたくなるぐらい。こりゃ、再び通れるようにする気はゼロだね。何十年放置してるのだのレベルだ。

 山陰道の丹後支道は春日に出て現在の国道一七六号ぐらいを進み、塩津峠を越えて福知山に入り、由良川を遡って、

「それは舞鶴に行く国道一七五号やねんけど、丹後支道は国道一七六号で与謝町の方から宮津に行ってるねん」

 えっとえっと、ややこしい。国道一七六号と国道一七五号は丹波市の氷上のところでぶつかって、福知山に向かうのは国道一七六号のはずなんだ。だけど実は国道一七五号と重複していて、再び福知山を北上したところで分かれるのか。それってまさかの酷道だとか、

「やったらしいねんけど、今はバイパスが整備されて走りやすくなってるらしいわ」

 へぇ、古代はこっちのルートで宮津に行ってたのか。旧国道も残ってるらしいけど、これが国道って言いたくなるぐらい狭い道なんだそう。宮津に向かう道はわかったけど、山陰本道は鐘ヶ坂峠を越えて、

「これがわからんねんけど、瓶割峠を越えたとなっとるねん」

 これもどこなんだになるのだけど、コータローがわからないとしてるのは峠の場所じゃないみたい。瓶割峠は江戸時代もよく使われていて。今でもハイキングコースとして整備されてるとかなんとか。

 地理的には鐘ヶ坂峠のほんの東隣ぐらいになるのだけど、この二つの峠が奥丹波に下りて来るところが問題なんだって。鐘ヶ坂峠は柏原に下りて来るのだけど、瓶割峠は春日の国領温泉の近くだそう。

「あの辺のルートは変わりようがあらへんはずやんか」

 だと思うよ。地形的な制約が大きいからバイパス整備でも行われない限り昔と同じはず。

「佐仲峠が下りて来るとこと1キロぐらいしか離れてへんねん」

 そんなに近いのか。春日のあたりもそれなりに平地が広がってるところなんだよ。山陰道は瓶割峠を越えてから西に向かったとしてる説があるみたいなんだけど、

「山陰道だけやったらそれもありやと思うけど、それやったら篠山で分岐せんでも春日で分岐したら済むやろ」

 峠から下りたところの間に山とかあればわかるけど、あの辺は平地だものね。でも文献的には瓶割峠なんだって。ちなみに江戸時代の山陰街道は鐘ヶ坂峠で良いみたいだけど、

「オレは古代も鐘ヶ坂峠やったと考えてるねん」

 地名の変動とか取り違えの可能性か。それはいかにもありそうだ。残されてる文献資料は地元の人が書いたのじゃなく、伝聞を基に京都とかにいた人が書いたはずだもの。ここはコータロー説を採って鐘ヶ坂峠で奥丹波に入らせてもらおう。

 峠を下ったところに駅家があるのだけど、これが星角駅って言うのか。なんかロマンチックな駅名だな。具体的にはどこにあったの?

「豊岡道の氷上ICの近くらしいわ」

 市辺遺跡というらしいけど、郡衙もあったんじゃないかと推測されてるらしい。今もあの辺りはロードサイド店が集まってるけど、昔から街があったとはちょっと感心したかな。あの辺も平地が広がってるから奥丹波の中心だったかもしれないな。

 そこからは丹波の森街道の県道七号を北上して青垣にあったとされる佐治駅に続くって感じになっていたそう。ちなみにその辺は加古川の支流である遠坂川が作った谷間になっていて、この辺を遠阪谷と呼び峠を遠坂峠と呼んだとか、なんとか。

 そうなると山陰道は遠坂峠を越えて丹波から但馬に入ってたことになるのか。だったらさ、江戸時代の山陰街道もそうだったの?

「いや、国道九号沿いのはずで、夜久野高原を越えて但馬に入っとる」

 なるほど福知山からならそうなるか。それでも二つのルートは和田山では合流する感じだね。江戸時代に福知山経由になったのは福知山の街が大きくなったからで良いと思うけど、そうなれば遠坂峠を越える山陰道は衰えちゃったの。

「とも言えんみたいや」

 但馬から京都や大坂に向かうには和田山からになるけど、距離ならどっちもどっちぐらいだよね。ただ実感としたら山陰道の方が近いとか、但馬の人なら昔からの道だから馴染みがあるとかあるかもしれない。

 その辺の理由の最後のところはわからないけど、江戸時代でも二つの街道は使われたみたいなんだ。だからわざわざ遠阪トンネルを掘ったり、豊岡道を通したりしてるのかも。

「遠阪谷も含めて青垣になるんやが、かなり栄えとったらしいで」

 これも、はぁ? てな話だけど、青垣と福知山は地理的な結びつきが強いって言うけど、二つの街を結ぶルートって国道四七九号で、シニクとまで呼ばれる酷道じゃない。

「榎峠は今でも難所やねんけど、あそこをバスが通っとった時代には『福知山の居酒屋は青垣でもつ』ってまでされとったらしいねん」

 青垣の祭りには福知山からも見物客が押し寄せたとか。

「そやから榎峠のとこもトンネルでぶち抜くのが決まっとる」

 そこまでするんだ。国道整備の一環と言われればそれまでだけど、青垣と福知山だぞ。ホントに申し訳ないのだけど、同じ県内だけど、青垣と言われてピンと来るのは少ないと思うのよ。今だって、

「丹波市のハズレやもんな」

 とくに千草みたいな神戸に住んでたら、青垣は県内だけど、福知山は京都府じゃない。完全に別地域って感覚だけど、

「住んでる人にしたら同じ丹波の人間なんやろな」

 きっとそうのはず。こういうのこそ街道に歴史ありみたいなものだよ。福知山が栄えたのは光秀が福知山城を築いてからになるはずだから、福知山の発展のために青垣からも人が移ったんじゃないかな。

「それはあるかもしれんわ。移っても青垣は故郷の感覚は残るもんな」

 田舎者ほどそれにこだわり続けるのは良く知ってるよ。それも福知山の最初の頃は他所者として見下されていたというより、むしろ青垣から来てやったでブイブイ言わせてたかも。青垣から見れば福知山は新興都市も良いとこだったはずだもの。

 それから何百年って話にはなるけど、心の奥底には青垣と福知山は兄弟とか親戚みたいな意識がある気がする。そうじゃなければ、榎峠のトンネルを地元の悲願なんかにしないと思うもの。