平治の乱の義朝

クーデター・プラン

一般には清盛の良いようにやられただけの印象が強い義朝ですが、勝機は十分あったと思い始めています。信頼−義朝コンビも平家の軍事力は重視していたはずです。その傍証として清盛が六波羅にいる間は動いていません。これは都での清盛の軍事力が、

    まともにやったら勝ち目はない!
こう認識していたからだと思います。清盛はその軍事力を背景に二条親政派、後白河院政派、信西一門の政治闘争からは中立の立場を堅持しています。信頼−義朝は基本的に院政派に属しますが、事を起こした時に中立の清盛がどう反応するかが最大の懸念事項だったと思っています。もう少し言えば、
  1. 敵に回すと厄介至極
  2. 味方に付いても大きすぎる
信頼はともかく義朝は武家ですから、六波羅の軍事力には相当な警戒を持っていた気がしています。そういう情勢を変えるには単純ですが、
    義朝の源氏軍を平家軍に匹敵する(理想的には凌ぐ)勢力にする
その手法も単純で
    関東から親義朝勢力を動員する
それが出来るのなら平治の乱の前にやれば良さそうなものですが、ここに源氏と平家の体力差があると見ています。平家は西国に、源氏は東国に勢力地盤がありますが、都への動員なら瀬戸内海路を支配する平家の方が有利です。さらにがあって距離や時間だけの問題ではなく
    動員した兵力を食わす
平家は忠盛以来の富強を誇ります。相当な兵力を都に置いても、それを養う事は可能です。一方の義朝は一代で南関東に勢力を広げたと言っても、財政基盤は清盛とは比較にならないと思います。関東から兵を動員したところで、これを都で養い続けるのは相当無理があるってところでしょうか。当時の軍制から兵糧は自前が建前とは言え、都での長期駐留となればそうはいかないぐらいです。史実としても平治の源氏軍は平家軍より確実に小勢です。そうなると義朝は官費で兵を養う算段が必要です。そう保元の乱式です。

官費で兵を動員し、それを養うためには官の命令が必要です。その命令を出せる人物は2人です。言うまでもなく二条天皇の勅旨と後白河法皇院宣です。二枚玉を抱え込めば義朝は官軍になり、関東から官命と官費で兵を動員する事が可能になります。そのシナリオに忠実に動いたのが清盛の熊野参詣中に起こした東三条院襲撃だったと見て良さそうです。この襲撃で信西を殺し、二枚玉を宮中に軟禁状態にするのに成功しています。二枚玉を抱える効果は絶大で、清盛を以てしても内裏の義朝を攻撃する大義名分が無くなります。

史実では後白河法皇仁和寺に脱出し、二条天皇は事もあろうが六波羅に脱出していまいますが、これがそうならずに抱え込んだままであれば戦局は変わった可能性は十分にあります。義朝は二枚玉を抱えて待っているだけで

  1. 清盛は動けない
  2. 関東から増援軍が到着する
それだけでなく史実では義朝軍から脱落していった畿内武家貴族も味方に留まった可能性が大です。これは関東からの増援軍が増えれば増えるほど強固になります。二枚玉の大義名分と清盛に匹敵する軍事力があれば自然にそうなります。そうやっておいて大きくなった軍事力で、清盛の六波羅館を襲撃です。理由はどうとでも付けられるのが二枚玉の強みです。ただそこまでやるには、信頼も義朝も相当な覚悟が必要です。覚悟とは従来の朝廷や院政でない政治形態の創造です。そこまでの才能と覚悟が信頼にも義朝にもなかったのかもしれません。


落ち延びるチャンスはあったか? 謎の反転

二条天皇を清盛に握られた時点で義朝の構想は潰えたとして良いかと思います。その時点で義朝に残された選択は、

  1. 相模に帰って再起を目指す
  2. 清盛との決戦にかけて一発逆転を狙う
史実は2.をやって敗れるのですが、義朝は1.を目指していた気がしています。平治の乱の戦闘経過については平治物語ぐらいしかなく、なおかつ平治物語は悪源太義平の武勇を称賛するために書かれた側面が強く、詳しい戦闘経過を追うのは少々厄介です。ですから書かれていない部分に目一杯の想像力を駆使しながら見直してみます。

