隅田八幡神社人物画像鏡

チイと古代の年代仮説を書こうとしていたのですが、風呂敷を広げ過ぎて挫折。その途中で拾った隅田八幡神社人物画像鏡(隅田鏡)について少し書いてみます。


隅田八幡神社

隅田八幡神社HPより、

 神功皇后が外征後、筑紫路を発し、紀伊衣奈浦を経て大和の都に御還幸の途次、輩をこの地に駐め滞留されし旧跡にして、欽明天皇の詔により(859)八幡宮が歓請された。のちに、この地が石清水八幡宮社領となり、当神社を「隅田の別宮」と称された。
 長治二年隅田荘内の豪族で隅田党の祖、長忠延が当神社の社務を司る俗別当職となり、次いで隅田荘の荘官である公文職にも任じられた。その後代々両職に任じられ、鎌倉時代以降は隅田党の氏神として社頭堂塔も備わり、祭式を厳にして栄えた。永録三年、松永弾正久秀の攻略によって社殿が焼失、慶長年間に再建され、江戸時代になると隅田荘十六ヶ村の産土神として繁栄した。社殿は、文政二年焼失するが同五年には再建され、今も壮麗で住古を偲ぶことができる。明治時代の神仏分離で、当神社の神宮寺の大高能寺が分離される。大正五年県社になる。

7世紀半ばの創建となっている古社となっています。そうそう「隅田」の地名で東京の隅田川を思い浮かべる人も少なくないと思いますが、隅田神社は和歌山にあります。問題の隅田鏡については、

 直径19.8cm、重さ1434gの青銅鏡。背面内区には、人物や騎馬像をあしらった画像文が描かれ、外区には48文字からなる和式漢文体の銘文がある。この鏡は、舶載鏡を手本に製作されたホウ製鏡で、日本最古の金石文の一つとして貴重なものである。

隅田鏡は「昭和26年6月9日 再指定」の国宝です。


隅田鏡の由来

国宝の隅田八幡人物画像鏡を創ったのは誰なのか?!がよく調べられていますので参考にさせて頂きます。まず隅田鏡は神社HPでも「ほう製鏡」となっていますが、そのオリジナルはいつ製作されたのかです。

隅田八幡宮の鏡は『神人歌舞画像鏡』という名称が付けられており、後漢(紀元前2世紀〜3世紀)後期に製造されたものだとされ、研究家たちは製作年代を「2世紀台以降」と見ているようです。

卑弥呼が魏から鏡を貰ったのが3世紀半ば、さらの隋書や後漢書にある和人訪問記録が57年と107年ですから、もし公式に与えれたものなら107年の可能性ぐらいがあるぐらいでしょうか。同型鏡としては

  1. 大阪 郡川車塚古墳(5世紀末、円墳?)・出土鏡
  2. 大阪 長持山古墳(全長40m、円墳、5世紀後半、允恭帝古墳の倍塚)・出土鏡(1号棺副葬品、ボストン美術館が収蔵か)
  3. 福井 西塚古墳(全長74m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡
  4. 福岡 番塚古墳(全長50m、方円墳、5世紀末〜6世紀初め)・出土鏡
  5. 埼玉 伝・秋山古墳群・出土鏡・拓本(径20.0cm、現物は存在していない)
  6. 岡山 朱千駄古墳(全長70m、方円墳、5世紀後半)・出土鏡(現在は個人蔵)

これらを含めて10面あるとされ、出土してた古墳は5世紀後半から6世紀初めの推定築造年代となっているそうです。これらからほう製鏡が作られ始めたのは5世紀後半になってからじゃの推測が立てられているようです。隅田鏡は神功皇后が持ち帰ったとの伝説もあるそうですが、一方で近くの古墳から出土したとの伝承もあるようです。


隅田鏡の金石文

隅田鏡が注目されるのは、そこに刻まれた金石文になります。他の同型鏡には国宝の隅田八幡人物画像鏡を創ったのは誰なのか?!によると、

尚方作竟自有紀  辟去不羊宜古市  上有東王父西王母  令君陽遂多孫子

こういう文字が刻まれていますが、隅田鏡はまったく異なり

癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟

日本最古級の金石文としての価値が認められ国宝に指定されているぐらいに理解すると良さそうです。とくに注目されているのは

  1. 「大王」の文字がある
  2. 「意柴沙加」は「おしざか」と読め忍坂にあたる
  3. 「斯麻」は百済武寧王の諱である
少し武寧王に寄り道しますがwikipediaより、

