上総介広常研究

石橋山で敗れた頼朝が復活できたのは、やはり上総介広常が加担したためと考えるのが自然です。今日はその理由を考えてみたいと思います。


上総氏の復習

上総氏に重点を置いた系図を示します。

上総氏・千葉氏は平良文の後裔で上総を地盤としていましたが、常重の代の時に下総にも勢力を広げ、常重は千葉荘を開き千葉太夫と呼ばれたと書かれてはいます。常重の後継は、

  • 佐賀常家が上総を継ぐ(上総氏)
  • 千葉常兼が上総を継ぐ(千葉氏)
これぐらいに理解していましたがだいぶ違うようです。上総氏の下総進出はもっと早く平忠常の時には既に香取郡に勢力を広げていたとなっています。常重はもっとシンプルに上総に千葉荘を開いた「だけ」ぐらいに考えた方が良さそうです。と言うのも常重の息子たちは各地に所領を譲られていますが、苗字にしているのは譲られた地名にしていると考えて良いからです。わかる範囲でプロットしてみます。

常重の次の惣領は佐賀常家ですが、所領の香取郡千田庄坂村に苗字は由来するとなっており「坂 → 佐賀」って感じのようです。常家は上総氏の惣領ですから、下総に本拠地があると言う事は上総・下総の惣領って考えた方が良いと思います。他の常重の息子たちも下総に所領をもらっている者が多い事が確認できます。どうもなんですが上総介広常が頼朝に誅殺された後に千葉氏が宗家になったため、千葉常兼の時から千葉氏が大きかったとしたんじゃないかと考えています。実はそうではなくて千葉常兼は他の兄弟と同様に上総惣領家の下にいる分家に過ぎなかったと見て良さそうです。

佐賀常家は後継者を残さずに死んだので五男の相馬常晴が常家の養子になって惣領家を継ぐ事になります。相馬常晴は「相馬」の苗字通り相馬御厨を父から譲られたようです。常晴は息子の常澄と非常に仲が悪かったとされ、wikipediaより、

常晴は実子の常澄と折り合いが悪かったのか、兄・常兼の三子である千葉常重を養子として大治5年(1130年)6月に家督を譲った。これが後に、房総平氏間の抗争の遠因となる。

ここの説明も判りにくかったのですが、佐賀常晴となった常晴には2つの地所があったと見て良さそうです。

  • 相馬氏としての相馬御厨
  • 佐賀氏としての千田庄坂村
常晴は千葉常重を養子にして相馬氏の家督を譲り、同時に相馬御厨を譲ったと見るのが宜しいようです。そうでなければ佐賀常澄には何も残りません。この常晴の常澄憎しの行為が上総氏と千葉氏との間で延々と続く相馬御厨を巡る紛争の発端になったわけです。これは前にやったのでとりあえず置いておきます。

それと常晴は「相馬」と系図に書きましたが、宗家の佐賀氏の養子になった時に「佐賀」に変わっています。子の常澄も佐賀氏を名乗っていたようですが、その次代になると佐賀の名前は消えてしまいます。なんと言うか私が数えただけでも12人の息子がいますから、佐賀氏自体が解体してしまった気がしないでもありません。そこはともかく佐賀常澄の次は長男の伊西常景です。この伊西が特定しにくかったのですがどうも伊北庄伊西になるようです。この常景は弟の印東常茂に殺されて惣領の座を奪われますが、印東常茂も苗字の通り印旛沼の東側に所領があったと見て良さそうです。

読んでいればわかるように当時の惣領家は本拠地がコロコロ変わるようです。つうか惣領家とは上総権介の地位を継いだ者をいうと思えば良いようで、上総権介になった者が上総氏全体の宗家的な地位になるぐらいでしょうか。ここまで調べただけでも、上総氏の惣領家の位置は、

