清和源氏のお話

武家と言えば源氏と平氏です。とくに源氏は建前上は鎌倉幕府から江戸幕府終焉まで「ほぼ」一貫して政権を担っていたとして良いでしょう。ご存知の方も多いと思いますが、源氏も平氏も一系統ではなく、歴代の皇子の子孫が臣籍降下すれば与えられる姓で、幾系統もの源氏と平氏があります。その源氏の中でもっとも栄えたのが清和源氏、いやその中の経基流になります。だいたいは知っているのですが、ちょっと曖昧な部分も多いので知識整理です。


天皇として最後の独裁者と言われる桓武の次が息子の平城ですが、平城は薬子の乱で消えて皇統は弟の嵯峨に流れます。嵯峨の息子が仁明天皇で、仁名天皇の孫が清和になります。桓武の在位が781−806年で、清和の在位が858-876年ですから、桓武の50年ばかり後の天皇です。平氏桓武平氏ですから、清和源氏のスタートは半世紀ほど遅い事になります。清和の在位期間は19年間あるのですが、清和の享年は31。9歳で即位して27歳で譲位しています。在位中のエピソードとしては応天門炎上事件があり、藤原摂関政治体制が確立する頃の天皇ぐらいでも良いかもしれません。

つうのも応天門炎上事件で大伴氏、紀氏を放逐した藤原良房は清和が元服(つまり成人)しているにも関わらず皇族以外で初めて摂政になっています。良房の家系は養子の基経からやがて忠平に至り道長に続き、この家系から摂政・関白が続出する事になります。良房は摂関家の遠祖ぐらいに思っても良いようです。政治の実権を良房に握られた清和は子作りに励んだようで、それこそゴッソリの子女が記録されています。

清和源氏の祖は第6皇子の貞純親王になります。これも異説があるようで、貞純親王は清和の息子ではなく、清和の息子の陽成の子どもであるの説もあるようです。根拠はwikipediaより、

明治30年代に石清水八幡宮祠官田中家文書の中に源頼信応神天皇陵に納めたとされる永承元年(1046年)告文に「先人新発其先経基其先元平親王其先陽成天皇其先清和天皇」と明記してある事を根拠

この説は現時点では異説段階のようで、定説通り清和の皇子説にしておきます。貞純親王は後世になって清和源氏の遠祖になったので記録に残りましたがwikipediaより、

親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった

平凡な親王生活を過ごしたぐらいの理解で良いようです。貞純親王の母は棟貞王の娘となっていますから、外戚天皇の外祖父)になる事で権力保持を狙う摂関政治体制下では冷遇されたぐらいに見ても間違いではなさそうです。


経基から満仲

臣籍降下したのは貞純親王の息子の経基からです。臣籍降下する前は王のはずで六孫王であったとは伝えられていますが、そうであった公式記録はないそうです。だから王であった事に疑問を呈する意見もあるとされます。私は王であった時代もあったと思いますが、傍流の貞純親王の子の記録なんてあまり熱心には記録されてなかった傍証ぐらいになります。

傍流皇族から臣籍降下した経基の扱いは武蔵の介としての任官です。国司の下の階級になります。経基は強運の人で、武蔵で将門と問題を起こして京都で拘禁されますが、その後に承平の乱が起こり逆にヒーローになります。ここから軍歴になりますが、将門討伐軍の副将に任じられましたが坂東に着く前に将門は討ち取られて途中帰還。続いて天慶の乱に対して純友討伐軍の追捕凶賊使に任じられますが、現地に到着する前に乱はほぼ終息しています。それでも功績は高く評価されたようで、wikipediaより、

武蔵・信濃筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

位階も正四位上まで登っています。タナボタみたいな面は多々ありますが、経基の活躍が清和源氏の土台を造ったぐらいは言えます。この経基の子が満仲です。満仲も父の経基同様、いやそれ以上に如才なく官界遊泳を行っています。満仲は摂関家に接近したのが成功の基のようです。貴族から見れば汚れ仕事的な面で貢献し、その功績を評価されてwikipediaより、