平家軍が六波羅から鴨川の河原を北上し近衛・中御門・大炊御門大路を進んで陽明門・待賢門・郁芳門を目指したのは史実だと思います。ここで平治物語と違う展開があったと見ています。まずは左近の桜、右近の橘伝説はなかったと見ます。義平は義朝とともに郁芳門にいたぐらいです。そのうえで、

  1. 陽明門守備の源光保・光基は教盛軍が到着すると予定通りに寝返り、教盛は六波羅に引き返した
  2. 待賢門では戦意のない信頼が本当に逃げた事を確認するのに、やむなく内裏の中を探索した
  3. 郁芳門では義朝軍は頼盛軍を突破して相模に帰るつもりで激しい戦闘が行われた
もうちょっと付け加えると重盛の信頼探索が終わった時点で「義朝 vs 頼盛」は大宮大路を既にかなり南下していたと見ています。重盛は二条大路まで出てそれを確認したのちに、鴨川に出て六波羅を目指したぐらいに考えます。だって平治物語には義朝軍が六波羅に押し寄せた時に清盛と重盛の会話シーンがあるからです。それだけでなく平家軍とて無尽蔵の兵力があったとは思えませんから、内裏襲撃の主力軍である重盛軍は早く六波羅に戻るのが作戦だったとも思います。


さてなんですが義朝軍の進路は

    郁芳門 → 大宮大路 → 三条大路 → 高倉小路 → 五条大路 → 六波羅
こうなっています。清盛の戦術は内裏を焼かずに奪還する事が主目的で、そのために源氏軍をおびき出し誘導し、六波羅館で決戦を行う作戦であったと伝えられています。そうなると頼盛は予定の戦術的退却になりますが、何回も考え直したのですが、やはり疑問が残ります。当時の軍勢が、まるで諸葛孔明の采配みたいな進退が本当に出来るのかです。もう少し後に日本史上で最高の戦術家としても良いと思っている義経が活躍しますが、その義経でもこんな巧妙な進退は無理であったが私の前にムックした結論です。

義朝が大宮大路を南下したのは頼盛の誘導ではなく、もっとシンプルに義朝が「そう進みたかったから」だと見る方が自然です。頼盛は戦闘の流れで大宮大路を南に押しまくられただけと考える方が自然です。それこそ左近の桜、右近の橘状態で義平に追いまくられた頼盛が大宮大路を南に退却してしまい、頼盛軍自体も主将の頼盛を守るように南下したぐらいです。でもって三条大路で義朝は東に曲がります。なぜかと言えばこのまま東海道を目指して相模に帰るためです。

ここも単純に曲がったのでは頼盛軍の追撃の危険性がありますから、殿戦を義平が担当したぐらいを考えます。つまり義平軍は頼盛軍をさらに南に押し込んだぐらいです。地図で示すと、

作戦としては義平軍はもう少し頼盛軍を蹴散らした上で、三条大路を先行する義朝軍に追いかけて合流するぐらいでしょうか。ところが義朝軍は三条大橋を目前にした高倉小路で南下してしまいます。だから清盛の誘導戦術説が出てくるのですが、そうではないと思っています。まず考えられるのは平家軍が三条大路に先回りして布陣していた可能性です。たとえば陽明門攻撃に向った教盛軍なら可能です。しかしその可能性もまた無いと思います。なぜなら六波羅決戦に敗れた義朝は三条河原を目指して敗走しているからです。教盛軍がいるのを知っていたら挟み撃ちの危険性がある三条河原には逃げないと思います。むしろ高倉小路に来た時点で、そこに平家軍がいない事を知っていたから三条河原に敗走したのだと考えます。

では何故に義朝は相模に帰るのを中止して南下して六波羅を目指したかになります。可能性があるとしたら義平になります。義平は殿戦担当として大宮大路で頼盛軍と戦っていたと想定していますが、勝ちすぎたんじゃないかと想像しています。それこそ頼盛軍は潰走状態に陥ってしまったぐらいです。そこで義平は

    これなら勝てる!
こういう判断が生まれ、三条大路を進む義朝にこういう連絡を送ったぐらいです。義平を見捨てるわけにはいかないので義朝も引きずられるように六波羅に向ったぐらいです。この辺は当時の御大将のありようで、とりあえず御大将たるものは逃げてはならないとされています。不利な戦況だからと言って真っ先に逃げ出そうものなら
    不甲斐なや、情けなや
こういう烙印を押されてしまいます。苦戦中の部下を見殺しにしても同様です。義朝は関東の武家の棟梁を自負していますから、長男の義平に「勝てそう」と報告され、部下が「それなら」と反応されてしまったら
    それでも逃げる
こうは言い出せなかったぐらいでしょうか。折角の逃げるチャンスを失ったぐらいです。もっとも相模に無事帰れても再起できたかどうかは未知数ですが、途中で謀殺される危険性がかなり減っていた可能性ぐらいは考えられます。


