日曜閑話68

GWから米とともに江戸期の郷土史研究に没頭していました。米生産と違い無茶苦茶ローカルなお話なのでそのつもりでお付き合い下されば幸いです。それと地元のお話だもんでやたらと力瘤が入りすぎてかなりの長編になってしまって事を遺憾とします。江戸期は中途半端に資料が多いので調べれば調べるほど長くなってしまったぐらいです。


三木城の縄張り再考察

前にも一度やったのですが、とにかく開発が進みすぎて現在の航空写真では想像するのも難しくなっています。でもってあれこれ探していたら1974年時点の航空写真が国土地理院地図にありました。今から40年前のものですが、現在のものより往時をしのびやすくなっています。三木城の復元予想図はなにせこれ1枚しかないので、これが本当に三木合戦当時のものかどうかは確認しようがないのですが、他に資料があるわけではないので信じる事にします。

復元図 1974年当時航空写真
目を凝らさいないと判りにくいですが、ボンヤリかつての縄張りが浮かび上がる気がしませんか? とくに参考になるのは鷹の尾の要害が確認しやすい点です。現在は市役所と文化会館が出来て往時の面影を偲ぶのも困難ですが、1975年当時の航空写真ではまだ鷹の尾山が残っています。こうやって見ると南側の防御構造は宮の上と鷹の尾の二段構造になっており、宮の上と鷹の尾の間に明らかな段差が確認できます。当時これを確認した城郭愛好家によると3メートルの大堀切があったとも言われています。1974年当時の航空写真に縄張りを無理やり重ねてみると、

さて城地の推測なんですが、もともとは本丸・二の丸構成だったと見ます。そこから拡張部分として「新城」が後から作られたと考えます。そりゃ「新」ってぐらいだからです。さらに拡張されて、正入寺・鷹の尾・宮の上と拡がったぐらいです。航空写真からでは判りにくいですが、本丸・二の丸・新城の市街に向かう側はいずれも険しい崖の丘の上になります。本丸・二の丸で10メートルぐらい、新城になると20メートルぐらいあります。今でも曲輪の外縁がボンヤリでも確認できるのは崖に生えている樹木のためです。こちらからの攻撃は天然の要害になっており到底無理ぐらいでも良いかもしれません。 そんな三木城の弱点は背後の山の部分になると考えられます。三木城の背後は見て通りの山なんですが人が容易に通れない険阻な山ではありません。険阻どころか登り切ったあたりは台地状になっておりそこには御丁寧にも兵庫道まで通っています。江戸期の兵庫道は八幡坂から鶯谷を抜ける様に描かれており、三木合戦どころか古来からそうだったするのが妥当です。ちょうど今の白川街道ぐらいになると思ってもらえれば良いでしょう。つまりは城の山側に容易に回り込めるだけではなく、回り込んだところは城よりさらに高いところになります。 三木城は三木合戦以前にも落城の憂き目を見た事がありますが、おそらく背後の山伝いの攻撃に屈したと想像しています。この弱点をカバーするために新城から鷹の尾、さらに宮の上に城地を拡大したと考えています。秀吉もまた三木城攻略の定跡を踏んで山側から攻撃をかけています。ただし山の搦手側も弱点カバーは十分なされていたとして良さそうで力攻めは極力避けています。城兵が健在なうちは損害ばかりが増えるとの計算だったと思っています。そのために20を越えるとされる付け城群を築き「干殺し」と呼ばれる兵糧攻めを選択しています。 三木合戦の話はともかく、城郭構造としては本丸・二の丸・新城・鷹の尾・宮の上ぐらいである程度完結しています。であるにも関わらず復元想像図には丘の下にも城地が広がっています。ここにちょっと注目しています。これってヒョットして対秀吉戦用に拡張された部分じゃなかろうかです。と言うのも三木合戦に当たり別所氏が選択した戦法は総籠りであったとされます。味方する国人衆は家族まで引き連れての籠城であったとされます。さらに城下の町人もすべて籠城させたとされます。裏切りを懸念したのかもしれませんが、総籠りによる籠城人数の多さが兵糧不足と言う新たな弱点を晒したのはもう良いかと思っています。 それはともかく、総籠りになれば籠城した人々に住居を提供する必要があります。そのために二位谷川及び美嚢川方面に新た曲輪を設けたんじゃなかろうかが私の仮説です。まったくの想像ですが、新たに造設された曲輪を総称して「下の丸」ぐらいに呼んでいたぐらいです。これに対し従来からある丘の上の城郭を「上の丸」と呼んだです。「下の丸」の言葉はどこにも伝承されていませんが、「上の丸」は現在でも三木の住所名として使われています。もちろん想像だけでどこにも証拠はありません。
秀吉の戦後政策
三木を落とした秀吉は当初三木を播磨経営の根拠地する構想を持っていたとされます。これを黒田官兵衛が献策して姫路に本拠を構えたとはなっていますが、この伝承は信じる事にします。それでも本拠地にしようと考えた時期はあり、また姫路を本拠にした後も東播磨の重要拠点として重視していたのは確実にあると考えています。それなりの意気込みで戦後の復興が行われたぐらいとしても差し支えないかと存じます。確実に判っている秀吉の施策は「地子免除」です。ほいじゃそれ以外に何を具体的に行ったかです。実はこれが殆どわからないのですが、wkipediaにわずかにこういう記述があります。三木の旧町の一つの新町についての地名由来なんですが、

1619年に三木城を明石に移築するために参勤交代し、民衆や行列の「かかし道」として道路が出来た場所である。由来は豊臣秀吉によって、1580年に城下集落策をとって、城地を縮小し、城下町を広げたことから名付けられた。

まず城地のどこを縮小したんだろうです。そのためには新町がもともとどこにあったかを特定する必要があります。せめて江戸期の絵図が欲しいところです。でもって探してきました。そういう絵図があるのは知っていましたから、出不精を克服して三木市有宝蔵文書を図書館で絵図をコピーしてきた次第です。原本を買う手もあったのですが少々お高いものだったので・・・絵図は江戸期のものですが、