藤原摂関家に仕えて、武蔵国摂津国越後国越前国伊予国陸奥国などの受領を歴任し、左馬権頭・治部大輔を経て鎮守府将軍に至る。

ただやり手過ぎた面もあったようで、

こうした官職に就くことによって莫大な富を得た満仲は他の武士からの嫉妬を受けたらしく、天延元年(973年)には武装した集団に左京一条にあった自邸を襲撃、放火されるという事件が起きている。

源氏は摂関家の爪牙になる事になり栄えたぐらいです。正直なところ経基も満仲も「爽快」には程遠い事績ですが、当時的には成功した皇族の末裔の地位を築き上げたぐらいに理解します。この満仲が晩年に根拠地として定めたのが摂津の多田です。源氏の源流の多田源氏の成立です。


満仲が摂津の多田に本拠を定めた事で満仲も多田満仲と呼ばれたりしています。また多田源氏の呼び名も出来ていますが、満仲の息子の代に分裂と言うより拡大したようです。満仲の嫡男は源頼光。頼光は多田の地を引き継ぎ嫡流を継承しただけでなく武人としても有名です。もっとも有名なエピソードは金太郎こと坂田金時などの四天王を率いての大江山の鬼退治でしょうか。実質的には父の満仲路線の踏襲で摂関家への密着になっています。摂関家道長時代に入っており、頼光も栄えたぐらいの様です。

頼光の嫡流多田源氏と呼んでも良いはずなんですが、これを摂津源氏と呼ぶようです。で、頼光の次弟の頼親は大和源氏、さらに三弟の頼信は河内源氏を起こします。大和源氏は子孫にさして傑出した者が出ず土着化したとされます。傑出した者が出なかったのは本来の本家筋の摂津源氏もそうで、辛うじて歴史に名を残しているのは源三位頼政ぐらいですが頼政摂津源氏の傍流になります。長兄と次兄の家は振るわなかったのですが三男の河内源氏にはトビキリの英雄が出現します。

それとこれは私の憶測に過ぎませんが、摂津源氏多田源氏と呼ばれなくなったのは微妙な嫡流争いの産物の気がしています。「たぶん」に過ぎないのですが多田の名は頼光世代からその次ぐらいまでは、本家の代名詞的な重みがあったんじゃないかと思っています。しかし三男の河内源氏が隆盛になるにつれて相対的に小さくなった元々の本家を多田と呼ばずに摂津とあえて呼びならわしたぐらいを想像しています。


河内源氏三代

源氏と言えば東国のイメージが強いと思いますが、坂東で栄えていたのは桓武平氏です。将門の乱が一番の証拠です。源氏が東国に進出したのは1028年に起きた平忠常の乱になります。忠常の勢力は大きく、討伐軍も撃退されたので河内源氏の頼信に討伐が命じられます。頼信は戦い疲れていた忠常を戦わずして帰順させ、以後坂東の諸豪を数多く配下に納めたとなっています。正確にいつからかの特定は難しいと思いますが、清和源氏嫡流は本来の本家筋の摂津源氏から河内源氏に移ったとして良いかと思います。

次なる飛躍は前九年の役で頼信の息子の頼義・義家が東国の武士団を率いて活躍したものです。さらには後三年の役で義家が伝説的な活躍をしています。とくに後三年の役では朝廷から私戦と当初認定され、従軍した武士たちへの恩賞を義家が私財から支払う羽目にも陥りますが、これが却って東国武士団の源氏への信頼を高めたとされます。それこそ「頼うだ人」の典型として絶大な評価を受けたとされています。

ただ源氏にとっては必ずしも成功とは言えないの評価があります。源氏の真の狙いは奥州への勢力拡張であったとされます。しかし前九年の役では協力者であった清原氏に奥州支配権を譲る結果となり、清原氏の内紛に付け込んで介入した後三年の役でも清原氏の清衡に支配権を譲る結果になります。後三年の役の結果で出来上がったのが奥州藤原氏(清衡は藤原に名乗りを戻した)三代の栄華です。