    千葉(常長)→ 千田庄坂村(常家、常晴、常澄)→ 伊北庄伊西(常景)→ 印東(常茂)
こんな感じで転々としています。


さて兄を殺して上総氏の惣領になった常茂ですが、さすがに一族の評判は悪かったようです。そのために反常重派が形成され、その筆頭が上総介広常であったようです。ここも良くわからないのですが、広常は八男です。長男が殺され次男が総領になったとはいえ三男から七男までいるわけです。なぜに八男の広常が反常茂派の筆頭になったかの説明は遺憾ながら見つかりませんでした。母系の関係もあるかもしれませんが残念ながら詳細は不明で辛うじてwikipediaに、

父・常澄が亡くなると、嫡男である広常と庶兄の常景や常茂の間で上総氏の家督を巡る内紛が起こり

この記述を信じれば広常が正室の子であったことになりますが、これ以上はわかりませんでした。

あえて考えれば常茂が兄の常景を殺した時点から上総は内乱状態に陥ったぐらいは想像できるところです。常茂派と反常茂派を軸にしたお家騒動みたいな感じで、その争乱の中で広常は頭角を現していったぐらいが考えられます。反常茂派と言っても呉越同舟状態で、常茂を倒す点では一致しても、当然ですが「次は誰だ?」の反常茂派内の争いも必発って感じでしょうか。そこを勝ち抜いていったのが広常みたいな見方です。どうもなんですが広常は対常茂戦も優位に進め、また反常茂派内の後継者争いでも他を制したぐらいに見て良さそうです。治承寿永の乱当時には劣勢の常茂は後ろ盾に平家勢力を恃み、優勢な広常と辛うじて対峙していた状況ぐらいを考えます。


頼朝と広常に接点はあったか?

義朝が常澄の屋敷に住み「上総御曹司」と呼ばれた時期があったのは確実です。この義朝と常澄が組んで第二次相馬御厨事件を起こしたのもまた確実です。ここで義朝の年表を出しますが、

西暦 事歴 年齢 補足
1123 出生。母は院近臣の藤原忠清の娘 0
1136 為義、左衛門少尉検非違使退官 13
1141 長男義平出生。母は三浦氏 18
1143 次男朝長出生。母は波多野氏
相馬御厨介入
20
1144 大庭御厨濫行 21 この後に武蔵進出から義国との緊張関係が生まれ、河内経国の奔走で和解。以後同盟関係に近くなる。
1147 三男頼朝出生。母は藤原季範の娘 24 由良御前との婚姻は1145〜1146年に行われた事になります
1153 従五位下 下野守 31 由良御前と婚姻はその力を院が認め取り込もうとした結果の一つと見ます。もう一つ言えるのは既に京都に進出拠点を持っていたと見れます。
1154 右馬助兼任 32
1155 大蔵合戦 33 この時点で藤原信頼と関係を持っていた
1156 保元の乱 34
1160 平治の乱 38 義朝戦死
1180 治承寿永の乱 (58)
ネックなのは上総介広常も、その父の常澄、さらに祖父の常晴も出生年が不明なんです。困ったな思っていたら答えはwikipediaにありました、

保元元年(1156年)の保元の乱では義朝に属し、平治元年(1159年)の平治の乱では義朝の長男・源義平に従い活躍。義平十七騎の一騎に数えられた。平治の乱の敗戦後、平家の探索をくぐって戦線離脱し、領国に戻る。

義平十七騎とはwikipediaより、

待賢門は藤原信頼が守っていたが、そこへ清盛の嫡男・平重盛が攻め寄せ、怯えた信頼は戦わずに逃げ出し、門を突破されてしまった。義朝は「大臆病者が、もう待賢門を破られてしまったぞ。敵を追い返せ」と出撃を命じた。「承知」と叫ぶや義平は鎌田政清・後藤実基・佐々木秀義・三浦義澄・首藤俊通・斎藤実盛・岡部忠澄・猪俣範綱・熊谷直実・波多野延景・平山季重・金子家忠・足立遠元・上総広常・関時員・片切景重の坂東武者17騎を率いて駈け出した。

平治物語が根拠の様ですが、広常は義朝と保元・平治の乱を一緒に戦った事になります。そうなれば、平治の乱では頼朝と一緒だったことになります。つまりは確実に広常と頼朝は面識があったとして良さそうです。恥ずかしながら、これは知りませんでした。仮に平治の乱の時に広常が20歳ぐらいであれば、治承寿永の乱で頼朝に加勢したのは40歳ぐらいになります。


広常と千葉氏の関係は?