字が読みにくいのは遺憾とします。コピー原本どころか地図原本でも読みにくかったので我慢してください。これがいつの時代の地図であるかが「たぶん」書いてなかったのですが、美嚢川にかかる一番東側の橋に注目してください。「東條町橋」と書かれています。この場所は常楽寺の近くですから今の上津橋ではなく、美嚢川(三木川)水運の船着き場である上津になります。後に示す宝暦2年(1752年)絵図にはこの橋が存在しません。そうなると美嚢川水運が始まってから利便のために架けられた考えるのが妥当です。美嚢川水運は明和7年(1770年)に一旦始まって挫折した後、1773年(安永2年)から復活し軌道に乗ったとなっています。そうなると1770年以後の絵図と考えるのが妥当と考えます。 地図は南が上になっているので注意が必要ですが、東側にまっすぐ南側に伸びている道が現在もある湯の山街道です。それが北の端で西側に曲がってすぐのところに「古城」と記された2つの山があります。その二つの山の間から道が出ています。この古城とは西側が本丸、東側が二の丸で良いかと思います。今もこの道はナメラ商店街から金物神社に上がる道として存在します。でもってこの道を境にして東側が滑原町、西側が新町となっているように読めます。秀吉が城地を縮小して出来た新町はこの部分と考えます。つうのも新町はこの絵図では一番南側の道沿いに広がり、鳥居が描かれている大宮八幡宮まであります。ここでヒントになるのは、
    1619年に三木城を明石に移築するために参勤交代し、民衆や行列の「かかし道」として道路が出来た場所である
「かかし道」は後から出来た道です。ほいではかかし道とは具体的にどこになるかです。原初の新町と特定した場所から西に進むと道が2つに分かれます。えっと大橋の散髪屋のところです。一方は鳥居(八幡宮)に向かい、もう一方は美嚢川に向かいます。八幡宮に向かう道が新町になっていますから、これが「かかし道」と特定できます。つまりこの道は秀吉時代にもなく、従って町もなかったぐらいの理解で良いかと思います。さてなんですが、美嚢川に向かっている道は川の手前でもう一度曲がります。この曲がったところが現在の県道ぐらいで良さそうです。今なら観光協会のあるあたりでしょうか。 現在は観光協会の前の道は2車線の車道で東側にも道が通じているのですが、江戸期にはここは陣屋と田畑でした。このあたりを江戸期には上町(かんまち)としていたようです。さらに西側に進むと一本道を越えて再び道が分岐します。直進すれば明石町となっており、これは現在の三井住友の前を通る道ではなく、もう一本南側の玉岡歯科に抜ける道になります。もう一本の美嚢川に向かう道は現在の立石堂ビルの道で良さそうです。ここから何本か道があるのですが、本要寺、晴龍寺、光明寺、善福寺を取り囲むようにある一帯が江戸期の中町として良さそうです。どうもこのあたりが元々の中心街だった気がします。下町は現在とあんまり変わらないぐらいでしょうか。現代の地図で絵図の道をプロットしてみると、
それとなんですが三木城の本丸は美嚢川に突きだすような岬のような地形です。今は岬の先を巡るように県道が付いていますが、今でも狭いところです。別所時代には完全に川に突き出る様な地形ではなかったかと考えていたのですが、ここが実は非常に微妙なところでwikipediaに、

明治時代の終わり頃に馬車道が付けられ、本通りになった。この道ができるとその沿道に家屋が経つようになり、「滑原商店街」が形成されるようになった。

こんだけしか情報が無いのですが、現在のナメラ商店街の西側は岬状の一部を切り落としたような感じになっています。これは馬車道を作る時にそうした可能性はあるかもしれません。ただ人の記憶はアテにならないもので現在の画像を確認すると必ずしもそうでない感じがします。江戸期の絵図でも道はすんなり描かれていますから、当時も普通に道はあったのかもしれません。もう一つ絵図を出します。


これは宝暦2年(1752年)のものとされています。宝暦2年とは吉宗が死去し家重が継いだ時になります。上の絵図が上五町、下の絵図が下五町になります。滑原町は二位谷川の西側から起こったとされます。上五町の絵図で言えば横に延びる湯の山街道の左端が直角に曲がっています。それから数軒置いて細い道が描かれていますが、そこから下側あたりからが滑原町が始まってると見ます。そこからしばらく下っていくと家が途切れているところがあります。ブログにあげた画像では読み取りにくいのですがコピー原図では「古城山」と書かれています。そこが現在のナメラ商店街の入り口あたりになるかと推測します。滑原町も下ナメラと上ナメラに分かれますが地図の下の方が上ナメラ上の方が下ナメラと見て良さそうです。 上ナメラの川側はかつては田畑でありそのためか山側にしか家はないようです。この続きが先の絵図で推測した新町になるはずなのですが、宝暦2年の絵図では下の絵図の右側になります。で、どうもなんですがこの間には家は無かったようです。次に家が現れるのは現在の大橋の散髪屋の分かれ道あたりです。下側の細い方の道が先の絵図で特定した大宮八幡宮の一の鳥居に通じる「かかし道」のはずですが、その真ん中あたりに縦に走る道があります。これがどこかになるのですが、現在の地図とニラメッコした結果として月輪寺に上がる道らしいと判断しました。大宮八幡宮裏参道とか竹の湯に続く道と言えばわかりやすいでしょうか。 でもって「かかし道」は道の細さ、さらには道に面している家の少なさからして明石町が面する道の裏通りぐらいの趣があります。もう一つ絵図を出します。
これは上2枚と異なり田畑を中心にした絵図です。当たり前と言えば当たり前なんですが市街以外は田畑です。個人的に驚いたのですが旧町を取り囲む田畑は西が平山町、東が前田町のものであった事が確認できます。滑原町の川側も二位谷川の東側も田畑です。「かかし道」の山側もまた田畑です。さらに三木城跡もまた田畑です。ローカルも極まる様なお話ですが子ども時代は絵図にもある平山町に住んでいました。これがまあ小さな町で戸数にして70戸ぐらいしかなく、周辺の東條町、芝町、大手などの較べると町の面積も人口も少ない町でした。 ところが伝承ではかつては平山町は栄えていたとなっています。三木の町の大きさを示すものとして祭りの時に屋台を出すかどうかなんてものがあります。屋台はそれを維持する経費も、また屋台を神社に奉昇する人手も必要です。平山のような小さな町が屋台を出すなんて信じられなかったのですが「昔は出していた」となっていました。確かに今も欠番状態で登録されています。それが出来たのは「昔は平山町は大きかった」の伝承があります。子どもの時は「ふ〜ん」で終わったのですが、これを確認した思いです。 それとこの絵図でも「かかし道」は確認できるのですが、かかし道の山側は田畑となっています。まったくの想像ですが当時この田畑に案山子がいっぱい立っていたんじゃないでしょうか。屋敷地の道の一つであるにも関わらず案山子がいっぱい見える点を皮肉って「かかし道」と名付けた気がなんとなくしています。あれこれ絵図は出しましたが秀吉が行った復興政策のうち「町づくり」は後年の秀吉のように街割りまで作り直した大規模なものではなく、対秀吉戦用に平地部分まで拡張されていた城地を縮小し、東西の連絡が悪かった町を結びつけただけの気がします。ちなみに三木の旧市街はその基本に沿って発展していった気がしています。
延宝の義民
三木市民なら誰でも知っている義民祭です。これの発端は三木落城後の秀吉による戦後復興政策に端を発します。そのために掲げられた制札が、
この高札と言うか制札が何故に地子免許の根拠になるのか素直に読んだだけでは不明ですが、他の附随文書と合わせて地子免除になっています。三木の地子免許の範囲は三木市有宝蔵文書より、

