以仁王の令旨

治承寿永の乱の最後の引き金を引いたのは「以仁王の令旨」なのは有名です。有名なんですがどういう背景でこれが出て来たかの知識が個人的に曖昧だったので知識整理です。


まず前に作った系図を再掲します。

おさらいなんですが、鳥羽天皇白河院政時代に相当な圧迫を受け、父である白河法皇に深い恨みを抱いたぐらいの理解で良いかと思います。鳥羽上皇の主な奥さんは待賢門院と美福門院になりますが、ここも理解を単純化して、

もっと単純には白河死後には鳥羽上皇は美福門院の子どもを依怙贔屓したぐらいの理解で良いかと思います。そのために待賢門院の子である崇徳天皇を退位させ、美福門院の子である近衛を皇位に就けます。ところが近衛は若くして亡くなり、後継は後白河になります。ここも綾があって、後白河の子である二条は美福門院に養育され、美福門院が二条を皇位に就ける事を強く望んだ背景があります。美福門院にすれば後白河には愛情もクソもなかったにせよ、父を飛び越して二条を皇位に就けるのは無理があり、やむなく中継ぎに後白河を擁立したぐらいになります。冷遇された崇徳が暴発したのが保元の乱ですが、後白河も譲位を余儀なくされ二条が皇位に就くのが平治の乱までの流れになります。

八条院系図に書いていませんが近衛の同母姉になります。つまりは美福門院の娘です。八条院は鳥羽に可愛がられ鳥羽から安楽寿院領を貰い、さらに鳥羽の遺領の多くを受け継いだ美福門院からも遺産として受け継いでいます。合わせて八条院領と呼ばれるそうですが、全国に二百数十カ所の荘園を持っていたとなっています。八条院はその血統と圧倒的な経済力により平治の乱後の平家台頭時代にも大きな発言力、影響力を有していたとなっています。頼政挙兵の時のエピソードをwikipediaから、

八条院以仁王の子女(生母は八条院女房)を自身の御所で匿っていたが、清盛も社会的な反響を恐れて結局は以仁王の男子を出家させることを条件に女院の行為を不問にせざるを得なかった。

清盛も八条院には一目置いていたぐらいの理解でも間違いとは言えないかと思います。


少し時代を戻しますが、二条は親政を行い後白河の院政を許しませんでした。二条崩御後に立てられた六条は1歳、ここで院政復活を目論む後白河は清盛と手を組み4歳の六条を譲位させ高倉天皇を立てます。高倉天皇は平滋子(建春門院)の子になります。ここも系図が必要なので示しておくと、

見ればわかるように二条、以仁王、高倉は異母兄弟です。六条から高倉への継承は後白河と清盛のタッグで実現しています。ここで注釈ですが建春門院こと平滋子です。彼女は「平」姓ではありますが清盛の娘ではありません。いや伊勢平氏の娘でもありません。いわゆる平家はおおよそ伊勢平氏を指しますが、もう一つの系統も入ります。堂上平氏とも言われる高棟王系列の平氏です。有名なのは時忠ですが、建春門院は時忠の父の時信の娘、時忠の異母姉にあたる人物になります。

以仁王の母の藤原成子は閑院流の出です。母の出自としては申し分ないのですが、時の実力者である後白河と清盛に手を組まれては異母弟である高倉が天皇になるのは致し方ないと後世の外野は感じます。後白河にはこの3人の他にもテンコモリの息子・娘がいるのですが殆どが仏門に入っています。以仁王も異母弟の高倉が天皇になった時点で出家するのも選択であったとの説は妥当そうですが、以仁王皇位への願望を持ち続けたとされます。そこで行ったのが八条院への接近です。以仁王八条院の猶子になることで、八条院の後ろ盾で皇位継承を狙い続けたぐらいに解釈して宜しいようです。

とはいえ以仁王はさほど重視された存在ではなかったようで、wikipediaより、

仁安元年(1166年)、母方の伯父である藤原公光が権中納言・左衛門督を解官されて失脚したことで、以仁王皇位継承の可能性は消滅し、親王宣下も受けられなかった

wikipediaの記述にも混乱があるようで、1166年とは六条天皇即位の翌年です。この時点で皇位継承レースから事実上脱落していたにも関わらず、以仁王皇位への願望を捨てきれなかったとしか言いようがありません。この辺については微妙なんですが、猶子となった八条院の意向が微妙そうな気がしています。八条院以仁王を可愛がっていたようで、それがいつしか以仁王皇位に就ける願望に変わった気配があります。有名な以仁王の令旨は全国に満遍なくばら撒かれた訳ではなく、八条院領を中心に伝えられています。以仁王の挙兵後にその子どもを匿ったエピソードと合わせて八条院の協力がった説はあるようです。