英雄義家の光と影

清和源氏で指折りの英雄は八幡太郎義家でしょう。その義家の武名を高めたのが父と戦った前九年の役と、自分が介入した後三年の役で良いかと思います。とくに後三年の役で神格化されるほど東国武士の信頼を集めたで良いと思います。実である奥州支配こそならなかったものの、子孫(頼朝)が鎌倉幕府を起こすほどの名を残した功績があるのは間違いありません。さて当時は平安貴族の世の中です。武家の地位は低いですから、義家も有力貴族に従う必要があります。義家が頼ったのは摂関家です。ただ摂関家の栄華は道長が極め、頼通で傾きます。少し年表的にまとめみます。

西暦 源氏系事歴 朝廷系事歴 義家年齢
996 道長左大臣に昇進
1017 頼通、内大臣に昇進し藤氏長者となる
1027 道長死す
1028 平忠常の乱始まる
1030 平忠常の乱終わる *
1039 義家生まれる 0
1051 前九年の役始まる * 12
1062 前九年の役終わる * 23
1068 * 頼通宇治に隠棲、後三条即位 29
1072 * 白河即位 33
1083 後三年の役始まる * 44
1086 * 白河上皇となる 47
1087 後三年の役終わる * 48
1098 義家、正四位下に昇進し昇殿 * 59
1101 次男義親の乱 * 62
1106 義家死す * 67
前九年の役の時は頼通の時代です。しかし後三年の役は反摂関家を鮮明にした後三条の後の白河天皇時代になります。白河は天皇時代の初期は摂関家と協調体制で行います。上皇になってからも堀河天皇時代は後の様な大権力者でなかったとされます。それでも白河院政は1086年から始まっており、その影響力は義家を確実にターゲットにしていたと見られています。まずは後三年の役への対応です。wikipediaより

寛治元年11月に義家は出羽金沢柵にて清原武衡清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌寛治2年(1088年)正月には陸奥守を罷免される。

義家は後三年の役を自分の私財で戦っていた訳でなく、陸奥守として集めた税金で行っています。これを公戦と朝廷が認定してくれれば問題なかったのですが、私戦と認定されたので税金を中央に納める必要が生じます。wikipediaより、

当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。

この状態が10年続く事になります。これは摂関家の爪牙とまで呼ばれた河内源氏の弱体化政策と評価されていますが、たぶん正しいと思います。源氏の本拠は河内であり、源氏が東国に影響力を及ぼせたのは摂関家の力により東国の国司に任命されていたからとも言えます。それが東国の国司どころか官職にさえ就けないとなると本拠地の河内に逼塞せざるを得なくなります。源氏の東国への影響力の減退にもなります。摂関体制から院政体制への転換に対応するために義家は10年の歳月と白河への投資が必要であったと見ます。

義家が純粋の武人でだけあったのか、それとも政治能力も優れた人物であったのかは見方が分かれる様ですが、当時の大権力者である白河には到底かなわなかったのだけは確かそうです。なんとなく晩年の義家は宮仕えに疲弊していた感じがしています。時代がもう少し遅ければ源平合戦の立役者になったかもしれませんし、その気があれば第二の将門になれる可能性もあった気がしますが、ひたすら白河の信頼を得るのに費やしたぐらいに見えてしまいます。


義忠暗殺事件

義家の後継は四男の義忠です。義忠は人物であったようですが、内紛が起こります。義忠は当時勢力を伸ばしていた伊勢平氏と親睦路線を取ります。その路線が気に入らなかったのが義家の弟の義光だったようです。チイとややこしいので主要系図を出しておきます。

ここで注釈ですが為義の出自は2説あり、

  1. 義家の子
  2. 義家の次男の義親の子
どうもハッキリしないようです。どっちとも言えないのですが、事件の経緯から合わせて推理してみます。それと長兄の義宗は早世、次男の義親は乱を起こして戦死、三男の義国は義家に嫌われて相続から外されています。ちなみに相続から外された義国系から足利氏と新田氏が生まれています。つう事で家督は四男の義忠に渡ったわけです。

そういう状態で、どうも事件の大元は義光が家督(と言うより嫡流家、もっと平たく言えば武家の棟梁の座)を狙ったところに始まるぐらいで良さそうです。そのために義忠を暗殺するのですが、義忠を直接義光が暗殺したのでは家督は継げません。そこで義家と不和であった義綱に罪を被せる戦術を取ります。要するに義忠暗殺後に下手人は義綱と告げるみたいなやり方でしょうか。そうやって義忠暗殺犯は義綱になるのですが、当然のように復讐戦になります。