寛保2年(1742)の「三木町諸色明細帳控」(59ページ)によると、三木町居屋敷は、拾四町八反八畝拾八歩が拾か町の赦免地であり、この拾か町(大塚町、芝町、平山町、東条町、滑原町、新町、上町、中町、明石町、下町)の家数が514軒であることが記されている

ここで地子とはなんぞやですがwikipediaより、

豊臣秀吉太閤検地によって、中間得分の収取が否定された。これは、中世的な地子が廃止されたことを意味する。以後、近世には田地へ賦課される地子は見られなくなった。ただし、都市域において屋敷地に賦課される地代が地子と呼ばれるようになった。都市では貨幣経済が定着していたため、地子は銭貨で納入されるのが一般的であり、地子銭と呼ばれた。

これだけ読めば現在の固定資産税みたいなものに思えますが秀吉が地子免許を三木に出したのは太閤検地の前です。三木市有宝蔵文書が示す赦免地は近世感覚の地子免除ですが、wikipediaには中世感覚的な地子の定義も書かれています。

領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。賦課した地目に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた

どうもなんですが秀吉が与えた地子免許はこちらの地子に近いんではないかと考えています。延宝の義民は延宝の検地に関連する事件ですが延宝の検地とはwikipediaより、

東国の幕府領で実施された寛文検地に続いて畿内周辺8か国と備中国陸奥国の一部の幕府領で実施されたことから、2つの検地を一括して、寛文・延宝検地と称する呼び方もあるが、一方で延宝検地で創始された検地方法が元禄検地以後の検地方法の範となったことから、寛文検地とは別個の検地として捉える考え方もある。

これまでの検地では現地を支配する代官が検地を行うことになっていたが、延宝検地ではこれを取りやめて、勘定所派遣の役人の監視下において検地対象地の周辺にある諸藩が検地の実務を行った。

これを読む限り延宝の検地令は幕府領で行われたものであることがわかります。三木も天領部分があり地子が復活しそうになり大騒ぎになるのですが、この時に談合の末に2人の代表者を選び江戸に送り直訴に出ます。代表者の名前は、

    平田町の大庄屋 岡村源兵衛
    平山町年寄 大西与三右衛門
三木には義民の歌まであって私も小学校の頃に歌った記憶がありますが、奇妙だとは思いませんか。この時の直訴は幸いにして生きて帰れましたが、御存じの通り江戸期の直訴は基本的に死罪です。死を覚悟して江戸に赴き、地子免許を勝ち得たから義民として今も称えられています。でもって代表のうち平山町年寄は代表として問題はありません。問題は平田町大庄屋です。なんで代表になったんだです。これは国文学研究資料館 播磨国美嚢郡三木町宝蔵保管文書からですが、

三木は十ヶ町からなり、上五ヶ町・下五ヶ町という2つの組合町により構成されていた。この町方十ヶ町の部分が地子免許であることが特徴的であった。個別の町名を列挙すれば、上五ヶ町は滑原町・平山町・東条町・芝町・大塚町であり、下五ヶ町は下町・中町・明石町・上町・新町である。個々の町に町年寄が置かれ、これらを2つの組合町の惣年寄2名が統轄するというシステムをとっていた。またそのほかに年貢を負担する地方の町が前田町など6つあり、それぞれに庄屋が置かれていた。

ここにはもっとはっきり書いてあります。町方十ヶ町のみが地子免許地域であり、それ以外の5つの「地方の町」は年貢を負担するとなっています。自分の利害に関係ないのに平田町大庄屋が代表になったのなら飛び切りの義民ですが、そう考えるのはそもそも無理があります。平田町もまた地子免許に関連する大きな特典があったとするのが妥当です。そこで秀吉制札に戻るのですが右側の方の内容に注目してみました。

  1. あれ地ねんく当年三分二ゆうめん、三文一めしおくへき事
  2. さくもういせんたちかへり百姓等いとなみ、ひやくあるましき事、あれ地の百姓共つくりしニすへき事
あくまでも「どうも」なんですがこれが江戸期も延々と受け継がれていたんじゃなかろうかです。何が書いてあるか読むにくい人もいるでしょうから現代語に意訳すれば、
  1. 荒れた田畑の年貢は今年は3/1に免除する
  2. 戻ってきた農民は諸役免除としたうえで、荒れた田畑の農民と同様に年貢2/3免除
これはどう読んでも時限立法的な措置なんですが、どうもこれをこう読み替えたんじゃなかろうかです。
  1. 荒地の開拓民の年貢は2/3免除
  2. 合戦により避難していた農民が戻って来たときには、諸役免除の上に年貢は荒地の開拓民と同様にする
この推測が正しいかどうかは確認できていませんが、村方の農民にもメリットがなければ死罪覚悟の直訴代表に村方である平田町の大庄屋がなる理由が思いつかないぐらいです。


