義朝研究4

義朝研究と言うよりも保元の乱以前の関東の勢力図のムックです。ほいでも判ったのは「だいたいこんな感じ」レベルに留まった事を遺憾とさせて頂きます。なによりのネックは関東の土地勘に暗い事で、こればかりは致し方ありません。でもってまずは相模です。


相模にいた主な豪族

ここはまず大庭氏が大きかったようです。大庭氏は鎌倉権五朗景正の末裔とされ大庭御厨を領しています。大庭御厨の規模はwikipediaより、

大庭御厨の境界は、東は俣野川(藤沢市境川)、西は神郷(寒川)、南は海、北は大牧崎だった。田地の面積は、久安元年(1145年)で95町、鎌倉時代末期には150町に達した。

地図で確認すると境川とは江の島に付近に流れ込む川であり、寒川とは茅ヶ崎と平塚の間の相模川にあたるようです。

この大庭氏の西側には波多野氏の勢力も大きかったようです。波多野氏の本拠は現在の秦野市となっておりwikipediaより、

秦野盆地一帯に勢力を張り、河村郷・松田郷・大友郷などの郷に一族を配した。

河村郷・松田郷・大友郷と言われても現在の地図上で確認するのも大変なんですが、松田と大友は酒匂川流域にありますから、秦野市から酒匂川流域に勢力を持つ一族であったんだろうと見て良さそうです。

中村氏と言うのも有力な勢力だったようなのですがwikipediaより

平宗平は相模国余綾郡中村荘(現・小田原市中村原、中井町中村付近)に因んで中村荘司と称した。中村氏の実質的な始まりだが、一族も発展することとなる。

これも関東を知らない人間には厄介な特定でしたが、秦野市の南方の海岸線沿いにあたるようです。大雑把には大庭氏の西側(相模川以西)は山側が波多野氏、海側が中村氏ぐらいの理解でそんなに間違っていないと思います。さて大庭氏の東側(境川以東)は鎌倉と三浦半島になります。鎌倉は頼信以来の河内源氏の伝領と簡単に見て、最後に三浦半島は三浦氏です。


豪族間の関係

はっはっはっ、ここまででも十分息が切れそうになるのですが、西から波多野氏、中村氏、大庭氏、三浦氏と勢力のある集団がある事が確認できます。後世なら何万石とかで大小を比較しやすいのですが素直に見て大庭氏が一番良いところを占めている気がします。最大勢力であった気がします。この大庭氏と中村氏の関係は伝統的に良くなかったそうです。wikipediaより、

中村宗平は父が鎌倉権五郎景政に討たれた所以か、鎌倉党を敵対勢力と見做していた様で、天養元年(1144年)の源義朝の大庭御厨乱入事件に積極的に参加している。

頼朝が挙兵した時の中核勢力が中村氏であったみたいです。大庭氏と中村氏の仲が宜しくなかったのは確認できましたが、他の波多野氏、三浦氏との関係は不明です。断片的な情報だけあげておくと、

  1. 大庭御厨濫行の時には三浦氏も加担している
  2. 義朝は三浦氏・波多野氏の娘を娶っている
  3. 中村氏と三浦氏は姻戚関係がある
  4. 河内源氏との関係


    • 大庭氏の祖である鎌倉権五朗景正は頼義の郎党であった
    • 波多野氏の祖である佐伯経範は前九年の役で頼義と一緒に戦っている
    • 三浦氏は前九年の役の功績で頼義から三浦の地をもらった伝承がある
こんだけの情報で断定するのは無理があるのですが、当時の相模の情勢は
    大庭氏 vs その他
こういう状況があった気がします。地形図で示すと、

これまた想像に過ぎないのですが、相模の中央部には相模川が作った平野部があります。開墾するならココなんですが、どうも相模川の西側は開墾しにくい事情があった気がしています。そのために波多野氏は北側の盆地を本拠に据え、中村氏も丘陵地帯の隙間みたいな平地を根拠にしていたんじゃないかと思います。相模にはもう一つ酒匂川流域の平野もありますが、こちらも開墾は容易でなかったぐらいの事情を想像します。一方で大庭氏がいる相模川から境川の地域は比較的開墾がやりやすかったんじゃなかろうかです。つまり大庭氏の周囲の豪族は大庭氏の領有する地域に進出したくてしようがないぐらいです。

そこに義朝が鎌倉に乗り込んできます。この鎌倉の所有権ですが平忠常の乱の時に頼信が平直方に譲られたとなっています。その後は河内源氏の伝領だったぐらいで良さそうなのですが、義朝の東国下向の時に為義が義朝に与えていたかどうかです。これがどこにも書いてないのです。義朝が安房の丸御厨を与えられたのは吾妻鏡

