シノブの恋:頼朝の移動ペース

 なんか歴女の血が燃え盛ってる。吾妻鏡には富士川の合戦の頼朝の所在地をかなり詳しく記録してるのよね。シノブもあの辺の土地勘ないから読んでる時はフムフムぐらいだったんだけど、実際に地図にプロットすると相当なもの。

 富士川の合戦に参加したのは平家軍と武田軍と頼朝軍だけど、この三軍の動きもかなりわかってるのよ。東海道を東に進む平家軍、中道往還を南下する武田軍、そして鎌倉から東海道を西に進む頼朝軍。

 頼朝軍が箱根を越えたルートは足柄道なのもわかってるけど、鎌倉から黄瀬川の移動速度がまず相当なものなの。だって十月十六日に鎌倉を出発して十月十八日の夜には黄瀬川に着いちゃってるんだもの。

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 これが地図での概算だけど百キロほどあるのよ。まあ二泊三日だから実質三日間の行程で一日三十キロ強ぐらいにはなるけど、途中には足柄峠だってあるんだよ。そりゃ騎馬だけで駆け抜ければ可能かもしれないけど、二十万騎を引き連れてなんて絶対無理。

 もしこれが事実であれば、頼朝はほんの側近だけを引き連れて鎌倉から黄瀬川に急行したことになる。せいぜい数百人ぐらいで多くて千人ぐらいかな。それ以上になれば主力が到着するのは十月十九日以降になるのが順当。

 これは平家軍と武田軍の動きと較べると良くわかる。頼朝軍も含めて実数はわからないけど、数千人ぐらいはいたはず。だからあれぐらいの進軍速度になってるんじゃなかろうか。

 コトリ先輩は一の谷の後に範頼軍が鎌倉から京都に向かう速度の概算をしたら、おおよそ一日に二十キロぐらいとしてた。頼朝はその一・五倍の速度だから黄瀬川にいた頼朝軍は少なかったはず。ここでの問題はどうして頼朝はそこまで急いだかだと思う。

 通説では平家軍を迎え撃つためとしてるけど、十月十九日に頼朝がやった事と言えば、伊東祐親の詮議。そうなのよ、平家軍を迎え撃つのなら黄瀬川なんかで腰を落ち着けてるのじゃなくて、富士川方面に動くべきだと思うの。十九日に後続の軍勢が到着するのを待っていたと見るのもありだけど、それだったら一緒に来ればイイじゃん。

 ふと思ったのだけど、頼朝はどれだけ平家軍の動きを知っていたかがポイントの気がしてる。これビックリしたんだけど、石橋山の合戦で敗れた頼朝は安房に逃げて再起するんだけど、鎌倉に入ったのは十月六日なの。そこから十日後に黄瀬川に急行してる事になる。

 そんな頼朝の下にどれだけの情報があったかはかなり疑問。武田軍と平家軍の鉢田合戦は十月十四日だけど、これが十月十六日に頼朝の下に届いていたかはもっと疑問。いや絶対に届いていない。当時の武田軍が急使を派遣したとは思えないもの。

 平家軍の情報も怪しい気がしてる。そりゃ、平家軍がいずれ来るぐらいは知っていたとしても、具体的にどの辺にいて、いつぐらいに富士川なりに迫って来るかは知らなかったとしか思えないのよ。そりゃ、吾妻鏡の十月十六日に、

平氏の大将軍小松少将惟盛朝臣、数万騎を率い、去る十三日、駿河の国手越の駅に到着するの由、その告げ有るに依ってなり。

 こうはなってるけど、距離からするとかなりどころでない無理があるもの。知っていて、決戦する気だったら、それこそ本気で二十万騎集めて箱根を越えるだろうし、当たり前だけど、それだけの軍勢を集め、進軍させるからもっと日数が必要になる。つまり、

    『頼朝は駿河の情勢に疎かった』

 こう結論してイイ気がする。そこまで考えてた時に、

    「シノブちゃん、どこまで進んだ?」

 コトリ先輩も気になってるみたい。気になってるのが富士川の合戦か、シノブの相手か微妙だけど、たぶん両方。この場合の『進んだ?』のココロも微妙だけど、

    「頼朝の移動なんですが」
    「早いやろ」

 コトリ先輩は当時の頼朝の意図をポイントにしてた。

    「石橋山の合戦が八月二十三日やから頼朝は一ヶ月半ぐらいで相模に巻き返して来てるんよ。相模に舞い戻った頼朝がまずやることを考えてみいな」
    「打倒平家」
    「そりゃ、全部がそれにつながるようなもんやけど地盤固めやろ」
 石橋山の合戦は伊豆で挙兵した頼朝が相模に進出しようとした戦いと見ても良さそう。伊豆は小さいうえに、親平家の伊東氏の勢力が大きいから、親源氏勢力の大きい相模に根拠地を築こうぐらいの意図かな。

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 もっともはっきり親源氏なのは三浦半島の三浦氏ぐらいで、相模一番の勢力は大庭氏。大庭氏は頼朝の父の義朝の時に大庭御厨事件があり仲が悪いぐらい。大庭氏、三浦氏以外には波多野氏、中村党がいたけど微妙な関係。

 波多野氏は頼朝の兄の朝長の母の家なんだけど、義朝が母の出自の関係で頼朝重視したので反義朝ぐらいのスタンス。中村党は大庭氏と抗争関係にあり、敵の敵は味方で頼朝支持ぐらい。

 問題は相模の真ん中に大庭氏がいて、親頼朝の中村党、三浦氏が東西に分断されている点。頼朝は中村党の支持をアテに石橋山に進出し、三浦氏との挟撃作戦を考えたぐらいだろうとコトリ先輩は見てる。

 結果は大庭氏が機敏に動いて石橋山の頼朝を粉砕。頼朝があっさり負けちゃったので武蔵からの介入軍も大庭氏に同調して三浦氏も敗北。そこから一か月半で巻き返した頼朝がまずやる仕事は、相模の反頼朝勢力の大庭氏、波多野氏の駆除になるのは同意。

 相模に舞い戻った頼朝には上総介広常を始めとする坂東の有力諸豪が付き従っているから、石橋山と逆の展開で大庭氏、波多野氏が覆滅されていったのが十月六日から十日間の出来事だろうとコトリ先輩は見てるし、シノブもこれも同意。

    「波多野氏が敗れたのが十月十七日、大庭氏が駿河に逃げ落ちていったのが十月十八日でエエんちゃうんかな」

 頼朝の相模平定戦は十日間でほぼ完了したと見て良さそう。

    「ここで頼朝が何を考え、何をしようとしていたかが富士川の合戦の謎になると思ってる」

 たしかに謎だ。相模国内の反頼朝勢力を平定したのなら、次にやるのは、

  • 相模の地盤を固める
  • さらなる勢力拡大

 どっちかだけど、もちろん並行させても良い。

    「頼朝に無い物を考えるのも一つの見方やで」
 ここまで話してコトリ先輩は行っちゃいました。それでもとりあえずここまで下調べしたから、次の時にも伊集院さんと歴史ムックは楽しめそう。