三木陣屋の主の変遷 その1 陣屋設置

これが全部追うのが無茶苦茶難しいのですが三木落城が1580年(天正8年)です。まずはwikipediaより、

その後、羽柴秀吉は姫路城を居城とし、三木城には城代を入れた。その後天正13年(1585年)8月中川秀政が入城するが朝鮮の役で没すると、弟の中川秀成が跡を継ぎ、天正14年(1586年)には入封する。その後は豊臣氏の直轄地となり城番が入った。城番には、賀須屋内膳、福原七郎左衛門、福原右馬助、朝日右衛門大夫、青木将監、杉原伯耆守の名が歴代として伝わるが、実態ははっきりしない。ただ、豊岡城主である杉原が、三木城番を兼ねていたことは文書が残っている。

関ヶ原の戦いの結果、池田輝政が播磨52万石の大名となり、姫路城主となると、三木城も6つの支城の一つとなり、宿老の伊木忠次が3万石を知行し三木城の城主となった。その後伊木忠繁が継ぐが元和元年(1615年)一国一城令によって破却された。

ここは落城後は秀吉支配になり、関ヶ原(1600年)後の論功褒賞により池田輝政が播磨一国を支配した時には今度は池田氏支配下におかれたで良いかと思います。三木城は1615年(元和元年)に廃城になるのですが、池田氏支配は1617年(元和3年)に池田光政が播磨から因州鳥取に国替えになるとwikipediaより、

池田光政鳥取藩に転封となると、播磨の所領は、松平信康の娘・峯高院、妙高院が嫁いだ明石藩小笠原氏10万石と姫路藩15万石及びその部屋住料10万石に龍野藩5万石の本多氏と、徳川家康の娘・良正院の遺領を分配した赤穂藩3.5万石、平福藩2.5万石、山崎藩3.8万石とその池田氏一族の鵤藩1万石、林田藩1万石の中小藩に分割された。

wikipediaに書いてある諸藩の石高を合計すると51万石。播磨の石高は太閤検地で35万8584石、寛永検地で52万1300石ですからほぼすべてが大名領になったぐらいと見て良さそうです。話は三木になりますが、三木は明石藩に所属する事になります。明石藩小笠原忠真が10万石で入ったとなっていますが、1846年(弘化3年)の播磨州郡邑輿地全図(この時の播磨の総石高は54万5955石)には

    三木郡:3万7850石(江戸期には美嚢郡ではなく三木郡の表記がよく使われています)
    明石郡:4万8839石
こうなっています。合計で8万500石ほどですから他にも飛び地があったのだと思われます。とにかく明石藩の三木郡一円支配であったで良いかと見ますが、1632年(寛永9年)に小笠原忠真豊前小倉に転封になります。実はここからがはっきりしなくなります。ここからと言うか、これ以前から複雑で、

  • 元和7(1621)年、徳川幕府は三木の一部を天領編入し、この地に三木陣屋を置いた。その後、三木は大名の飛び地となり、下総下館藩黒田氏の陣屋となった。江戸時代中期以降は、藩政期を通じて館林城主松平(越智)武元、浜田藩等の譜代大名の陣屋が置かれていた。(帝國博物学協会 播磨国 三木陣屋
  • 三木陣屋は、元和七年(1621)に築造され、小堀遠江守が仕置人として配され、柴田五兵衛が代官として就任した。三木郡に陣屋が建てられるようになったのは、当時の三木城主小笠原忠政が在城二年目の元和五年(1619)に明石城に移ったために、三木郡は分断されて半分が天領となったためであった。 当郡内は幕府領であったために譜代大名の領域となり、特に江戸時代中期以降は、館林藩主松平武元の領下となった。(「古文書による三木陣屋と代官たち」三木市観光協会刊)

小笠原忠真明石藩は当初は三木郡・明石郡を一円支配していたようですが、明石城完成とともに所領の組み換えがあったようです。wikipediaより、

元和5年(1619年)正月から作事が始まり、元和6年(1620年)正月には小笠原忠真が船上城から移り住み、同年6月から城内の建物関係の工事が開始された。

これからすると明石城の落成が1621年(元和7年)としても無理はなく、落成とともに三木郡の一部(半分?)が天領になり三木陣屋が設けられたぐらいです。ちなみに三木陣屋は現在の観光協会から旧市役所、中央公民館のあたりにあったとなっています。私は見た事がありませんが、観光協会の前には「徳川幕府三木陣屋跡」のステッカーみたいなものが窓に貼られているそうです。そうそう明石藩が三木郡内にどれだけの所領を持っていたかは不明です。つうのも明石藩の石高は、

事柄
1617 明石藩が10万石で成立
1621 三木郡を天領と分割
1633 7万石
1679 6万石
1842 8万石
仮に明石藩が明石郡を一円支配していたとすれば明石郡は5万石弱程度です。小笠原忠真時代はともかく、以後は長い間6〜7万石程度の石高です。明石郡内で足りない分を三木郡に持っていたとすればおおよそ1〜2万石程度の計算になります。とは言うものの移封に際し石高調整のために飛び地を与えられるのは当時の常識だったようです。この辺の資料としては流通科学大学論集―流通・経営編―第24巻第1号,167-189(2011)「近世近代移行期における播州三木町の通貨構造には、

寛延4(1751)年の明石藩関係の史料である17)。同藩の城下町は明石郡内に所在したが、三木町が所在する美嚢郡内にも1万両の所領があった。

1751年と言えば明石藩6万石時代です。「1万両 = 1万石」と考えれば明石郡に5万石程度、三木郡に1万石程度の計算になりますが、そういう状況が一貫して続いていたかどうかは確認不能でした。


三木陣屋の主の変遷 その2 天領から常陸下館藩時代へ

いつまで幕府支配だったの明快な記述は見つからなかったのですが、延宝の義民の時期まで一貫して幕府支配であったと見ています。江戸期の政治の基本は先例踏襲ですから延宝期までは秀吉の地子免許が恙なく認められていたぐらいに考えています。たいした傍証ではないのですが、延宝の義民の時に秀吉の制札が行方不明になっており、必死で探した末に味噌蓋として使われているのを漸く発見したなんてエピソードが残されているからです。また延宝の経験から文章類の保存の必要性が強く認識され現在も残る宝蔵文書が保管されるようになったとされています。つまりそれ以前は秀吉の地子免許でそれほどの騒ぎは起こらなかったぐらいの見方です。