それは武家の習いとして判るのですが復讐戦の大将が為義です。まず最適任者の義忠の息子はまだ幼かったはあります。そうなると次席の適任者になります。ここで補足すれば、復讐戦の大将とは次期当主であると解釈して良いかと思います。当主の継承順はいつも問題になるのですが、おおよそで言うと

  1. 年齢、力量とも適格者である事
  2. 当主の息子が適任者であれば継ぐ
  3. 兄なりが若くして亡くなれば弟が継ぐ
おおよそこんな感じで理解しても良い気はしています。義忠が暗殺された時点では義忠の子は幼すぎて継承から外れます。そうなれば義忠の下の弟の為義が出てくる事になります。ここで義親の息子が出てくるのはチト不自然なところはあります。だから義家の息子としたいところなんですが、系図の名前を見て不自然とは思いませんか。「義」の字を片諱として継承しているのは見ればわかりますが、為義だけ「義」の字が後ろに回っています。別にそうであっても問題ではないのですが、他の兄弟と並べると独りだけ不自然に感じます。

ソースは忘れましたが義家は義親を可愛がり期待していた説があります。義親が謀反人となった時に義家が義親の息子を密かに引き取ったはあり得ると思っています。引き取ると言っても謀反人の子どもですから義家の実子として引き取ったぐらいを想像します。だから為義じゃなかろうかです。実はそうである必要があります。義忠暗殺の目的が義光が家督を継ぐのが目的でなら、義忠暗殺後に為義排除がセットで必要になります。だって義忠を暗殺しても、復讐戦を為義がやれば家督は為義系に流れるだけです。

この為義排除のための切り札が「実は義親の息子だった」じゃなかろうかです。為義の出生の秘密を義光は知っていたと推測します。義忠が死んだ後に「謀反人の息子」として義光が為義を排斥し、本家を乗っ取るのが最終目的であった気がします。この義光の第二の陰謀は義忠暗殺の真犯人が義光である事が発覚し瓦解します。

でもって義忠暗殺事件の結果として、源氏の有力者であった義綱は滅び、義光も常陸に逃亡を余儀なくされ、内紛による勢力の退潮を示すことになります。タナボタで家督を継いだ為義も間違った犯人を討ち滅ぼした点で人気を欠くスタートになります。


為義と義朝

為義は晩年の義家路線で最初は院に接近したようです。出世のライバルは伊勢平氏の忠盛。2人の任官こそほぼ同じでしたが、為義が延々と検非違使で留められたのに対し忠盛は順調に出世コースを歩みます。為義への冷遇は源氏冷遇策の継続もあったかもしれませんが、為義自体の人物にも相当問題があったようです。wikipediaより、

保延2年(1136年)、為義は左衛門少尉を辞任する。これまでの経緯を見ると、実質的には解官に近かったと推測される。保延5年(1139年)、無官となった為義は高野山改革派で鳥羽上皇の尊崇を受けていた覚鑁に名簿を提出し、院の不快を蒙ったことを語り、伺候と任官のための祈祷を嘆願している(『平安遺文』4710、4713〜4717)

そこで為義は院を離れて摂関家に接近します。今度は反省したのかせっせと摂関家に仕え評価をもらいます。でもって7年後に検非違使への復職を果たしています。ちなみにライバルの忠盛は順調に出世して遂には殿上人になっています。


さて為義の息子と言えば義朝なんですが、為義と義朝の仲は良くないと言うよりハッキリ「悪かった」で良いと推測しています。とりあえずwikipediaには、

義朝は少年期に東国(関東地方)に下向したと見られ、上総氏等の庇護を受け同地で成長した。

義朝が関東に勢力を築いた事は有名ですが、なぜに少年期に総領が関東に送られたのだろうを考えたいところです。ここで為義が将来の布石のためにあえて義朝を関東に送り込んだのなら大したものですが、為義がそんな人物には到底見えないところです。もっと単純かつ、感情的に「目障り」ぐらいだったと私は想像します。親子の仲が悪いのは歴史上で「よくある話」なんですが、為義と義朝は本当に親子であったのかに疑問が出されているようです。義朝と為義はそれぐらい接点がない感じです。

