源為義考

あっさり「おさらい」程度で済まそうと思いましたが、頼朝の立ち位置を考えるともう少し範囲を広げてのムックが必要そうなので再考察です。


源氏の勢力範囲

経基から国司に任じられた国を一覧表にしてみます。

名前 受領国
経基 武蔵・信濃筑前・但馬・伊予
満仲 武蔵・摂津・越後・越前・伊予・陸奥
頼信 上野・常陸・石見・伊勢・甲斐・美濃・相模・河内
頼義 相模・陸奥・伊予
義家は出羽守に任じられた事は判るのですが、後三年の役の後は逼塞状態になり受領にはなっていないようです。受領国を列挙したのは当時の財産づくりのポイントが受領を歴任する事であったからです。単純化すれば受領になって自分の荘園を作るぐらいでも良いと思います。とりあえずwikipediaから拾えるのはこんなものでした。


義家

頼信・頼義・義家は河内源氏三代と言われ、その中でも義家が最も傑出しているとするのが定説です。ある意味伝説化・神格化しています。たしかに後三年の役の立役者なのですが、武人としてはともかく河内源氏の棟梁としてはどうなんだろうの疑問が少々あります。院と摂関家の争いに巻き込まれたの見方も出来ますが、結局のところ後三年の役で義家が河内源氏にもたらしたものは、

  1. 私戦と認定されたため、戦費に使った税金の支払いの発生
  2. 滞納分の税金の支払いのため10年の河内逼塞
  3. 頼義時代から2度の奥州戦役を行いながら、真の目的であった陸奥への勢力拡大の失敗
どうも卓越した戦術家であっても、戦略家としての能力はどうだったんだろうと思っています。義経ほど極端ではないですが、政治も含めた戦略面ではあまり芳しい成績の気がしません。後出しジャンケンみたいな評価になりますが、後三条時代も過ぎ、白河天皇になって9年目に「あえて」後三年の役を企てた情勢判断がチョットぐらいです。それでも当時から「名」は得ていた感じはありそうなので、義家までは源氏の嫡流の棟梁であったぐらいにはしても良いとは思います。


義親

前回のムックで軽く流した義親ですが、調べ直すとよく判らない事があります。義親は平家物語の冒頭部にも、

近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心もたけきことも、皆とりどりにこそありしかども、間近くは六波羅の入道前太政大臣朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝え承るこそ、心も詞も及ばれね。

当時の代表的な悪人として名を連ねています。wikipediaには

従五位下に叙せられ左兵衛尉、ついで対馬守に任じられるが、九州を横行して、人民を殺害し略奪を働いた。康和3年(1101年)に大宰大弐大江匡房から訴えがあったため、朝廷で追討が議される。父の義家は郎党・藤原資道を遣わして召喚を試みるが、資道は義親を説得できず逆に義親に従ってしまい官吏を殺害するに至った。

康和4年(1102年)、朝廷は義親を隠岐国へ配流とする。だが、義親は配所には赴かず、出雲国に渡って目代を殺害し、官物を奪取した。このため、いよいよ義家が自ら息子の追討へ赴かねばならない状況になったが、嘉承元年(1106年)に義家は死去した。

これだけの事をやっているので義親の子孫も逼塞したぐらいに思い込んでいました。ところがなんですが、

名前 長幼 通称 官職
義信 長男 対馬太郎 従四位下左兵衛佐
義俊 次男 対馬次郎 右馬允
義泰 三男 対馬三郎 民部丞。伊予介
義行 四男 対馬四郎 兵庫允。伊予介
宗清 五男 従五位下伊勢守。兵庫允
為義には義親の息子説がありますが、もしそうであれば四男にあたります。ちなみに為義の官職はwikipediaより、

従五位下、左衛門大尉、検非違使

大謀反人であるはずの義親の息子は為義と互角かそれ以上の出世をしていると素直に見れます。どうなってるんだってところです。為義と義親の息子は交友・協力関係はなかったようで、保元・平時の乱から源平合戦に至るまで全く参加せず、京都での官界生活に励んでいたとされます。義親の家系はこうやって残りましたが、以後に傑出した人材は生まれず土着していったぐらいの見方で良いようです。ここで前に出した系図を再掲しますが、

公式には為義は義家の五男になります。ちょっと系図の順が間違ってまして、義家の三男が義忠で、四男が義国になります。義宗は早世しているために嫡子は義親であったと見て良いかと思います。ここも年表を出しておきますが、

西暦 義親 義家年齢 為義年齢
1101 乱暴狼藉が告発される 62 5
1102 隠岐への遠流が決定 63 6
1106 67 10
1108 平正盛に討ち取られる 12
あくまでも推測ですが義親が対馬守に任じられた時点で家督も譲られていたんじゃないかと思っています。だって義家は既に60歳になっているので、隠居していても不思議はないところです。公式の謀反人になったので家督相続を取り消したかどうかですが、これが実はよくわかりません。だって義親の息子はちゃんと出世しているわけです。もっと判らないのは義親が反乱を起こした時に義親の息子たちはどこにいたのかです。当時の慣習として成人前なら母方の実家、元服後なら河内の義家の館が考えられます。義親の任地について行ってたら、さすがにタタでは済まないでしょう。


為義って誰なんだ?