ではではいつから三木陣屋の持ち主が変わったかです。芝町歴史年表解説に、

この年に三木の領主に常陸下館藩黒田豊前守になり代官が三木を治めるための陣屋が建てられた。

これが1707年の事です。これが本当に「建てた」のか天領時代の陣屋を「補修」したのかは確認しようがありません。下館藩のwikipediaを見ると

翌年1月9日、大名に列した中山氏一族の黒田直邦が1万5000石で入る。宝永4年(1707年)に5000石を加増された。享保17年(1732年)3月に上野国沼田藩へ移封された。

「翌年」と言うのは1703年の事ですが、常陸下館藩黒田氏が得た5000石とは播州三木であったと考えて良さそうです。この時も地子免許で大騒ぎがあったと記録されています。まあ加増を合わせて2万石に過ぎない小大名ですから、せっかくもらった5000石のそれなりの部分が免税地や減税地では困るぐらいのお話だったと思います。これもいつまで常陸下館黒田氏の支配が続いたか判断が難しいのですが、芝町歴史年表解説の1708年に

この時の交渉は困難をきわめた。延宝の免許状も認めず秀吉の制札も効果なく地子の役銀を承知せよと言い渡された。結局宝永五年から三年間役銀を納め、その上で正徳元年(1711年)に再び三木町の町役銀免除を願い出たのである。その際条件として人足役を勤める事で町役銀が免除された。その人足役も5年後に運動の甲斐があって免除される事になった。

1711年に町役銀免除を嘆願し、「5年後」とありますから1717年に人足役も免除。少なくとも1717年まで黒田氏支配が続いていた事が確認できます。これがいつまで続いたのかが実ははっきりしません。常陸下館藩黒田氏は、加増を受けた黒田直邦が1732年に上州沼田藩に移封となり、さらに直邦の次の代の黒田直純は1742年に上総久留里藩に移封となっているのです。飛び地領の三木が移封を繰り返す間にどうなったかさっぱりわからないのです。つうのも次が上州館林藩越智松平氏なのは判っているのですが、流通科学大学論集―流通・経営編―第24巻第1号,167-189(2011)「近世近代移行期における播州三木町の通貨構造には

貸付を行ったのは今も三木に続く金物問屋の作屋(黒田)清右衛門です。館林藩領主時代の終焉時期の考察は後述しますが始まりは、

こうなっている点です。そうなると黒田氏から越智松平氏に三木支配がどこかで変わった事になります。それが1746年になるのですが裏付けがありません。1746年前後の黒田氏と越智松平氏の事歴を追うと
黒田氏 越智松平氏
1728 松平武元家督を継ぐと同時に上州館林から奥州棚倉に移封
1732 直邦3万石に加増され上州沼田藩に移封
1735 直邦死去。直純が継ぐ
1739 奏者番に就任
1742 上総久留里藩に移封。大坂加番。
1744 寺社奉行兼任
1746 西の丸老中(家治付)になる。奥州棚倉から上州館林に移封。
1747 本丸老中
1749 奏者番になる
1761 老中首座
1769 7000石加増
所領が変わるキッカケになるのは加増ないし減封の時です。それがあったのは1769年の越智松平氏だけです。それ以外に所領が変わるキッカケになるのは移封時です。石高は大名の格にも影響しますし、もちろん実収入にも影響します。移封となれば基本的には前藩主の所領を受け継ぐ事になりますが、移封前の石高と同じと限りません。多すぎれば削れば良いだけですが、少ない時はどうするかです。飛び地で石高の調整を行う事が行われたりします。そういう目で見ると移封は、
  1. 1728年:越智松平氏が上州館林から奥州棚倉に5万4000石で移封(前藩主は太田氏5万石)
  2. 1742年:黒田氏が上州沼田から上総久留里へ移封(立藩)
  3. 1746年:越智松平氏が奥州棚倉から上州館林に移封(前藩主は太田氏5万石)
ちなみに太田氏5万石は同じ藩主です。越智松平氏は武元が家督を継いだ時には5万4000石ですから奥州棚倉では4000石足りません。同様に上州館林に戻った時も4000石足りません。これの調整で播州三木に飛び地を持った可能性です。どちらも可能性があり1742年でも問題はないのですが、その前に三木を飛び地として持っていた黒田氏は1742年に上総久留里に移封です。ただし久留里藩は1679年に土屋氏が改易になった後は藩主はいません。だから事実上の立藩状態です。なぜに1742年説への疑問を並べているかと言えば根拠はただ一つ、なんとなく城巡り「三木陣屋跡」

奥州棚倉松平家の陣屋。遺構はありません。

これが成立するには越智松平氏が奥州棚倉時代に三木を飛び地として持つ必要があるからです。この奥州棚倉説もここしか記載がなく論拠も書かれていませんから信憑性と言う点では問題があるのですが、わざわざ常陸下館藩や上州館林藩、さらには幕府が最初に作った点を飛ばして奥州棚倉藩を持ち出している点に引っかかると言うぐらいです。短期間かもしれませんが奥州棚倉藩主時代の松平武元が領主であった時代があったんじゃなかろうかぐらいです。これ以上は判りません。


三木陣屋の主の変遷 その3 上州館林藩時代から播州明石藩時代へ

播州明石藩時代が始まったのは比較的確認しやすいところです。明石藩領に三木町が加わったのは将軍家斉の二十六男が明石松平家の養子に押し付けられた時で良いでしょう。松平斉宣(十三人の刺客のモデル)は天保11年に養子になるや現当主は隠居、正式の嗣子は交替で明石藩主になり、さらに2万石の加増を受けています。当時明石藩は6万石でしたから加増された2万石の中に三木陣屋を含む三木町があったぐらいです。これは流通科学大論文の1842年説を素直に取ります。問題は流通科学大論文にある2つの越智松平氏支配終了時期です。参考に館林藩主の変遷を表に示しますが、

