義朝研究7

常陸に手をつけます。


桓武平氏のうち高望流が主流をなすのですが、とりあえず主要部分だけピックアップした系図です。

高望の長男が国香で常陸真壁郡東石田(現在の筑西市)を根拠地にしています。ごく単純には常陸の南部に勢力を広げたぐらいの理解で良いと思います。国香は常陸大掾となりますが承平天慶の乱で将門に殺されます。国香の長男が貞盛で苦心惨憺して将門を討ち滅ぼし、その時の褒美として常陸に多くの所領を与えられたとなっています。貞盛は対将門戦では苦戦の連続でしたが人物としては「なかなか」だったようです。これは子孫の清盛にも通じるところがあるのですが、一族を大切にする点で評価しています。

貞盛は常陸大掾になっていますが関東への土着はしていません。これは都での官界遊泳を志向したとも言われますが、もう一つ将門を討ってはいますが坂東平氏の棟梁に推戴もされなかった(平たく言えば人気が出なかった)からとも言われています。そのためか父の国香以来の常陸の地盤を弟の繁盛の三男の維幹を養子にして譲っています。貞盛は一族の子どもを次々に養子に迎えたようで、繁盛の次男の維茂も養子にしています。維茂は余五将軍とも呼ばれた人物ですが、これは貞盛の養子も含めた15番目の子どもの意味(養子も含めて全部で18人いたとも言われています)とされています。貞盛がこれほど養子を取った意味ですが、弟の繁盛だけならなんとなく意味が分かります。

承平天慶の乱で貞盛はその手柄を高く評価されていますが、一緒に戦った繁盛への褒美は少なかったそうです。繁盛はこの事に不満があったそうですが、貞盛は繁盛の子を養子に取ることで一族の懐柔と宥和を図っていた気がします。その結果の一つが常陸の所領を繁盛の三男の維幹に譲った事に見えます。この維幹の子孫が国香以来の常陸大掾世襲し後に大掾氏として常陸に大きな勢力を伸ばすことになります。

貞盛は常陸大掾陸奥守、丹波守、鎮守府将軍などを歴任し従四位下左馬允まで出世しています。でもって詳細は良くわからないのですが伊勢に所領を得たようです。関東は平忠常の乱を鎮圧した源頼信前九年の役源頼義、、後三年の役源義家河内源氏の進出が強くなり、土着していた平氏一族も河内源氏の家人になっていったとされています。そういう河内源氏の下風に入るのを好まなかった平氏の一族が貞盛の伊勢に集まったとも言われています。貞盛の跡に伊勢を継いだのが四男の維衡、続いて正度、後は正度の五男の正衡の曾孫が清盛になります。


系図で示したかったのは清盛の系統と常陸大掾氏との距離です。たしかに同じ国香の血統ではありますが、かなり前に常陸平氏伊勢平氏は枝分かれしている事が判ると思います。 清盛の系統も伊勢平氏の中では嫡流と言うより庶流になります。要するに遠くの親戚ってことです。それでも常陸平氏伊勢平氏は親戚づきあいが「どうも」あったようです。もちろん平氏全盛の頃には常陸平氏は下風に立っていましたが、広義の宗家として伊勢平氏常陸平氏を引き立てていたぐらいは言えそうな関係です。

だからなんだと言われそうですが、ここまで河内源氏の事をそれなりにムックしていましたが、ここまで血流が離れれば源氏では他人も同様の気がします。つうかもっと近い関係でも激しい相克の歴史が確実にあります。伊勢平氏は清盛の系列だけではなく、伊勢平氏全体が栄達を遂げていますし、高望流とは別系統の高棟流の平氏もまた引き立てられています。これはもう源氏と平氏の違いとしか言いようがない気がします。そこまで一族の結束が強い原因の一つとして貞盛の宥和政策がなんとなくあった気がしています。もっとも限界はあって、高望流で関東に広く土着し勢力を広げた良文流は伊勢平氏の隆盛とは無関係です。これまたなんとなくですが、坂東の平氏河内源氏の関東進出時に二分された気がします。源氏の下風についた平氏とそれを嫌った平氏です。