父の義親が反乱を起こした時は5歳です。為義の母も不明なんですが、この歳なら母方の実家で養育中と見たいところです。為義の河内源氏でのポジションなんですが、wikipediaより、

尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる。

どうにも嘘くさい気がしないでもありません。義親が謀反人になったので継嗣を三男の義忠にしたのは自然ですが、なぜに義忠の後継が為義なんだになります。百歩譲って義親の血脈を後継にしたいとしても、為義は義親の四男です。ここもまた何故に為義なんだになります。義親の謀反騒ぎは晩年の義家の頭痛のタネであったわけで、わざわざ義親の息子、それも四男を後継に並べるとは考えられないからです。あえて考えると為義の母方の実家が余程の有力者であったぐらいはありますが、史実としては母は不詳です。

これは説なんですが義親の息子は対馬太郎から対馬四郎までの呼び名のあるものと、それ以外の為義、宗清がいます。これを母系の違いではないかとしています。この説では対馬兄弟を正室、残り二人を側室と解釈していますが、個人的には逆の可能性はあるかもしれないと見ます。逆なら為義は義親の正室の長子になります。もう少し考えると宗清も側室出の庶流で、為義だけが正室嫡流であった可能性です。それぐらいの血筋がないと尊卑分脈の説は無理がありすぎる気がします。つまり義親は謀反騒ぎで廃嫡にするが、正系の為義にはいずれ家を継いでもうらうぐらいの考え方です。


こじつければ、これぐらいの理由は出来ますが違和感バリバリです。つうのも義家が四男の義国に対して行った処置があります。wikipediaより、

  • 長兄義宗が早世し、次兄義親が西国で反乱を起こすと、三兄の義忠とともに次期「源氏の棟梁」としての期待を受けた。しかし、乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。
  • 都で問題を起こし、坂東へ追放。兄義親の死後、源氏の棟梁後継であったがその地位を失う。

義国って人も新田・足利の祖であるぐらいしか知らなかった人ですが、義親と似たようなタイプの人間に見えます。坂東への追放と言っても

源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家上野国八幡荘を相続した

おそらく河内本家から追放し、上野で分家でいろぐらいの処置だと推測しています。とりあえず河内本家から追放されたぐらいで良いかと思うのですが、追放されても意気軒昂でwikipediaより、

嘉承元年(1106年)、叔父源義光・従兄弟源義業常陸国において合戦する。いわゆる「常陸合戦」。その結果、義国は勅勘を蒙り、父義家に捕縛命令が下りる。また、義光及びその与党の平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。

1106年と言えば義家が死んだ年になりますから、67歳の義家に西は義親を捕まえろと命じられ、東は義国を捕まえろと命じられていた事になります。ここでのポイントは義国を後継レースから外す処置を行った義家が、義親の息子への後継に、そこまでのこだわりを見せるだろうかなんです。


義忠暗殺事件から考える

義家の跡を継いだ義忠は1109年に暗殺されます。これは義家の弟である義光の陰謀であったとされます。この義忠暗殺時での河内本家の状況ですが、

  1. 次男義親は1108年に公式には討ち取られている
  2. 四男義国は関東に追放され、本家の人間ではなくなっている
  3. 暗殺された義忠の息子は元服前(推定9歳)
  4. 公式には五男の為義は13歳。為義の弟は元服前と考えるのが自然。
義忠暗殺された時点で成人となっている継承資格者が為義しかいなかった(除く為義以外の義親の兄弟)と考えられそうです。為義だって元服したばかりと思われますが、為義より年長者が枯渇していたと見ても良さそうです。この為義が行ったのが、義綱成敗です。これは義光が後ろ盾になって行われたとして良さそうです。義光の陰謀はやがて発覚します。結果としては河内源氏は、
  1. 義家の弟の義綱家は滅亡
  2. 義家の弟の義光は常陸に逼塞
本家を支えるはずの有力な2家を失った事になります(義光系は生き残り武田氏、佐竹氏として残る)。つうか元服したての為義だけが河内本家にポツネンと残されたとしても良さそうです。これは「たぶん」ですが、義忠を暗殺し、陰謀を巡らした義光への復讐を武家として為義は求められたと思います。しかし当時の為義の力量では遥々常陸にまで復讐戦を行うことは出来なかったと見ています。事情は「しゃ〜ない」ですが、一方で武家の棟梁としては「頼りない」と見られてしまった可能性はありそうです。

ちょっと余談ですが義光は兄の義家が八幡太郎と呼ばれたように、新羅三郎と呼ばれています。信玄関係の時代劇で武田家の家系を誇る時に「新羅三郎義光の・・・」で出てくる奴です。余程素晴らしい武将であったと勝手に思い込んでいましたが、兄の家を弱体化させ、源氏の棟梁の座を狙う陰謀を巡らし、なおかつ失敗していたのを初めて知りました。その辺の家系伝説を戦国武田家あたりはどう取り扱っていたかは興味の出るところです。