武寧王(ぶねいおう、462年 - 523年)は、百済の第25代の王(在位:502年 - 523年)。『三国史記百済本紀・武寧王紀によれば先代の牟大王(東城王)の第2子であり、諱を斯摩、分注では隆とする。『梁書』では余隆、『日本書紀雄略天皇紀5年条では、加須利君(かすりのきし、第21代蓋鹵王)の弟の軍君昆伎王の子、名を嶋君とする。また、武烈天皇紀4年条では『百済新撰』の引用として、末多王(東城王)の異母兄の混支王子の子、名を斯麻王、としながらも、「末多王(東城王)の異母兄というのは不詳であり、蓋鹵王の子であろう」としている。『三国遺事』王暦では『三国史記』と同じく、諱を斯摩とする。

ありがたいのは武寧王の没年も諱も発掘された墓誌から確認されており、

寧東大将軍百済斯麻王、年六十二歳、 癸卯年(523年)五月丙戌朔七日壬辰崩到

6世紀前半の人であると特定できるところです。日本との関係は記紀には様々に書かれていますが、その棺が日本にしか自生しない高野槇で作られている点から関係は深かったと見て良さそうです。


金石文の解釈論争

これについてwikipediaより、

必ずしも釈読の定まらない文字が多く、銘文の内容についても異説が多い。

私が見つけたものでは石和田秀幸隅田八幡神社人物画像鏡における「開中」字考があります。興味があればリンク先を読んで頂くのが良いのですが、考察されているのは「開中費直」の部分になります。ここは人名なのですが、通説では河内直と読むそうです。石和田氏は「開」の字は開ではなく「歸」であるとし、だから「歸費直(中の解釈はリンク先に譲ります)」になり、これは紀直つまり紀氏の事を指すとしています。もし「開 → 歸」が成立するなら興味深い考察なのですが、原文を見てもらいます。二つ出してみますが、

石和田氏には申し訳ないのですが、確かに「開」の字は右に偏って書かれていますが、これを「歸」と読むのは少し無理がある気がしますので私は通説通りに「開」と読みます。


冒頭部の「癸未年八月日十大王年」も異説が多いところのようです。癸未年がいつかはとりあえず置いといて、「八月日十大王年」をどこで切るかが一つの焦点になっているようです。あれこれ調べていると切り方は2種類の様で、

  1. 「八月日」と「十大王年」
  2. 「八月」と「日十大王年」
1.が通説の様ですが2.もかなり強そうな感じです。1.に関しては「日」の前の数字を飛ばしたの解釈が出ています。たとえば「吉日」みたいな取り方です。ここでのポイントは大王の名前の取り方になります。つまり
  1. 「十」大王
  2. 「日十」大王
このどらなのかです。ちなみに冒頭部のおおまかな読み下しは、
  1. 癸未年八月○日、十大王の年
  2. 癸未年八月、日十大王の年
論議が割れるぐらいですからどちらも根拠があるのですが、ここで指す大王の名は武烈が有力となっています。これは冒頭部に続くところに、
    男弟王在意柴沙加宮時
これは
    男弟王が意柴沙加宮に在する時
これぐらいに読み下すのですが、こうする解釈が通説でつまりは継体天皇が男弟王であれば、その前の大王は記紀では武烈になるってところです。これも異説がありwikipediaより、

古事記』の「袁本杼」は「ヲホド」であり、ハ行転呼以前の「男弟(オオト/オオド)」とは一致しないので継体天皇とは別人物であるとする説もある。

ここについては「ヲ」を書紀では「男」としているわけで、「男弟王 = 継体」と私は解釈しています。そうそう武烈も実在が疑われる大王なので、金石文にある大王は継体の前の大王ぐらいに考える方が無難で、記紀では武烈に当たるぐらいです。


誰が作ったか?