私は神戸の人間ですから平家贔屓がどうしても強いのですが、一門の結束と言う意味では平家がはるかに好きです。治承の乱では平家側は敗北の歴史を残してはいます。それでも整然と都落ちをやり、一の谷に大勢力を盛り返し、屋島で敗れてもなお壇ノ浦で決戦を挑めるだけの結束力があった平家が好きです。そういう平家があったからこそ平家物語は不朽の名作になり、源平合戦は永遠に語り継がれていったのだと思っています。


義光の事績ですがまずwikipediaから、

左兵衛尉の時、後三年の役に長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦していると知るや、完奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(1087年)に官を辞して陸奥に向かった。義家と共に金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。

後三年の役で義家の苦戦を知って官を辞して駆けつけた話は源氏の美談として残されています。この東国下向の時に笙の秘曲を足柄山で伝えた話は古今著聞集や時秋物語に記されています。このwikipediaの記述を読んで「あれっ」と思ったのは後三年の役後の義家と義光の処遇の違いです。後三年の役は義家の勝利にはなっていますが、朝廷からは私戦と認定され、軍費に使った税金の支払いを命じられれ、これがなかなか義家は払えず官職から10年ぐらい遠ざけられる結果になっています。それに対し義光は「どうも」常陸介、甲斐守と受領を歴任しているように見えます。この歴任順はあれこれ読んでも「常陸介 → 甲斐守」なんですが甲斐守時代の記録は殆ど残っていない様です。

最終的に義光が根拠地として選んだのは選んだのは常陸だったようでwikipediaより、

常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。

系図を出してきますが、

義光と常陸源氏の関係はwikipediaより、

義業がこの地に勢力を据えることができた理由は、母および彼の妻がこの地の有力豪族、常陸平氏の吉田清幹(成幹の父)の娘であったことによる。

義光も義業も常陸平氏の吉田氏の娘を妻としている事がわかります。義光が清幹の娘を娶ったかどうかなんですがwikipediaには

清幹は義業の弟で自分の外孫でもある源義清と悶着を起こしており、これが切っ掛けとなって義清は甲斐に追放され甲斐源氏が誕生している。

ややこしいのですが、義光が清幹の娘を娶っていれば義光は清幹の子になり、義光の子は清幹にとっては外孫になります。やはり義光も清幹の娘を娶ったようです。この義光と常陸平氏の関係ですが系図を出しておきます。

常陸平氏嫡流家は多気氏を名乗ったようです。でもって重幹の子の時に出来たのが清幹を祖とする吉田氏のようです。この吉田清幹の時代に義光は常陸に入り込んできたぐらいの理解で良いようです。吉田氏と義光は強い関係を持ち、常陸合戦でも協力しています。義光が清幹の娘を娶った年は不明なんですが、長男の義業が生まれたのが1077年ですから1075〜1076年頃と推測できます。義業の妻も吉田清幹の娘でその子の昌義が後を継ぐのですが、昌義の妻は藤原清衡の娘です。そうあの奥州藤原氏の娘です。



・・・とwikipediaの記述を必死になってかき集めていたのですがどうも違うようです。年表を作ってみます

西暦 事柄 義光年齢
1045 出生 0
1077 長男義兼誕生 32
1081 嫡孫昌義誕生 36
1087 後三年の役参戦 42
1099 第1部常陸合戦 54
1106 第2部常陸合戦 61
1109 義忠暗殺事件 64
1118 嫡曾孫隆義誕生 73
1127 死去 82
常陸平氏と婚姻関係を結んだのは後三年の役の前、それも10年以上前になります。そうなってくるとwikipediaにある

義家と共に金沢棚で武衡・家衡を倒して京に帰り、刑部丞に任ぜられ、常陸介、甲斐守を経て、刑部少輔、従五位上に至った。戦後、常陸国の有力豪族の常陸平氏(吉田一族)から妻を得て、その勢力を自らの勢力としていく。

