荘園制度をもう一度

苦手の荘園制度について、もう少し知識が必要と気づきました。つうか知識が薄すぎて荘園を巡る争いの本質が理解しきれないってなところです。荘園制度も変遷が複雑でこれを詳細に追うのは大変過ぎるので、いわゆる寄進地系荘園に話を絞って必要な分だけムックします。


基本的な構造

平安期に荘園が急拡大した理由の一つに節税はあると理解しています。そのために貴族や有力社寺に寄進して荘園化するのが蔓延したぐらいです。荘園にするためには

  1. 有力貴族や有力社寺(有力者)に地主が田畑を寄進する
  2. その土地は有力者のものになり、有力者は国税より安い税を課する
  3. 寄進した地主はその土地の管理人となる
ザックリとはこういう理解でした。大筋では間違いとは言えないのですが、私の知識が薄すぎたのは土地の所有権がどうなっているのか曖昧すぎた点です。あれこれ調べた結果ですが、どうも「寄進」の文字に惑わされていたようです。寄進とは寄付と同じで「あげてしまう」と考えるので誤解すると思います。荘園対象の土地の所有権は荘園化しても地主の物なんです。この所有権も荘園制度では注意して扱わないといけない用語で、地主はその土地を私有している書いた方が理解しやすくなります。

土地を私有したまま寄進するとはどういう事かになりますが、寄進するのは私有権ではなく所属権のニュアンスに近いものです。えっと、所属権とは当時の用語として検田権、勧農権、検断権になりますが、平たく言えば行政府の所属場所を変えてしまうぐらいです。我ながら全然平たくないので説明を補足しますが、喩えを強引に現在にしてみます。現在でも個人は土地家屋を私有しています。その上に市町村という行政府がいます。市町村でも税率は違います。この時にA市に所属していた者が税率の安いB町の所属にする事を寄進と呼ぶぐらいでしょうか。荘園制度ではA市が国衙であり、B町が有力者って事になります。

有力者に所属権が移れば国衙の支配から外れますが、その代わりに有力者が荘園の管理運営を行う必要が生じます。この管理運営を行う権利を荘務権と呼びます。この荘務権のあるところを領家と言い、本所と呼ぶぐらいで理解すれば良さそうです。荘園も最初に寄進された所有権の持ち主からさらに寄進するなんて重層的なものになっていくのですが、荘務権を握っているところを本所と呼ぶと単純化しても良さそうです。ここももともとは「領家 = 本所」だったのですが荘園支配が重層化した結果、どこに荘務権があるかが問題になり、領家の中で荘務権を持つところを本所と呼んだぐらいのようです。

荘務権と言っても都から近いところならまだしも、関東の様な遠国になれば都から自前の管理者(荘官)を派遣するのは大変ですし費用もかかります。そこで荘務権を持つ本所は荘園の私有者を管理者に任命する事になります。国衙にも在庁官人と言う地元有力者の現地採用がありますが、同じようなものと考えれば良いようです。これが義国が補任された預所職とか、大庭氏が受け持っていた下司職みたいなものです。


荘園の種類

種類と言ってもあくまでも寄進地系荘園での種類です。これもザックリ分ければ

  1. 国免荘
  2. 官省符荘
この2つがあります。荘園の認定は国司の権限であったようです。国司が認めただけのものを国免荘、さらに中央の太政官民部省が認めたものを官省符荘と呼びます。違いは
  1. 国免荘は国司一代限りの認可
  2. 官省符荘は永続的な認可
国免荘は国司が代われば荘園である事の権利を失います。失ったら土地私有者にとって大変ですから新任の国司に国免荘の更新運動を行う事になります。運動と言ってもデモをやるわけでなく、伝手を頼っての賄賂になると思います。もちろん国免荘をもつような地元有力者は在庁官人にもなっている者が少なくないでしょうから、新任の国司に更新を強要するなんて事もあったとは思います。それでもとにかく手間がかかるので官省符荘にすることに努力することになります。官省符荘になるためには今度は中央の有力者への運動が必要になり、立券(官省符荘として認められること)が認められる事は当時としては大手柄みたいなものでしょうか。

摂関家や院に本所が集中したのは、国免荘の更新に有利、さらには官省符荘にするのに有利だからと考えれば納得がいきます。これもたぶんですが、受領のメリットの少なからぬものとして国免荘の更新時の賄賂、さらには官省符荘にする時の口利き料もあった気がしています。もう少し言えば、国免荘更新時に自分の荘園にしてしまったりも多々あった気がしています。