だって嫡子であるにも関わらず少年期に関東に送り込まれているのがまずあります。ここもなんですが、だいたい嫡子と言っても生まれた時に決まる訳ではありません。成人して能力を見定めた上で決められるのが当時の慣例です。幼少時に遠国に送られる時点で家督継承レースから外されたと見る事さえ可能です。

あえて推測すれば義朝は1123年生れです。為義が検非違使を実質的に解任されたのが1136年です。為義はその後に院から摂関家に乗り換えを行いますが、この時に義朝が邪魔になったのは考えられます。義朝の母は院側近の娘であり、院から摂関家に乗り換える時に邪魔者扱いされたぐらいは十分にありえます。1136年時点で義朝は13歳ですが、その前から院での冷遇は続いていましたから、もう少し前の時点で摂関家への接近工作を行っていても不思議とは言えないと思います。

準備段階として院との血縁関係がある義朝を関東に放り出し、家の相続者でない事を示したぐらいです。為義が解任されたのは為義の摂関家への接近行動を院側が察知し先手を打たれた可能性もあるかもしれません。院の陰謀はもう少し手が込んでいて、本家の為義への冷遇を続けると同時に関東に流された義朝の支援も同時に行っていたとも考えられます。河内源氏への分断工作です。かくして本当に親子かと思うほどの対立が為義と義朝の間に生じたぐらいはあり得るとは思います。

今までの義朝の個人的なイメージは保元の乱の時に涙を呑んで父の為義と対立し、戦後処理では一族の首を泣く泣く切らされたってのがあります。ただ義朝の生い立ちを考えると為義や自分の兄弟に肉親の情を抱く余地は乏しそうに感じます。血は繋がっていても他人どころか敵の感情が主だった気もします。保元の乱の前に父の代理人とも言える弟を既に攻め殺しているからです。それより何より保元の乱で為義と共同戦線を張る理由、利害関係が何もない気がします。歴史はまだまだ知らない事がたくさんあると思った次第です。


源氏の嫡流

これって頼朝がこねまわした部分が多いの説に賛成します。長幼順の嫡流なら摂津源氏になるはずです。河内源氏は満仲の三男の家系であり本来は傍流になるはずです。しかし子孫の活躍の圧倒的な差で河内源氏嫡流に取って代わっています。まあ、そこまでは家系の盛衰で良いとしましょう。問題は義家の後です。義忠は良いのですが為義はチト微妙にはなります。為義は河内に住まず京都に住んでいたとされ、河内源氏の総帥とは言い難いの主張もあるようです。それを言えば義家だってそうなりそうなので、為義までは河内源氏嫡流は続いていたとしても良いとは思います。

ほいじゃ義朝はどうかになります。義朝の地盤は河内になく関東にあります。そもそも河内との縁は非常に薄い人です。平治の乱で義朝が敗れたのは、清盛との将器の差も当然ありますが、地盤の関東からの兵の動員が十分できなかった点も大きかったとされています。平治の乱で敗れた義朝が関東での再起を期待したのは当然とも言えます。関東まで逃げられたら本当に再起できていたかどうかは・・・歴史の”if”ですが難しかったとは思っています。そんな事はともかく見ようによっては義朝は為義から見れば分家と言うか新家になるんじゃないでしょうか。ですから河内源氏保元の乱で滅び、関東の源氏も平治の乱で壊滅したとも言えます。

ここで頼朝なんですが、徒手空拳で挙兵した頼朝にあるのは血筋だけです。血筋だけが武器ですからこれを飾る必要性があります。頼朝は関東での源氏崇拝は2つの要素があると見たと思います。

  1. 父である義朝が築いたもの
  2. 伝説の英雄である義家が遺したもの
この2つの継承者が頼朝である必要性です。義朝に関しては自分の父ですからエエとして、義家との関係もダイレクトである方が良い訳です。もちろん血としてはつながっているのですが、問題は義朝と為義の対立による系譜の途絶えです。ここは力業でも連綿と続いているとする必要が頼朝には必要であった見ています。そんな頼朝の努力が後世の保元の乱の時の義朝像に投影されているんじゃないかと思っています。