頼朝が伊豆を脱出して安房に来た時に上総氏も千葉氏も頼朝に加担しています。両氏は相馬御厨を巡る遺恨があるはずなのですが、この辺はそうなんだろうと言うところです。これには幾つかのエッセンスが考えられるところですが、両氏の争点である相馬御厨が佐竹氏に奪われていたのはまず一つあります。それと常茂と広常の争いです。争いと言っても戦国時代の様に常に合戦をやっていた訳ではないと思います。合戦もあったでしょうが、五月雨の様な局地戦に終始し、時に和睦し、時に争うぐらいの状態を想像します。

上総氏の惣領を巡る争いですから、上総氏の支持を広く集めるのも抗争としては重要です。千葉氏も上総氏の中では有力氏族ですから、常茂も広常も抱き込み合戦を行い、この時に広常と千葉氏の間に連携が出来上がったぐらいの状態を想像しています。連携と言うか、上総氏の惣領を広常と認め、上総氏の一族として広常を支持するぐらいの関係です。


それと治承3年ぐらいの時点で常茂、広常の力関係がどうなっていたかですが、これまた「どうも」になりますが惣領の地位を広常に譲る事での和睦が成立していた状況が窺われます。wikipediaより、

治承3年(1179年)11月、平家の有力家人・伊藤忠清が上総介に任ぜられると、広常は国務を巡って忠清と対立し、平清盛に勘当された。

ここもこれだけでは何が書いてあるのか理解が困難なんですが、伊藤忠清とは誰かになります。wikipediaより、

保元の乱平清盛の軍の先陣を務め、源為朝と戦う。この時、為朝の強弓を前に苦戦を強いられ、弟の忠直(伊藤六)が戦死する。

そう保元物語にある

伊勢國の住人古市伊藤武者景綱子そくのいとう五いとう六おやこ三騎にて

討死した伊藤六の兄の伊藤五が伊藤忠清になります。忠清はなんらかの理由で上総に配流されていましたが、治承3年の政変で従五位下上総介に任じられています。上総介となった頼清と国務で対立する地位は在庁官人のトップの上総権介に広常がなっていたと見て良い気がします。だから吾妻鏡での広常の紹介は上総権介であったぐらいの見方です。清盛に勘当の意味が難しいのですが、常重は平家との連携を深めていた上に都に大番役としていたとなっていますから、この時に広常から上総権介の地位を奪い返したのかもしれません。


東国独立論

広常の経歴を見ていると若い時に保元・平治の乱に参加し都を見ています。帰国後は兄の常景が殺された後は、これを殺した常茂とかなり長期に渡って抗争を続けていたぐらいで良いようです。そういう状況で形成された思想は、愚管抄にある

介ノ八郎ヒロツネト申候シ者ハ東國ノ勢人。頼朝ウチ出候テ君ノ御敵シリゾケ候ハントシ候シハジメハ。ヒロツネヲメシトリテ。勢ニシテコソカクモ打エテ候シカバ。功アル者ニテ候シカド。オモヒ廻シ候ヘバ。ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。

これもまた読みにくいのですがポイントは、

    ナンデウ朝家ノ事ヲノミ身グルシク思ゾ。タダ坂東ニカクテアランニ。
ここの解釈として頼朝の朝廷協調路線を否定し、東国独立論を唱えたとするようです。東国独立論は広常独自の思想と言うより、東国武者の間にかなり広くあったと見て良さそうです。当時の朝廷の統治がエエ加減であり、それに振り回されて在地領主が迷惑したのは史実として良い気がします。この支配を脱するには、京都の朝廷から離れて東国だけで武者の国を作ることが解決策ぐらいの考え方です。この東国独立論の源流はそれこそ平将門までたどり着くかもしれません。