治承四年(1180)九月大十一日庚申。武衛巡見安房國丸御厨給。丸五郎信俊爲案内者候御共。當所者。御曩祖豫州禪門〔頼義〕平東夷給之昔。最初朝恩也。左典厩〔義朝〕令請廷尉禪門〔爲義〕御讓給之時。又最初之地也。

こうなっているので確実なんですが鎌倉がどうであったかは不明です。押領だった気がなんとなくするのですが確認は無理そうです。


大庭御厨事件

天養記より、

その四至と云うは、東は玉輪庄堺俣野川、南は海、西は神郷堺、北は大牧埼てへり。その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。その旨を訴え申すの処に、本宮の解状、祭主の奏状すでにをはんぬ。而る間同十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。

義朝が大庭御厨について難癖を付けたのは大庭御厨のうち鵠沼郷であった事がわかります。鵠沼郷とは境川から引地川の間にあたる地域なり、現在でも鵠沼の地名は残っています。難癖の理由は、

なんとなくに過ぎませんが、鵠沼郷とはその名の通り頼信が鎌倉をもらった時には沼地と言うか湿地帯であった可能性があります。そういう湿地帯が大庭氏との境界地帯になっていたぐらいです。その後に大庭氏は鵠沼の開墾を進め境川まで農地を広げ、鎌倉との境界を境川にしたぐらいを想像します。これに対して義朝は
    鵠沼は鎌倉の物であり、ここに不法に大庭氏が侵入したものである」
こういう難癖で襲撃を行ったぐらいの構図でしょうか。天養記の記述も判りにくいところがあって在庁官人の表現が出て来ます。在庁官人とは簡単には現地採用の役人ぐらいの意味で、地元の有力豪族ぐらいと考えたら良いようです。庁官も同じ意味です。そこはわるのですが
    田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘
頼清は目代ですから在庁官人で良いとは思います。義朝は無位無官ですから非在庁官人で良いと思います。ほいじゃ三浦庄司平吉次と男同吉明はどうなるんだです。「吉次 = 義継」であり「吉明 = 義明」のはずでどちらかが三浦介を名乗る在庁官人じゃなかったっけってところです。気にはなりますがこれ以上はわからないので置いておきます。


大庭御厨事件で気になるのは相馬御厨事件からの期間の短さと規模の大きさです。相馬御厨事件が1143年、大庭御厨事件が1144年です。1年ぐらいしか間隔がありません。大庭御厨襲撃は2度あった事が確認できます。

    1回目:9月上旬
    2回目:10月21日
とくに2回目のものは大規模だったようで、そのまま鵠沼郷を武力占領してしまったように見えます。この襲撃に加担したのは三浦氏と中村氏です。とくに中村氏なんですが、地理的には義朝・三浦氏とは大庭御厨を挟んで離れており、一緒に襲撃するには海路で鎌倉なりに渡る必要があります。つまりは事前の打ち合わせ期間が必要と言う事です。またその前に目代である頼清の籠絡期間も必要です。そうなると義朝は上総から相模に渡った時点から大庭御厨襲撃計画をスタートさせていたことになります。こういうものは以前から大庭御厨を削りたい、大庭氏を叩きたいの気運が醸成されていないと難しいので、そういう構図が相模に既にあったと推測するところです。


大庭御厨事件の結果

大庭御厨襲撃事件に波多野氏の名前がありませんが、参加しなかったのか、襲撃軍を集めるのに中村氏の勢力圏を通り抜けた上で海路利用の必要があったので参加を見送ったのかは不明です。それでも義朝と姻戚関係があったので義朝方で良いと思います。中村氏、三浦氏はもちろん義朝方です。大庭氏も義朝に従っていますが、これは力での制圧ぐらいに理解して良さそうです。それでも大庭御厨事件一つで相模の有力勢力を一挙に傘下に収めてしまったと言って良さそうです。

余談ですが褒美はどうしたんだろうと思っています。そのまま義朝が取ってしまったら味方した他の勢力に不満が出るはずです。そうなれば鵠沼郷の地主権は味方した豪族が取り、義朝は領家的な権利を取ったのでしょうか。そこについてもムックできませんでした。それでもこれぐらいの知識があれば、平治の乱後に伊勢平氏に接近した大庭氏が勢力を盛り返し、頼朝挙兵時に中村氏、三浦氏が協力したのに対し、大庭氏が征伐側に回ったのも判りやすくなります。