義朝研究の続きです。まずは年表を、
西暦 | 事歴 | 年齢 | 補足 |
1123 | 出生。母は院近臣の藤原忠清の娘 | 0 | * |
1136 | 為義、左衛門少尉検非違使退官 | 13 | * |
1141 | 長男義平出生。母は三浦氏 | 18 | * |
1143 | 次男朝長出生。母は波多野氏 相馬御厨介入 |
20 | * |
1144 | 大庭御厨濫行 | 21 | この後に武蔵進出から義国との緊張関係が生まれ、河内経国の奔走で和解。以後同盟関係に近くなる。 |
1147 | 三男頼朝出生。母は藤原季範の娘 | 24 | 由良御前との婚姻は1145〜1146年に行われた事になります |
1153 | 従五位下 下野守 | 31 | 由良御前と婚姻はその力を院が認め取り込もうとした結果の一つと見ます。もう一つ言えるのは既に京都に進出拠点を持っていたと見れます。 |
1154 | 右馬助兼任 | 32 | |
1155 | 大蔵合戦 | 33 | この時点で藤原信頼と関係を持っていた |
1156 | 保元の乱 | 34 | * |
長男の義平に東国を任せて都へ戻った義朝は、久安3年(1147年)に正室で熱田大宮司の娘・由良御前との間に嫡男(3男)の頼朝をもうける。
大庭御厨事件が1144年ですから、由良御前との婚姻は1145〜1146年に行われている事になります。大庭御厨事件から由良御前との婚姻の間に何があったかと言うと、義朝勢力が武蔵に伸びた事による義国との緊張関係の発生です。これへの義朝の反応は和睦から連携になります。河内経国が両者の間を奔走した「らしい」とはなっていますが、義朝が和睦に同意したのは明らかな京都志向があったと見るのが良さそうな気がします。つうか義国との連携が出来た事により関東は安定したとの判断で京都に向ったとする方が妥当な気がします。
そうなると義朝の相模時代は1144年から1年から2年の間だけになります。相馬御厨事件の時から数えても2〜3年です。えらい短期間である事がわかります。ただwikipediaの記事も首をかしげるところはあって、義平は1141年の生れです。1147年に義平に東国を任せると言ってもまだ6歳なんです。いくらなんでも無理がありそうな気がします。京都政界に進出するために由良御前と婚姻したのは間違いないと思いますし、そのために京都に屋敷を設けたとも思いますが、京都に移住してしまったのは違う気がします。
あんまり良い喩えではないかもしれませんが、京都進出のための出先機関を設け、相模と京都を往復するような体制であった気がします。ある種の参勤交代みたいなものです。あんまりは良く知らないのですが、無位無官の義朝が猟官活動をするとは具体的に
- 有力者の家に御機嫌伺いを行う
- 有力者に付け届けをしっかり行う
- 有力者の家の雑用を進んで行う
保元元年(1156年)の保元の乱で義朝に従った。 保元3年(1158年)4月、義朝と不和となり京を去って所領の波多野郷に居住した。 この頃、義朝の三男で正室所生の頼朝が、兄である朝長の官位を越え、義朝の嫡男となっており、この嫡男の地位を廻る問題が不和の原因と考えられている(元木泰雄『保元・平治の乱を読みなおす』)。
義朝の妻は三浦氏(長男義平)、波多野氏(次男朝長)、由良御前(三男頼朝)と関東時代にいます。家格で言えば由良御前が上にはなるのでしょうが、少なくとも波多野氏は由良御前を正室扱いにして義平、朝長を庶子扱いにする待遇に不満を持っていたと見れそうです。逆に言えば義朝は由良御前(藤原季範)との姻戚関係を非常に重視していたとして良さそうです。そういう目で見ると官位・官職を得ると言うのがいかに大変かがわかります。仮に由良御前との婚姻が1146年とし、そこから猟官活動を行ったとしたら7年かかった事になります。後半になるほど京都在住の比重が増え、下野守に叙任された頃は京都に殆ど住んでいたと考えて良い気がします。義朝の活躍をまとま直しておきます。
時期 | 年齢 | 西暦 | 活躍場所 | 期間 |
第1期 | 15〜20歳 | 1138〜1143 | 上総時代 | 6年間 |
第2期 | 21〜22歳 | 1144〜1145 | 相模時代 | 2年間 |
第3期 | 23〜29歳 | 1146〜1152 | 猟官時代 | 7年間 |
第4期 | 30歳〜 | 1153〜 | 京都時代 | * |
当時の猟官事情に疎いのでなんとも言えず、7年ぐらいかかるものなのかもしれませんが、義朝が得た官職はかなり高位と見て良い気がします。官職もランクはあるのですが、従五位下が一つの目安であると思っています。従五位下に叙任されて殿上人になれる必要条件を満たします(六位蔵人の例外もあり)。従五位下にもどうやらランクがありそうで、ごく単純には、
- 受領でない者
- 受領である者
- 殿上人である者
大蔵合戦の原因は為義が義賢を関東に派遣した事から始まります。派遣時期もはっきりしないのですが、義朝が下野守になった1153年がポイントの気がします。この時点で為義は官職でも義朝の下になった訳です。さらに1154年には右馬助も兼任しています。それと北関東の源氏を代表する義国は1154年に出家し、1155年に亡くなっています。あくまでも推測ですが義国は1154年頃には健康を害して本当の意味の隠居状態であった可能性はあると見ます。義国の影響力が低下すれば義国の長男義重と次男義康に北関東の源氏は分裂する事になります。
為義はその機会を狙って義賢を関東に派遣したと見ています。院の与党である義朝対策は摂関家の意向もあったと思いますが、京都で存在感を増し、自分を凌ぐ勢いが出てきている義朝への牽制の意図もあったと見ます。義賢が関東、とくに北関東の義国系勢力を急襲すれば、義国時代には回避された源氏南北戦争が勃発します。全面戦争に至らなくとも、緊張状態からの小競り合いが頻発すれば義朝も京都で出世運動なんてやってられなくなります。つまりと言うほどではありませんが、為義も義朝を相当意識して動いた可能性はあると思っています。
毎度の事ながら寄り道が多かったのですが、義朝の関東での活躍は
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大庭御厨濫行