東国独立論の実行者は将門もそうですし、平忠常もまたそうであった気がしています。見ようによっては河内源氏三代(頼信、頼義、義家)を武家の棟梁として仰いだのも東国の独立を期待しての者であったかもしれませんし、義朝が期待されたのも、それがあったかもしれません。もっとも頼信から義朝に至る時代は、東国の武家の棟梁が都で十分な地位を占め、朝廷との協調による東国の独立を保証する形態を目指したぐらいであった可能性はあります。完全独立を目指した将門や忠常の失敗の反動です。

ただ頼信から義朝に至る協調路線は結果的に実を結ばず、再び東国完全独立論が強くなっていたのが治承4年ぐらいの見方です。この完全独立論のためにはカリスマが必要です。東国は東国で武者同士の所有権争いが日常化しており、東国武者の誰がカリスマに立とうとも「あいつには協力しない」の足の引っ張り合いも、これまた日常化していたとも推測されます。つまり東国独立のためには貴種によるカリスマが必要条件であったぐらいでしょうか。貴種のカリスマが東国武士の求心力としていかに必要であったかは鎌倉幕府が示しています。鎌倉幕府の将軍は三代の実朝が暗殺された後は、摂関家が2代、親王家が4代です。実権は北条執権家が握っていましたが、北条家では求心力と言うか将軍になる事はできず、あくまでも将軍の下の臣下筆頭に留まっています。

広常の頼朝への評価は、東国独立のカリスマとしての貴種であるかどうかではなかったかと思っています。有名なエピソードとして吾妻鏡より、

9月19日 戊辰
上総権の介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。武衛頗る彼の遅参を瞋り、敢えて以て許容の気無し。廣常潛かに思えらく、当時の如きは、卒士皆平相国禅閤の管領に非ずと云うこと無し。爰に武衛流人として、輙く義兵を挙げらるの間、その形勢高喚の相無くば、直にこれを討ち取り、平家に献ずべしてえり。仍って内に二図の存念を挿むと雖も、外に帰伏の儀を備えて参る。然ればこの数万の合力を得て、感悦せらるべきかの由、思い儲くの処、遅参を咎めらるの気色有り。これ殆ど人主の躰に叶うなり。これに依って忽ち害心を変じ、和順を奉ると。陸奥鎮守府前の将軍従五位下平の朝臣良将が男将門、東国を虜領し、叛逆を企つの昔、藤原秀郷偽って門客に列すべきの由を称して、彼の陣に入るの処、将門喜悦の余り、梳く所の髪を結わず、即ち烏帽子に引き入れこれに謁す。秀郷その軽骨を見て、誅罰すべきの趣を存じ退出す。本意の如くその首を獲ると。

これは作り話だという説も有力ですが、案外なところ本当だった気がしています。広常が遅参したのは吾妻鏡にも他の資料にもあります。また広常が大軍を率いて参陣したのも同様です。まあ1万とか2万は大袈裟としても、数千程度はいた可能性はあります。おそらく数百程度しかいなかったであろう頼朝軍に較べたら圧倒的な軍勢です。広常の遅参は大軍を集めていたからと連動しますが、広常が頼朝に純粋に味方するのであれば「とりあえず」の兵数で手早く参陣しても良かったわけで、後はそれこそ「追々」です。安房にしろ、上総にしろ、下総にしろ広常の勢力圏だからです。

それをせずに大軍が集まるまで参陣を待ったのは、頼朝軍を余裕で包囲殲滅できるだけの軍勢の終結を待ったぐらいの見方は可能です。いやそれをするために大軍が集まるまで参陣しなかったと見た方が良いかもしれません。頼朝もそういう気配を感じたからこそ下総と武蔵の国境である隅田川で広常を迎えたぐらいにも思えます。下総国内では広常に襲われたら逃げ場もないと言ったところでしょうか。

広常が見たかったのは東国独立のカリスマ貴種としての資質が頼朝に有るかどうかだったと考えています。その判断に誤りがなかったのは史実が表している気がします。