荘園をめぐるゴタゴタ

つうても相馬御厨、大庭御厨、梁田御厨しか知らないのですが、なんとなく類似性があるように思っています。”n”が少ないので推測部分が大きすぎるのですが、荘園の私有権の承認問題の気がしています。あくまでも推測ですが、荘園の認可の根本は土地私有者が誰かにかなり依存する感触があります。ここも言い方が難しいのですが、荘園の認可はある種の特例です。その荘園認可の手続きに瑕疵があれば荘園認可が無効になるぐらいでしょうか。荘園を巡る紛争で手続き上の瑕疵として3つの御厨紛争で共通しているのは、

    正式の土地私有者でないものが荘園を認可させた
これだけでは判りにくいので相馬御厨を題材として取り上げます。断っておきますが「おそらくそうだろう」部分が大ですから御了承ください。相馬御厨事件の発端は国司藤原親通が税金未納を理由に相馬御厨を親書を出させて取り上げます。実情は別として形式的には正当な理由によるものぐらいに私は解釈します。次に義朝が圧状を取って私有権を主張します。ここなんですが圧状を取った理由として上総氏の「浮言」となっていますから、相馬郷は正しくは上総氏のものであるとの内容と推測します。次に義朝が避状を出す部分の解釈が難しいのですが、ここはシンプルに千葉氏に譲ったぐらいに解釈します。結果として相馬郷の私有者は、
    上総氏 → 義朝 → 千葉氏
こういう風に動いた事になります。どうなったかと言うと藤原親通は千葉氏から親書で相馬郷を取り上げていますが、当時の相馬郷は千葉氏ではなく上総氏の所有であるので親通の親書が無効化され、相馬郷は税金未納の質として国衙が管理しているに変わったぐらいを想像しています。でもって千葉氏は未納分の税金を支払い相馬郷を取り返した手順です。ここのポイントは義朝の存在で相当無茶をしていますが、上総氏や千葉氏をバックに持っているだけでなく、翌年に大庭御厨事件を起こして地方実力者になっていますから、義朝の主張に文句を付けられなかったぐらいを想像しています。


大庭御厨事件となるともっとシンプルです。大庭氏が開拓した田畑の私有権は義朝の物だの主張です。大庭氏は義朝の私有地に無断で侵入し開墾したぐらいの主張とすれば良いでしょうか。大庭氏は義朝の私有地を荘園にしているので、荘園(御厨)自体が無効であり、義朝は不法侵入者を叩きだしただけぐらいが大庭御厨事件の義朝の理屈の気がします。梁田御厨も似たようなもので、ここは藤姓足利氏の私有地です。これに対し義国は突然「ここはオレのもの」と宣言して寄進して荘園にしてしまっています。wikipediaより

足利荘内では給主の地位(=知行権)を巡って預所源義国下司の藤原家綱が争い、元定・義国側と利光・家綱側の間で院庁における訴訟へと発展した。結果、義国の寄進状が真正と認められて給主職に義国が任じられ、口入神主は彼が指名した元定が務める事になった。設立の翌年に出された院宣はそれに関するものとみられている。

あまり手際の良い説明ではありませんでしたが、当時の関東では力のある者が他人の私有地を屁理屈を捏ねてでも「オレのもの」と主張する行為が蔓延していたと推測されます。そういう争いは当時でも訴訟とはなりますが、裁定が当事者の運動具合によって大きく左右され過ぎる部分が大きいのにウンザリさせられていたのは間違いないと思っています。


蛇足の第三次相馬御厨騒動

あくまでも私の見方である点は御理解いただきたいのですが、義朝が介入した第二次騒動では土地の私有権を

    上総氏 → 義朝 → 千葉氏
こう動かすことによって藤原親通が千葉氏から責め取った相馬郷の親書を無効化したと考えています。このカラクリの要は義朝で、この後に義朝はこのカラクリに文句を付けさせない実力を付け、この状態を固定化します。ところが義朝とその勢力は平治の乱で吹き飛びます。そうなると藤原親通が千葉氏から責め取った親書の効力が甦ったと見ています。いや甦ったと解釈する余地が生じたぐらいでしょうか。私有権はこう動いていたと主張し、相馬郷の私有権は義宗ものとして寄進してしまいます。相馬郷を官省符荘にまで昇格させていた千葉氏は仰天して訴訟に持ち込みますが、佐竹氏と伊勢平氏の連携は強く千葉氏の主張は退けられる事になります。第二次騒動の時には義朝の影響力が勝ちましたが、第三次騒動では伊勢平氏の影響力が圧倒したぐらいでしょうか。