一般には清盛の良いようにやられただけの印象が強い義朝ですが、勝機は十分あったと思い始めています。信頼−義朝コンビも平家の軍事力は重視していたはずです。その傍証として清盛が六波羅にいる間は動いていません。これは都での清盛の軍事力が、
-
まともにやったら勝ち目はない!
- 敵に回すと厄介至極
- 味方に付いても大きすぎる
-
義朝の源氏軍を平家軍に匹敵する(理想的には凌ぐ)勢力にする
-
関東から親義朝勢力を動員する
-
動員した兵力を食わす
官費で兵を動員し、それを養うためには官の命令が必要です。その命令を出せる人物は2人です。言うまでもなく二条天皇の勅旨と後白河法皇の院宣です。二枚玉を抱え込めば義朝は官軍になり、関東から官命と官費で兵を動員する事が可能になります。そのシナリオに忠実に動いたのが清盛の熊野参詣中に起こした東三条院襲撃だったと見て良さそうです。この襲撃で信西を殺し、二枚玉を宮中に軟禁状態にするのに成功しています。二枚玉を抱える効果は絶大で、清盛を以てしても内裏の義朝を攻撃する大義名分が無くなります。
史実では後白河法皇は仁和寺に脱出し、二条天皇は事もあろうが六波羅に脱出していまいますが、これがそうならずに抱え込んだままであれば戦局は変わった可能性は十分にあります。義朝は二枚玉を抱えて待っているだけで
- 清盛は動けない
- 関東から増援軍が到着する
二条天皇を清盛に握られた時点で義朝の構想は潰えたとして良いかと思います。その時点で義朝に残された選択は、
- 相模に帰って再起を目指す
- 清盛との決戦にかけて一発逆転を狙う
平家軍が六波羅から鴨川の河原を北上し近衛・中御門・大炊御門大路を進んで陽明門・待賢門・郁芳門を目指したのは史実だと思います。ここで平治物語と違う展開があったと見ています。まずは左近の桜、右近の橘伝説はなかったと見ます。義平は義朝とともに郁芳門にいたぐらいです。そのうえで、
- 陽明門守備の源光保・光基は教盛軍が到着すると予定通りに寝返り、教盛は六波羅に引き返した
- 待賢門では戦意のない信頼が本当に逃げた事を確認するのに、やむなく内裏の中を探索した
- 郁芳門では義朝軍は頼盛軍を突破して相模に帰るつもりで激しい戦闘が行われた
さてなんですが義朝軍の進路は
-
郁芳門 → 大宮大路 → 三条大路 → 高倉小路 → 五条大路 → 六波羅
義朝が大宮大路を南下したのは頼盛の誘導ではなく、もっとシンプルに義朝が「そう進みたかったから」だと見る方が自然です。頼盛は戦闘の流れで大宮大路を南に押しまくられただけと考える方が自然です。それこそ左近の桜、右近の橘状態で義平に追いまくられた頼盛が大宮大路を南に退却してしまい、頼盛軍自体も主将の頼盛を守るように南下したぐらいです。でもって三条大路で義朝は東に曲がります。なぜかと言えばこのまま東海道を目指して相模に帰るためです。
ここも単純に曲がったのでは頼盛軍の追撃の危険性がありますから、殿戦を義平が担当したぐらいを考えます。つまり義平軍は頼盛軍をさらに南に押し込んだぐらいです。地図で示すと、
作戦としては義平軍はもう少し頼盛軍を蹴散らした上で、三条大路を先行する義朝軍に追いかけて合流するぐらいでしょうか。ところが義朝軍は三条大橋を目前にした高倉小路で南下してしまいます。だから清盛の誘導戦術説が出てくるのですが、そうではないと思っています。まず考えられるのは平家軍が三条大路に先回りして布陣していた可能性です。たとえば陽明門攻撃に向った教盛軍なら可能です。しかしその可能性もまた無いと思います。なぜなら六波羅決戦に敗れた義朝は三条河原を目指して敗走しているからです。教盛軍がいるのを知っていたら挟み撃ちの危険性がある三条河原には逃げないと思います。むしろ高倉小路に来た時点で、そこに平家軍がいない事を知っていたから三条河原に敗走したのだと考えます。
では何故に義朝は相模に帰るのを中止して南下して六波羅を目指したかになります。可能性があるとしたら義平になります。義平は殿戦担当として大宮大路で頼盛軍と戦っていたと想定していますが、勝ちすぎたんじゃないかと想像しています。それこそ頼盛軍は潰走状態に陥ってしまったぐらいです。そこで義平は
-
これなら勝てる!