藩主 石高 備考
1590〜1643 榊原康政 10万石 小田原征伐の功
榊原康勝
榊原忠次 11万石 陸奥白川に移封
1643〜1644 天領
1644〜1661 松平乗寿 6万石 遠州浜松より移封
松平乗久 5万5000石 下総佐倉に移封
1661〜1683 徳川綱吉 25万石 五代将軍
徳川徳松 夭折廃藩
1683〜1707 天領
1707〜1728 松平清武 5万4000石 徳川綱重の次男。1710年に3万4000石、1712年に5万4000石
松平武雅
松平武元 奥州棚倉へ移封
1728〜1734 太田資春 5万石 若年寄大坂城代になったため移封
1734〜1740 天領
1740〜1746 太田資俊 5万石 遠州掛川に移封
1746〜1836 松平武元 5万4000石 奥州棚倉より移封。1769年に6万1000石
松平武寛 6万1000石
松平斉厚 石見浜田に移封
1836〜1845 井上正春 6万石 奥州棚倉より移封。遠州浜松へ移封
1845〜1871 秋元志朝 6万石 出羽山形より移封
秋元礼朝 7万石 廃藩置県
流通科学大の2つの説は
  1. 上州館林から石見浜田に移封となった時に手放した
  2. 石見浜田でも保持し1842年に手放した
b.の説を中心に検討したいのですが、
    松平右近将監家(1746〜1842年、当初は上州館林藩、1835年から石州浜田藩
松平右近将監家とは越智松平氏の事ですが、まず1835年に石見浜田藩は間違いです。石見浜田藩は1836年に竹島事件を引き起こし同年に奥州棚倉に移封となっています。その後に越智松平氏が移ります。これは軽い誤記だと見ます。でもって三木が石見浜田藩領主時代があった他の傍証としてつまり石見浜田に移封時に手放してしまうと浜田藩時代が成立しない、もしくはあっても短期であった事になってしまいます。そこで越智松平氏が石見浜田藩移封時に石高調整の時に必要としたか否かを見てみます。竹島事件時の石見浜田藩は5万5400石。移封した斉厚は6万1000石。5600石の調整が移封時に必要であり、たまたまかもしれませんが、黒田氏が支配していたと5000石とほぼ一致します。これだけでは断言はできませんが、やはり石見浜田藩時代はあったと見ます。それでも6年ほどですけどね。一応まとめておきます。
三木陣屋統治者の変遷
西暦 元号 エピソード
1621 (元和7) 明石城落成時に三木郡は天領明石藩領に分割され幕府陣屋が設けられる
1707 (宝永4) 常陸下館藩主黒田直邦に三木を加増(5000石と推測)
1746 享保13) 松平武元が奥州棚倉藩から上州館林藩に移封時に三木を所領の替地としてもらう
1836 天保7) 上州館林藩主松平斉厚が上州館林藩から石見浜田藩に移封時に三木は残る
1842 天保13) 明石藩主松平斉宣が2万石の加増時に三木をもらう
1871 (明治4) 廃藩置県
表では上州館林藩の領主は1746年としております。それにしても思ったのは親藩譜代大名の国替えが頻繁である事です。すべてがそうではないですが、どうも譜代大名は幕閣での地位と所領が連動している部分があるようです。上州館林藩はそういう意味でどうも格が高そうな藩であり、奥州棚倉藩は格が低い藩ぐらいの理解で良いようです。ちょっと不思議なのは松平武元で家督相続直後に奥州棚倉藩に左遷されています。理由としては「日光社参に過失あり」だそうですが、これは取ってつけた様な理由と今でもされているようです。だってまだ家督を継いだばかりでなんにもしていません。

憶測ですが越智松平氏は将軍綱吉の弟の綱重の次男から始まり、綱吉の晩年にお手盛りのように加増されて上州館林藩主になっています。綱吉の後の「家宣−家継」の時代はある種のアンチ綱吉時代であるとも言え、実力者であった新井白石一派と折り合いが悪くなっていたんじゃなかろうかです。松平武元が家督を継ぎ奥州棚倉に左遷されたのはちょうど家継の時代ですからありそうなお話です。まあ館林なんてところに藩主としているのは目障りで仕方がなかったぐらいでの処分に見えます。

そうそう越智松平氏から三木陣屋を引き継いだ明石藩主松平斉宣も将軍家斉の息子ですが、越智松平氏の松平斉厚もまた家斉の息子です。26人も息子がいると親藩は総ざらえで家斉の息子が殿様になっていた気がします。でもって江戸城内で顔合わせするんでしょうねぇ。なんとなくおかしみを誘われた次第です。


高木陣屋

陣屋ついでに三木には江戸期に高木陣屋と言うのもありました。これが複雑な経緯の成立です。一柳家は戦国期の一柳直末の末裔ですが江戸期に3つの大名家として成立したようです。wikipediaより、

一柳直末・一柳直盛兄弟が豊臣秀吉に仕え、兄の直末は美濃国の軽海西城主となったが天正18年(1590年)小田原征伐のときに、緒戦の山中城攻めで戦死した。弟の直盛は尾張国(今の愛知県西部)黒田城3万石の領主となり、関ヶ原の戦いでは東軍に属して伊勢国三重県)神戸藩5万石に加増転封された。更に寛永13年(1636年)には伊予国西条藩6万8600石に移転したが同年死没した。彼の遺領は直重・直家・直頼の3人の息子たちによって分割された。

長男の直重が西条藩3万石を相続して2代藩主となったが、その子直興の代に勤仕怠慢の理由により除封された。

次男直家は播磨国兵庫県加東郡及び伊予宇摩郡・周布郡に2万8600石を領し、小野藩初代藩主となった。しかし直家の死後は末期養子が認められず1万石に減封され、幕末に至った。歴代藩主は対馬守や土佐守などに叙任され、明治17年1884年)一柳末徳が子爵となった。

3男直頼は伊予国周布郡・新居郡に1万石を領し、小松藩初代藩主となりそのまま幕末に至った。

ややこしいのですがまず一柳直末・直盛兄弟は秀吉に仕えていましたが兄の直末は小田原攻めの時に戦死しています。家は弟の直盛が継ぎ関ヶ原では東軍に味方して伊予西条6万8000石になったようです。でもって理由が良くわからないですが直盛の子の代に家が3分割されます。

ところが伊予西条3万石は直重の子の直興の時に勤仕怠慢でお取り潰し、播州小野2万8000石は直家の時に末期養子で1万石に減封となっています。ここでwikipediaには記載されていませんが、長男の家がなんらかの理由で復活したそうです。これが三木の高木に5250石。この家はwikipediaによると、