清盛の思惑

平治物語から拾える清盛の戦術ですが、最終段階で義朝は相模に帰しても良いと思っていた気がしています。清盛が目指していたのは二条天皇

但新造の皇居よく思慮有へきか廻禄の災あらは朝家の御大事たるへし、官軍僞て引退は凶徒忽に進出んか、其とき官軍を入かへて皇居を守護せは火災有へからすと仰下されけり

これを達成する事がすべてで、義朝を合戦で討ち取る必要は重視していなかったぐらいです。ただただ内裏に籠られていたら困るぐらいです。清盛の読みはもっとシンプルで、

    この情勢になってしまえば義朝は相模に帰るしかない
これだけの考えで戦術を立てていた気がします。義朝が帰りにくい理由は、一戦も交えずに相模に逃げ戻れば源氏の棟梁としての勢威が落ちるぐらいで、適当に勝てば相模に帰るぐらいの見方です。本気で義朝を逃がさないつもりなら三条方面に伏兵でも置いておくと思うからです。相模に帰るにはまず東海道を目指すはずだからです。そういう配置をしなかった点で清盛の意図が窺える気がします。清盛がどれほどの軍勢を郁芳門に差し向けたかは不明ですが、適当に負けるぐらいの兵力であった気がしています。頼盛なりが敗走してくれれば、後は義朝はそれを手土産に相模に帰るだろうぐらいの算段です。

それとおびき寄せての六波羅決戦説ですが、清盛にとってはリスクが高すぎる戦術の気がします。清盛とて戦って負けるとは思っていなかったでしょうが、六波羅館には二条天皇がいるのです。それこそ義朝が焼打ち戦術にでも出られたら対応が厄介になります。清盛も義朝も保元の乱の経験者ですから、二条天皇がいても「やりかねない」の危惧はあったと思います。清盛にしても対義朝戦は出来れば六波羅館から遠いところで終了してくれた方が望ましく、二条天皇のお膝元での決戦は避けたかったとしても良い気がします。清盛にしたら、

    義朝のヤツ、なんで六波羅まで乗り込んできやがったんだ!
こんな感じであったかもしれません。


蛇足・御大将の逃げ方の型

戦国期の信長ぐらいの合理主義者になると「やばい」と思えば軽々と逃げます。典型は朝倉攻めの時に浅井長政の寝返りを聞くや否や脱兎のごとく京都に突っ走っています。ところが源平時代はそうはいきません。源平時代の合戦だって不利だと見れば逃げるのですが、御大将になると軽々と逃走ってわけにはいきません。とくに義朝クラスになると一遍に声望が地に落ちます。武家の棟梁と言っても豪族連合の頭であり、棟梁たるものはいかなる時でも棟梁らしい振る舞いを見せる事が求められるからです。

平治物語にタマタマあったので引用しておきますが、六波羅館を義平が攻めたてますが、ついに平家方に押し返されて鴨川を西に渡る羽目に陥ります。それを見た義朝は、

義朝のたまひけるは義平か川よりにしへ引つる事家の瑕瑾と覺ゆるそ義朝いまはいつをこすへき打死せんとて

要は全滅覚悟の突撃をやるぞの宣言です。しかし兵の目にも劣勢は明らかで、そんな事をやっても犬死するだけになります。そこで一の郎党である鎌田正清が義朝を説得します。ここも機微で正清も御大将を置き去りにして逃げだしたら

    情けなや・・・
こういう評価を受けます。同じ逃げるにしても御大将の退却宣言が出てからの方が良いわけです。御大将もあっさり了承してはダメで散々渋った挙句に、

鎌田御馬の口にとりつきたるをちからにて兵あまたへたゝりてかけさせ奉らねは力をよはすして河原をのほりにおちられけり

寄って集って無理やり逃げるようにさせられたの、目に見えるパフォーマンスが必要ぐらいでしょうか。これぐらいすれば御大将は不本意ながら無理やりに逃走させられたになり、残りの味方は御大将が逃げたので「やむなく」の型が取れるぐらいでしょうか。