-
決戦の好機だから六波羅に向う
-
不甲斐なや、情けなや
-
それでも逃げる
平治物語から拾える清盛の戦術ですが、最終段階で義朝は相模に帰しても良いと思っていた気がしています。清盛が目指していたのは二条天皇の
但新造の皇居よく思慮有へきか廻禄の災あらは朝家の御大事たるへし、官軍僞て引退は凶徒忽に進出んか、其とき官軍を入かへて皇居を守護せは火災有へからすと仰下されけり
これを達成する事がすべてで、義朝を合戦で討ち取る必要は重視していなかったぐらいです。ただただ内裏に籠られていたら困るぐらいです。清盛の読みはもっとシンプルで、
-
この情勢になってしまえば義朝は相模に帰るしかない
それとおびき寄せての六波羅決戦説ですが、清盛にとってはリスクが高すぎる戦術の気がします。清盛とて戦って負けるとは思っていなかったでしょうが、六波羅館には二条天皇がいるのです。それこそ義朝が焼打ち戦術にでも出られたら対応が厄介になります。清盛も義朝も保元の乱の経験者ですから、二条天皇がいても「やりかねない」の危惧はあったと思います。清盛にしても対義朝戦は出来れば六波羅館から遠いところで終了してくれた方が望ましく、二条天皇のお膝元での決戦は避けたかったとしても良い気がします。清盛にしたら、
-
義朝のヤツ、なんで六波羅まで乗り込んできやがったんだ!
戦国期の信長ぐらいの合理主義者になると「やばい」と思えば軽々と逃げます。典型は朝倉攻めの時に浅井長政の寝返りを聞くや否や脱兎のごとく京都に突っ走っています。ところが源平時代はそうはいきません。源平時代の合戦だって不利だと見れば逃げるのですが、御大将になると軽々と逃走ってわけにはいきません。とくに義朝クラスになると一遍に声望が地に落ちます。武家の棟梁と言っても豪族連合の頭であり、棟梁たるものはいかなる時でも棟梁らしい振る舞いを見せる事が求められるからです。
平治物語にタマタマあったので引用しておきますが、六波羅館を義平が攻めたてますが、ついに平家方に押し返されて鴨川を西に渡る羽目に陥ります。それを見た義朝は、
義朝のたまひけるは義平か川よりにしへ引つる事家の瑕瑾と覺ゆるそ義朝いまはいつをこすへき打死せんとて
要は全滅覚悟の突撃をやるぞの宣言です。しかし兵の目にも劣勢は明らかで、そんな事をやっても犬死するだけになります。そこで一の郎党である鎌田正清が義朝を説得します。ここも機微で正清も御大将を置き去りにして逃げだしたら
-
情けなや・・・
鎌田御馬の口にとりつきたるをちからにて兵あまたへたゝりてかけさせ奉らねは力をよはすして河原をのほりにおちられけり
寄って集って無理やり逃げるようにさせられたの、目に見えるパフォーマンスが必要ぐらいでしょうか。これぐらいすれば御大将は不本意ながら無理やりに逃走させられたになり、残りの味方は御大将が逃げたので「やむなく」の型が取れるぐらいでしょうか。