美嚢郡高木(現・三木市別所町高木)の一柳氏は、伊予西条藩主家が改易となり、のち許されて旗本として取り立てられるにあたり、高木を中心とした村々に知行を与えられた。

家柄的には一柳氏の宗家格になるのでしょうが、これが宝永元年 (1704)となっています。次男や三男の家の半分ぐらいの規模で明治まで続いています。正直なところ今までまったく知りませんでした。旗本ですから江戸在府(菩提寺は江戸の金地院)だったでしょうが所領管理のために陣屋を設けたぐらいでしょうか。陣屋は高木の豊城根神社の周辺にあったとされますが、近くにある朝日神社は特定できても豊城根神社はどこか判りませんでした。高木陣屋の一柳氏の歴史的なエピソードは本要寺のHPにあり、

あの西郷隆盛も本要寺に寄っている。京へ上る途中の隆盛ら薩摩の官軍は、本要寺で一服して、高木の一柳藩に陣屋を貸してほしいと使者を出す。家老が断ったので、より抜きのもの数人で再談判させたところ、驚いた家老が丸坊主になって謝罪したというのである。

西郷隆盛が官軍を率いて三木で一服??? 三木をどこかの官軍が通過してもおかしいとは思いませんが、その大将に西郷隆盛がいたのは話をかなり盛っている気がします。それでも、そういう伝承が三木に残っているようです。とにもかくにも江戸期の三木には、

領主 石高 備考
明石藩 1万石 1751年の記録より。
譜代・親藩飛び地 5000石 常陸下館藩の加増記録
旗本領 5250石 高木の一柳氏
天領 1万8000石 残った分の引き算
1842年に明石藩主松平斉宣の2万石の加増時にどうなったかが不明なのですが、私の推測としては石見浜田藩主越智松平氏の5000石が移動しただけの気がしないでもありません。ただ廃藩置県時の明石藩領はwikipediaより、

播磨国

    美嚢郡のうち - 81村
    明石郡のうち - 145村
美作国
    吉野郡のうち - 44村

村の数だけで言えば明石郡の半分ぐらいが美嚢郡(三木郡)になります。ここで仮に明石郡が5万石とすれば三木郡は2万5000石になり美作が5000石で計8万石の計算になってしまいます。2万石加増前の明石藩の三木郡内の領地が1万石とすれば1万5000石ぐらいが必要になってしまいます。これ以上のムックは私の手では無理です。そうそう最後にまた三木郡に領地を持つ藩まで見つけてしました。遠州浜松藩廃藩置県時の領土の一部をwikipediaから、

美嚢郡のうち - 7村

遠州浜松藩もまた変遷が激しい藩で追っかけるのはあきらめました。


三木町の人口

三木市有宝蔵文書には、

また、史料63寛保2年(1742)の「三木町諸色明細帳控」(59ページ)によると、三木町居屋敷は、拾四町八反八畝拾八歩が拾か町の赦免地であり、この拾か町(大塚町、芝町、平山町、東条町、滑原町、新町、上町、中町、明石町、下町)の家数が514軒であることが記されている

宝暦2年の絵図の10年ぐらい前のお話ですが宝暦2年の絵図でも数えてみると500軒ぐらいでした。500軒の人口はとなるのですが、1軒につき5人平均としても2500人ぐらいです。もう少しデータが欲しいのですが上智大学史学会第五十二大会講演要旨「まちの記憶の比較史」によれば

播州三木町は一八〇〇年時点で九〇〇戸・三八〇〇人と言う戸口規模

1800年と言えば三木町諸色明細帳控による514軒の記録より50年ぐらい後のものです。戸数にして倍ぐらいに増加している事になります。またここから逆算すると514軒なら1700人ぐらいになります。50年ですから三木町の住人が産めよ増やせよのベビーラッシュで増やしたとも考えにくいところです。考えられるとすれば他所からの流入です。他にはないかと探してみると流通科学大学論集―流通・経営編―第24巻第1号,167-189(2011)「近世近代移行期における播州三木町の通貨構造に、

人口は近世後期において4千人弱であった

どちらも上智大も流通科学大も同じ資料を基にしていると考えますが3800人はいたと見て良さそうです。


三木の金物産業

言わずと知れた三木の地場産業ですが、伝承では三木落城後の戦後復興時に多くの大工が集まり、大工相手に大工道具を生産し始めた頃から起こったとなっています。私もそう信じていました。まず三木落城が1580年です。その後の三木の鍛冶屋の記録を三木金物歴史年表解説から鍛冶屋の軒数にしぼって抜き出してみます。

経緯
1580 三木落城
1679 野道具鍛冶など日用品を作る鍛冶屋しかいなかったと思われます
1742 鍛冶屋は十二軒で野鍛冶が八軒、銑鍛冶が一軒あった。あと三軒が何鍛冶か分かりません
1763 前挽屋五郎衛門と大坂屋権右衛門と共に京都前挽鍛冶仲間に入り三軒が三木で前挽鍛冶を始めた
1783 三木町の鋸鍛冶七軒が大坂文殊四郎鍛冶仲間へ加入し、他の三木の鋸鍛冶は七軒の下株になった
1792 この頃三十九軒の鋸鍛冶がいた
1815 前挽鍛冶三軒・庖丁鍛冶二十軒・鋸鍛冶六十一軒・やすり鍛冶八軒は分かります。次の項目の内剃刀鍛冶が六軒で鉋鍛冶が中庄と藤佐だろう
1828 曲尺地二十軒・曲尺目切鍛冶十六軒・鉋鍛冶は藤や金蔵・同治兵衛・東這田吉右衛門・前田弥三吉・来住や亦兵衛の五軒。鑿鍛冶は来住や伊兵衛・中屋国松・紅粉や善吉・一文字や五郎兵衛・綿屋国松・かりこ町兵蔵の六軒の鍛冶屋名が載っています
まだまだ続くのですがおそらく最盛期は

1828年 昭和三年 鍛冶屋の軒数が多くなる

 この頃工業関係業者が集まった美嚢郡工業懇談会という組織がありその名簿によると鋸鍛冶二百三軒・高級鋸のスタル鍛冶が三十一軒・特製鋸鍛冶が二十二軒で合計二百五十六軒の鋸鍛冶がいました。鑿鍛冶は大鑿鍛冶が七十六軒・小鑿鍛冶が九十五軒で合計百七十一軒です。鉋鍛冶は六十八軒いました。玉鋼で鋸を作る鍛冶屋がまだ宮野鉄之助と五百蔵安兵衛と二人いました。この年以降厳しい不景気になって行き鍛冶屋の軒数も減って行きます。