金石文には

    斯麻念長寿遣
「斯麻 = 武寧王」の解釈で百済王が製作して贈ったものとするのが通説ですが、個人的にはどうだろうってところです。まず癸未年を「男弟王 = 継体」で解釈すると503年になりますが、武寧王の即位は502年であり、即位の翌年に作ったのはエエとしても、この時に継体の存在をそこまで意識できる情報が武寧王の手元にあったんだろうかの疑問です。あて先はどう読んでも継体ですから、この時点で実質的な大王になっている必要があります。問題は似たようなところをグルグル回るのですが、金石文の冒頭部の大王は生きているのか、死んでいるのかにもなります。生きていれば大王宛に贈られるはずだからです。

既に崩御しているので次期大王の最有力者の継体に贈られたと見るのもありですが、こういうものは正式に即位してから贈られる気がします。ここで国宝の隅田八幡人物画像鏡を創ったのは誰なのか?!の銅鏡の質に対する解釈が興味深いのですが、

  1. 通常、鏡の銘文は「時計回り」に記されるが、ここでは「反時計回り」になっている(作り手に知識が無かった?)
  2. 鏡は「小乳」という丸い突起により「四つの内区」に分割されるが、その区分けが不規則に歪んでいる(区分けを知らなかった?)
  3. 内区には主人公の東王父西王母と歌舞する人々が描かれるが、一部の人物が除かれている(別の図柄を入れるため)
  4. 外区に描かれていた「三足鳥」「九尾狐」などの図柄が無くなっている(普通は銘を入れない部分に銘を入れたため)
  5. 銘文の一部「寿(奉)遣開中費直」の六文字だけが「反転」されている(拓本をとった場合、この文字だけが正しく見える)

他に細部の作りの観察も含めて結論的にかなり杜撰な作りとしています。当時の技術水準は「百済 > 日本」であり、百済王が日本の大王に贈る銅鏡としては作りが雑すぎる気が私はします。つまりは国産銅鏡とする方が自然ではないでしょうか。つまりは継体が作らせたものの見方です。継体が作ったと解釈すると金石文の読み方が少し変わる可能性が出て来ます。これも説としてあるのですが冒頭部の切り方を変えて、

  1. 「八月日」と「十大王年」
通常は大王十年とするのですが10回目の大王年と読む可能性もある気がしています。武烈の崩御は書紀より

冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。

これは書紀では武烈8年の事になります。継体は武烈の死後に皇位継承に介入してくるのですが、介入した途端に大王になれたとは思えず、武烈死後には大王の空白期があったはずで、その間は武烈○年が使われていたとしても不思議とは言えません。継体は武烈の後継者を自称していたと仮定すれば、先の大王の年号をあえて使っていたぐらいです。もう少し言えば記紀では大王位の継承は空白期間をほぼ開けずにスムーズに行われていますが、実際は何年かの空白期間があった事もあると見る方が自然だからです。これは完全に想像ですが大王位の空白期間は「前大王の何年」の用法が当時はあったんじゃなかろうかです。

それと通常は「大王○年」なのが「○大王年」になっているのはどう考えても不自然ですが、そこが最古級の金石文の価値があるところで強引な推理ですが、

  • 「大王○年」も「○大王年」も当時の用法としてあったのかもしれない
  • 大王が生きている間は「大王○年」、死後の空位期間は「○大王年」てな用法があったのかもしれない
この推理の応用として、書紀で異様に長寿の大王の中に崩御後の空位期間の年数をカウントしていたんじゃなかろうかも出て来るわけです。大王の崩御は大王の治世の終焉ではなく、次に新たな大王が継承するまで前大王の治世が継続していると見なす習慣があったぐらいを想像しています。私の推理としては、隅田鏡は継体が前大王の後継者である事をアピールし、なおかつ百済王とのつながり(対外的にも認められている)を宣伝するために作らせたんじゃないだろうかと考えています。


意柴沙加宮の謎

「意柴沙加宮 = 忍坂宮」は同意しています。これは私の解釈でなく通説です。これが古代史において問題とされているのは、継体クーデターはかなり苦戦し、継体が大和に都を定めたのは即位してから19年目となっており、こんな早い時期に継体が大和の忍坂宮にいるのは不自然だの考え方です。でもいてもエエような気がします。前に作った古代の水運地図を再掲します。

古代は陸路がプアで河川を利用した水路交通の方がメインだったとまず考えています。継体の出自は越前説と近江説がありますが、どちらにしても琵琶湖から瀬田川水運を使い、さらに淀川水運を利用して樟葉に進出し戦略拠点を築いたと見て良いでしょう。樟葉に戦略拠点を構えたのは河内湖を挟んで河内王朝軍と対峙するためぐらいです。つうか河内湖の北側まで進出できても容易にこれを渡って河内に進出するのが難しかった時期があったぐらいでしょうか。一方の河内王朝ですが中核は河内と大和で大和川水運で結ばれています。

