大津の宇佐八幡宮ムック

 大津の宇佐八幡宮は社伝によると源頼義が治暦元年(1065)に創建したとなっています。ふ~んてなところですが、次に湧いた疑問が、どうして頼義がこんなところに神社を作ったのだろうです。

 頼義は頼信の子、河内源氏の二代目で八幡太郎義家の父です。平忠常の乱で武名を現し、前九年の役の英雄です。頼義は前九年の役の功績を称えられて康平6年(1063)に正四位下伊予守に任じられ、治暦元年(1065)に出家し信海入道と号しています。出家の歳は正しそうなんですがwikipediaにはこうあります。

未だ恩賞を手にしていない将兵の為に都へ留まり、彼らの恩賞獲得に奔走した。結局、実際に伊予へ赴任したのは2年後

 国司の任期は当初6年で後に4年となったとなっていますが、変更時期の確認は出来ませんでした。頼義の時代なら4年と考えたいので、任期が終わるのは治暦5年(1069)のはずです。社伝と合わせれば頼義が伊予に行く前に出家した時に作られた事になります。

 この辺も気になることがあって、頼義は鎌倉に石清水八幡宮を康平7年(1064)に作っています。他にも羽曳野に壷井八幡宮、東京に大宮八幡宮も創建しています。これらは河内源氏の氏神の石清水八幡宮の分祀です。ところが大津の宇佐八幡宮はその名の通り九州の宇佐八幡宮の分祀です。

 どっちも八幡宮ですが、石清水八幡宮ではなくなぜに宇佐八幡宮なのかです。

 それと社伝では頼義は宇佐八幡宮の麓の錦織に邸を構え住んでいたとなっています。これも引っかかる点で、いつ住んでいたのだろうです。当時の河内源氏の京都の屋敷は京都の六条左女牛にあったはずです。伊予守任官後もかつての部下たちの恩賞に奔走していたのなら、京都にいたはずです。

 錦織に隠居所を建てたとしても、実際に住むのは伊予守の任期が終わってからになるはずです。この辺は治暦元年時点で邸の工事が始まっていたとも考えられますが、今度はどうして隠居するにしても故郷の河内でなく近江の錦織なんだの疑問が出てきます。

 それとですが、宇佐八幡宮はかなり立派なものであったと推測されます。現在の社殿もなかなか立派なものですが、あれは信長と浅井朝倉連合軍が戦った志賀の陣で焼き討ちされた後の仮殿となっています。そう再建ではなく、再建するまでの仮の社殿なのです。

 不思議と言えば宇佐八幡宮の祭礼ですが、二基の神輿が出ます。お祭り形式は神幸祭形式で、神様が御旅所まで旅行するスタイルです。説明するまでもないですが、神は神社から神輿に移って御旅所に赴き、そこで一泊して翌日に神社に戻ることになります。

 神の乗り物である神輿が二基とはどういうことだになります。

 もう憶測の翼を広げるしかなくなりますが、晩年の頼義はなにかを恐れていたと見てよい気がします。前九年の役のあまたの戦死者の怨霊です。これを鎮めるために京都から鬼門にあたる場所に鎮護の神社を作ったのでないかです。

 傍証は宇佐八幡宮はムシ八幡とも呼ばれ疳の虫封じに御利益があるとされています。これって怨霊封じが変形したものじゃないでしょうか。石清水八幡ではなく宇佐八幡にしたのも、石清水では余計に怨霊の反発を食うためとか。

 二基の神輿の意味も一基は官軍側、もう一基は安倍氏の鎮護のためとか。いや、一基は宇佐八幡であり、もう一基は安倍氏の怨霊とか。すべては歴史の彼方のお話です。

 オマケですが近江神宮がどうして宇佐八幡宮に見下ろされるところに建てられたのかも不思議なんですよね。そういう配置で建てられるのはタブーではないでしょうが、ちょっと不思議な感じもしています。