つまりと言うほどではありませんが、三木落城後200年ぐらいは金物産業の気配さえ無かった事になります。発展を見せ始めたのは江戸も後期に入ってからになります。この隆盛は世界恐慌前ぐらいをピークに続いていたと見て良さそうです。これもまた今から200年ぐらい前です。それと私の感覚で言えば三木と言えば鉋なんですが、主力は鋸と包丁だったようです。もちろん金物産業の発展によって鑿や鏝、さらには明治期からはスコップなんてのも作っていますが、なんとなく案外で個人的には驚きました。

でもっとお気づきになられたと思いますが、三木の金物産業は1742年時点ぐらいでは産業と言えるほどの規模は無く地元の需要に応じていたぐらいで良さそうです。そこから1765年に最初の金物問屋が成立し、1792年にはこれが5件まで増え三木金物仲買問屋仲間が成立するほどになっています。金物産業がドンドン上り坂に向かっていったと取って良さそうです。美嚢川(三木川)水運が始まった背景も金物産業に連動しているとして良さそうで、製品の搬出だけではなく原料である玉鋼の搬入にも舟運による輸送の需要が増していたぐらいでしょうか。これも1770年時点で最初に始めた時はまだ需要が少なくて挫折したものの、1773年に再挑戦した時には軌道に乗っています。たった3年の差ですが産業の発展速度がそれだけ急速度であった傍証かもしれません。


三木の金物問屋の実力

これも流通科学大学論文にあったものです。三木最古の金物問屋である作屋(黒田)清右衛門は1765年創業となっていますから250年ぐらいの歴史を誇る三木の代表的な金物問屋です。地元の人間には見慣れ過ぎた風景ですが、

明治43年頃の黒田清右衛門商店 現在の黒田清右衛門商店
この店の江戸期の純資産の推移についてまとめられているのでご紹介しておきます。
最後の記録が1858年(安政5年)なんですが純資産が銀1583貫3971匁となっています。これは金貨に換算すると約3万両ぐらいってところでしょうか。一方で最初の記録の1793年(寛政5年)の純資産は銀29貫755匁です。この1793年頃の金物問屋の様子を簡単に年表にすると、
事柄
1763 道具屋善七開業(1軒目)
1765 作屋清右衛門開業(2軒目)
1792 道具屋善七、作屋清右衛門、紅粉屋源兵衛、今福屋善四朗、嶋屋吉右衛門の5軒で金物問屋仲間結成
金物産業の隆盛に伴い金物問屋が5軒まで増え金物問屋仲間が結成された頃になります。その当時の作屋の純資産が銀30貫ぐらいあったと見れます。そこから60年ほどで純資産は50倍ほどに膨れ上がっています。金物問屋が儲かると言うことは金物の売り上げが増えているのとニア・イコールと考えられますから、1800年頃から較べても三木の金物産業は50年ほどで急成長を遂げていたと見れます。金物問屋の数は1897年(明治30年)に16軒、1911年(明治44年)に44軒に増えたと記録されています。

三木の金物産業の始まりは今日紹介した説の他にも「もっと以前からあった」もあるのですが、産業規模が小さいうちは金物問屋自体が成立しないと考えます。初めて出来たのが1763年ですからやはりそれ以前は微々たるものであったと考えるのが妥当でしょう。また1800年頃に三木町の人口が900戸・3800人の記録がありますが、金物産業の発展に伴う人口増加と考えると1800年時点でも「たいした事はなかった」の見方も出来そうに考えます。1800年から50〜100年ぐらいの間に大飛躍を遂げたんじゃなかろうかの推測もまた成立すると考えます。


まとめみたいなもの

1580年の三木落城後に秀吉が三木の復興を図ったのは間違いありません。伝説では復興のために多くの大工が集まり、その大工相手に鍛冶屋が多く生まれ、そこから今に続く金物産業が起こったぐらいのお話です。たしかに大工は多く集まったようです。三木金物歴史年表から引用しますが、

1742年 寛保二年 諸式明細帳

 この年の三木町諸色明細帳が残っています。人口や職種などを調べたもので大工百四十軒が一番多く、樽屋が四十八軒と続き木挽二十八軒も他所稼ぎで普段は三木に居なかったようだ。紺屋が二十六軒あり形屋が十六軒も紺屋の染め形を作っていたので染め屋関係は多かった。 鍛冶屋は十二軒で野鍛冶が八軒、銑鍛冶が一軒あった。あと三軒が何鍛冶か分かりません。

どうも三木復興需要で集まった大工は三木にそのまま定住した者が多かったようです。秀吉の地子免許の威力でしょうか。もちろん1742年の時点で三木にそんな大工需要がある訳ないので出稼ぎが主体であったの考察に首肯します。しかしそんな大工相手の金物産業が起こっている様子はどうみても窺えません。どうも秀吉の復興政策の効果は大工が集まり定着し、その大工相手の金物以外の産業による町だったぐらいです。規模は500軒、2000人弱ぐらいでしょうか。

1700年代の半ば頃から突然と言う感じで金物産業が興りかけるのですが理由は不明です。あえてその原因を考えるとその頃から三木町の領主が黒田家から上州館林藩に代わっています。三木を飛び地として手に入れた松平武元の施策が関係あるかどうかです。時期としては連動しますが地元出身者としては思いっきり否定的です。つうのも何の口碑も残っていないからです。それ以前に三木町が上州館林藩の支配地であった事自体が余程の歴史好きでない限り知られていません。私も恥ずかしながら今回のムックまで知らなかったぐらいです。三木には常陸下館藩は愚か、上州館林藩の痕跡など何一つ残っていないとして良いからです。

三木の金物産業が大きくなったのは江戸期も後期、それも1800年代の半ばぐらいからと判断して良さそうです。なぜに金物産業が突如興ったのかについて説明している解説についに出会えなかったのを今回のムックの最大の遺憾とさせて頂きます。



・・・ここまでローカルなお話を辛抱強く付き合われた方に感謝します。