この記述が微妙になります。wikipediaには後三年の役の後に常陸介、甲斐守を歴任したとなっていますが、そこから常陸平氏との婚姻政策をやっていたのなら42歳以降になります。そこまで子どもが出来ていなかったのかの疑問が当然出て来ます。義光が常陸介になっていた時期をwikipediaで探しても

源義光 - 1045年(寛徳2年)から1127年(大治2年)11月25日(10月20日) までの間のいずれか。

つまり常陸介はやったのは間違いないが、いつやっていたかは不明みたいです。また義業も吉田清幹の娘を娶り昌義が出来たとなっていますが、義業と昌義の歳の差はわずかに4歳です。そうなると

  1. 後三年の役の前に既に常陸介をやっていた
  2. 義業と昌義は兄弟で母が吉田清幹の娘である
こう解釈する方が妥当な気がします。義業の妻も吉田清幹の娘だったかもしれませんが、そうなってくると系図上は義光の曾孫になる隆義が微妙になります。隆義の母は藤原清衡の娘です。隆義は三男で長男の忠義は忠幹と名乗りを変えて吉田氏の当主となっています。wikipediaより、

昌義の子のうち長男の忠義(忠幹)は外曾祖父の平清幹が棟梁となっている大掾氏の後を継ぎ、佐竹氏は三男の隆義が継承した。

ここも考え直すと、

  1. 長男の忠義は吉田清幹の娘の子である
  2. 三男の隆義は藤原清衡の娘の子である
正室は清衡の娘で、清幹の娘は側室であったと見れる気がしてきます。ここで清幹は吉田氏の初代です。吉田一族と言ってもまだ清幹の子とかせいぜい孫程度しかいません。でもって義光は清幹の娘の子を嫡子にしています。ところが子の義業の時代には清幹の子は側室扱いであった可能性があります。ここも凄くうがって考えると忠義もまた義光の子であった可能性が出て来ます。義光は吉田氏を婚姻政策によって取り込み、吉田氏の当主に自分の子どもを据えてしまったんじゃなかろうかです。そうやって吉田氏を取り込んで常陸源氏勢力を拡張したぐらいです。

どうにも義光の事歴には謎が多すぎて、この程度しか判明しなかった事を遺憾とします。ただ義光と吉田氏の結びつきは、義光と伊勢平氏のパイプを強くしたのであろう事は間違いないと思います。義光の直系として良い佐竹氏は平治の乱後に平家の力を背景に相馬御厨に介入し、治承の乱の時に頼朝と敵対関係に至るからです。


ついでの甲斐源氏

wikipediaより

清幹は義業の弟で自分の外孫でもある源義清(義清は武田郷に因んで武田氏を称したことで知られているが、清幹の玄孫である勝盛も同地に因んで武田氏を称している)と悶着を起こしており、これが切っ掛けとなって義清は甲斐に追放され甲斐源氏が誕生している。

各種資料には勅勘によって義清・清光の親子は甲斐に配流されたとなっています。年代についてはwikipedia

大治5年(1130年)に清光の乱暴が原因で周辺の豪族たちと衝突し、裁定の結果常陸より追放され、甲斐に配流される(積極的進出とも)。

義清は常陸の武田郷に住んでいたので武田の冠者とも呼ばれていたそうですが、甲斐の武田の氏名の由来が常陸の武田であるとは初めて知りました。義清の後が清光か信義かについては議論もあるようですが、清光の子が信義になります。甲斐源氏常陸源氏の分流になりますが、地理的に離れており協力関係を結んだのは義国だったようです。wikipediaより、

清光も武田郷で生まれる。1124年(保安5年)、源義国の加冠によって15歳で元服

とりあえずこんなんもので。ちょっと付け加えると義光と常陸平氏の関係が上で推測した様なものなら、義光の吉田氏乗っ取り計画に大掾氏の宗家たる多気氏が不安を感じて動いた結果とも見えるのですが、ここもまたこれ以上はわかりません。