源経基ムック

 小説連載の関係で時期がずれるのは御容赦頂きたいのですが、秋のハイキングで前から行ってみたかった多田神社を訪れました。多田神社は古くは多田院であり、さらに始まりは源満仲が本拠地を構えたところで清和源氏の発祥地とされるところです。鎌倉・室町・江戸の三幕府の庇護を受けて現在の建物は徳川家綱、徳川綱吉によるものです。

 土地柄戦災には無縁のところで江戸期の再建の建物がほぼ残っています。江戸期には西日光とも呼ばれたそうですが、本家の日光の華美さはなく、シックなつくりとなっています。

 祭神は満仲、頼光、頼信、頼義、義家ですが、もともとは満仲と頼光の廟所で、室町ぐらいの改修時に頼信、頼義、義家が加わったと考えています。そりゃ頼信、頼義、義家は河内源氏ですからね。清和源氏の系譜は、清和天皇の第六皇子の貞純親王になりますが、系図的には、
     貞純親王 - 経基 - 満仲
 貞純親王の息子の経基が臣籍降下して源氏がスタートしたことになります。経基が歴史に登場するのは承平天慶の乱の時で簡便にwikipediaより、

太政大臣・藤原忠平の治世下の承平8年(938年)、武蔵介として現地に赴任する。同じく赴任した武蔵権守・興世王と共に赴任早々に検注を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否したために、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った。

 938年に武蔵介として登場します。この後は将門に追い払われて都に逃げ帰り讒訴するも逆に将門側に敗れ捕まっています。しかし将門が反乱を起こしたために逆に手柄とされ将門討伐に向かうも、坂東に到着する前に将門は敗死し引き返し、続く藤原純友の乱の鎮圧に向かうも、行った頃には乱はほぼ終息し小物を一人捕まえた程度の活躍で終わっています。

 なんとも冴えない活躍ですが、間違いなく実在の人物です。承平延慶の乱の後にはwikipediaより、

武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。

 鎮守府将軍は当時の武家の最高位とされているものです。だからなんだと言いたいのですが、息子である満仲との関係に謎があります。まず満仲の生没年ですが、

    出生:912年
    没年:997年
 これは正しいと見て良さそうです。一方で経基は生没年に諸説あります。没年例については尊卑分脈と勅撰作者部類の享年44とあるそうなのでこれを参考に表を作ると、
論拠 没年 生年 満仲誕生時 938年時
尊卑分脈 961 917 -5 21
勅撰作者部類 958 914 2 24
藤田佳希 945 901 11 37
系図纂要 941 897 15 41
一本武田系図 937 893 19 45
諏訪家譜 934 890 22 48
 たしかに矛盾の山がテンコモリです。まずですが経基の子は多く、wikipediaに書かれているだけで八男二女で満仲は長男です。さらに承平天慶の乱の後に国司と鎮守府将軍の任期を二年ずつとしても12年あります。当時のことですから 系図纂要の15歳でも結婚して子どもが出来ても良さそうなものですが、それでも承平天慶の乱の時は41歳で国司歴任の期間がなくなってしまいます。

 研究者もこの辺に困っているようですが、見ていると一番困っているのは尊卑分脈と勅撰作者部類の享年44の気がします。これを外したら話が通りやすくなるような気がします。つまりは

    もうちょっと長生きした
 没年については、経基の墓は満仲が京都に六孫王神社を建てて祀っています。そこの社伝にはwikipediaより、

社伝では、境内は源経基の邸宅「八条亭」の跡地であるといい、応和元年(961年)に経基が臨終の際に「死後は龍神となって邸内の池に住んで子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」と遺言したという]。そして、応和3年(963年)9月に嫡子の満仲が現社地に経基の墓所を建立し、その前に社殿を造営したのが当社の創建であるとしている 

 ここから見ると尊卑分脈の961年説が正しいことになります。そこで満仲が産まれたのを一本武田系図の生年を893年説にすれば19歳にすれば「そんなもの」になります。当然のように享年は69になりますが、当時でもそれぐらいは長生きしても構わないと思います。

 この仮説の都合の良いところは経基の父である貞純親王の年齢にも関わってきます。貞純親王の没年は916年です。尊卑分脈では貞純親王の死後に経基が産まれたことになってしまいます。

 この仮説の問題点は経基が武蔵介になったのが45歳になることです。当時的には高齢でしょうが、皇族の二世王と言えども冷飯だったと見てよい気がします。当時の政界の実権を握っていたのは藤原氏で、権力闘争の争点は、

    誰を皇位に就けるか
 皇位争いに関係する皇族には有力な後ろ盾が付きますが、第六皇子の貞純親王は蚊帳の外だと思います。それでも親王だったのでwikipediaより、

親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿・兵部卿を歴任したが、位階は四品に留まった。

 品位は親王・内親王に授けられる位階ですが、一品から四品までで、その一番下です。もっとも無品もあったそうですから、無いよりマシ程度です。経基はその息子ですからさらに冷飯であったとしてもおかしくない気がします。

 経基が優れていたのは承平天慶の乱の功績のアピールだった気がします。この乱の功労者は東は藤原秀郷、平貞盛、西は小野好古ですが、そこに上手く割って入ったぐらいでしょうか。この辺は武蔵介になるまでに苦労人の一面があったのかもしれません。

 そんなことを考えていたハイキングでした。