ここでなんですが木津川水運を使えば佐保丘陵を越えて古代でも比較的容易に大和に進出可能です。天智が近江に都を構えた時に大海人皇子は近江京から飛鳥まで1日で移動しています。また壬申の乱の時には大和で頑張る大伴吹負軍に対して佐保丘陵を越えて近江朝軍が攻め込んでいます。近江と大和の関係は古代から深いのは息長大中姫や神功皇后が近江出身であり、大王家の外戚として力を持っていたと描かれているところからも確実そうに思えます。つまり継体クーデターの時にも木津川水運は交通路として活動していただろうです。

ここで木津川と瀬田川の合流部付近になる宇治や長岡は大和からも進出しやすい地形条件になります。ここを押さえられると継体軍としては後方を遮断されることになり戦略的に拙いことになります。樟葉の前線戦略拠点の維持のためには近江方面との連絡は絶対必要であり、連絡路を維持するためには長岡や宇治方面は絶対に押さえておく必要性があります。そう考えると樟葉進出の前に宇治や長岡の拠点確保、つまり大和方面を制圧が行われたとしても不思議ないところです。最低でも同時進行は必要と感じます。

河内王朝の中核は河内と大和ですが、河内と大和の関係は「河内 > 大和」であったと見ています。王朝の発祥は箸墓古墳から考えても大和ですが、河内王朝の重心は巨大古墳の築造年代から大和から河内に動いたと見て良さそうだからです。そういう状況に大和川は不満を募らせていたぐらいを想像すると、大和と河内に大王(大王候補者)が並立した可能性も出て来るんじゃないかと思っています。このうち大和大王に継体は加担しただけでなく、大和大王の姉妹なり、娘である手白香皇女を妃にしたぐらいはありえます。同盟に婚姻政略を用いるのは常套手段です。

継体クーデターが短期で成功しなかったと見て良さそうですから、大和と河内の大王位争いの過程で実力を示した継体はやがて大和側の皇太子的な地位に上り、さらに大王になり、さらには河内大王も滅ぼして統一大王になったぐらいの展開はあっても良い気がします。後世で言うと天武みたいな感じです。継体と大和が手を結んでいたのなら忍坂宮に継体が居る時期があっても良い事になります。

それと上で隅田鏡を継体が作らせたとしましたが、当時の銅鏡製作技術は大和にのみあったとして良さそうなのは前にムックしています。継体が自分のための銅鏡を作らせるためには継体は大和を勢力圏にしておかないと無理と言う事になります。忍坂宮に継体がいないと銅鏡は自作できないってお話です。


余談・年代が・・・

癸未年は503年と言う事になってしまうのですが、今日の仮説である癸未年が前大王が即位してから10年目となると、その前大王は武烈になるかどうかです。古代の年代を推測するには確実な基準年が必要なのですが、記紀でこの時代の基準年を特定する事は困難です。そこで武寧王が出て来るのですがwikipediaより、

武寧王陵から発掘された墓誌から武寧王は462年に生まれたことがわかった(詳しくは武寧王参照)が、これは日本書紀雄略天皇5年に武寧王が生まれたという記事と対応している。これをもとにすると、雄略天皇元年は西暦458年と考えられる。

雄略元年を458年と仮定できそうです。雄略紀には

廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國

文周王は477年に亡くなっています。もう一つ

廿三年夏四月、百濟文斤王、薨

文斤王は479年に亡くなっています。この歳に雄略は崩御していますから、特定ポイントにしても良さそうです。冒頭に書いている年代特定の挫折のオマケみたいなものですが、書紀で雄略後を年表にすると

天皇 天皇 西暦 干支 天皇 天皇 西暦 干支 天皇 天皇 西暦 干支
武烈 497 仁賢 顕宗 485 雄略 473
498 486 474
499 487 475
500 488 476
501 489 477
502 490 478
503 491 清寧 479
504 492 480
505 493 481
506 494 482
507 495 顕宗 483
508 武烈 496 484
武烈在世中の事になります。ところが古事記でやると
天皇 天皇 西暦 干支 天皇 天皇 西暦 干支 天皇 天皇 西暦 干支
武烈 497 仁賢 顕宗 485 雄略 473
498 486 474
499 487 475
500 488 476
501 489 477
502 490 478
503 491 清寧 479
504 武烈 492 480
505 493 481
506 494 482
507 495 顕宗 483
508 496 484
武烈の死後4年目の事になり、なおかつ武烈元年から11年目の事になります。オマケですが、それぐらいは関連性があるかもしれないってお話でした。