以仁王が令旨を出したタイミングですが、

西暦 月日(旧暦) 事柄
1179年 11月 治承3年の政変
1180年 2月 安徳天皇即位
4月9日 令旨を出す
4月27日 行家が頼朝に令旨をもたらす
5月15日 陰謀露見
5月26日 頼政戦死
こんな感じなのですが、以仁王安徳天皇即位により完全に皇位継承の望みが絶たれての決起つうよりも、京都の官界世論が反平家に傾いた瞬間を見計らって動いたぐらいでしょうか。平家を打倒し、自分が皇位に就くぐらいの目論見です。では何故に頼政がこれに加担したかは結構謎が残るようです。保元・平治の乱で勢力をすり減らした源氏の中で長老的な地位にあったのは確かですが、もう76歳です。頼政は三位になることを一つの願いとして隠居もせずに頑張り、1178年に待望の従三位に昇進しています。これにはwikipediaより、

史実でもこの頼政従三位昇進は相当破格の扱いで、九条兼実が日記『玉葉』に「第一之珍事也」と記しているほどである。

これには清盛の計らいが大きかったとされますが、頼政はこれを恩と感じず1171年に正四位下に昇進してから7年も待たされた事で清盛に恨みを抱いていたんでしょうか。頼政の挙兵の動機としてwikipediaには、

  1. 平家物語』では仲綱の愛馬を巡って清盛の三男の平宗盛がひどい侮辱を与えたことが原因であるとし、頼政は武士の意地から挙兵を決意して夜半に以仁王の邸を訪ね、挙兵をもちかけた
  2. 代々の大内守護として鳥羽院直系の近衛天皇二条天皇に仕えた頼政が系統の違う高倉天皇安徳天皇の即位に反発した
  3. 以仁王との共謀自体が頼政挙兵の動機を説明づけようとした『平家物語』の創作で、5月21日の園城寺攻撃命令に出家の身である頼政が反抗したために、平氏側に捕らえられることを恐れて以仁王側に奔った

ちなみに吾妻鏡には、

4月9日 辛卯

入道源三位頼政卿、平相国禅門(清盛)を討滅すべき由、日者用意の事有り。然れども私の計略を以て、太だ宿意を遂げ難きに依って、今日[夜に入り、子息伊豆の守仲綱等を相具し、密かに一院第二宮の]三條高倉の御所に参る。前の右兵衛の佐頼朝已下の源氏等を催し、彼の氏族を討ち、天下を執らしめ給うべきの由これを申し行う。仍って散位宗信に仰せ、令旨を下さる。而るに陸奥の十郎義盛(廷尉為義末子)折節在京するの間、この令旨を帯し東国に向かう。先ず前の兵衛の佐に相触るの後、その外の源氏等に伝うべきの趣、仰せ含めらるる所なり。義盛八條院の蔵人に補す(名字を行家と改む)。

問題点は摂津源氏である頼政河内源氏との関係です。頼政保元の乱で後白河側に付き、平治の乱では清盛に味方しています。だから頼政は生き残ったのですが、たとえば頼朝にとっては父の仇の片割れの立場にもなります。つうか、源氏は平家と違い一門の結束は緩いというか、骨肉の争いが日常茶飯事ですから、結果としての源氏の長老である頼政の呼びかけに、関東に広がっている河内源氏系統の者たちが応じるか否かです。つまり頼政の企画だとして、別流の河内源氏の協力などアテにするだろうかです。一方で独力でとなると頼政の動員できる兵力は平家と比べ物になりません。頼政平治の乱の義朝や義平の末路を見ているからです。

ただそうは以仁王は考えていなかったかもしれません。ここで以仁王が現実的にアテにした勢力はどこかになります。wikipediaより、

安徳即位直後の3月に1つの事件が発生している。それは、園城寺の大衆が延暦寺興福寺の大衆に呼びかけて後白河・高倉両院を誘拐して寺院内に囲い込み、朝廷に対して後白河法皇や前関白基房の解放、そして平家討伐命令を要求しようとした。

園城寺が反平家として動いていたと見て良さそうです。現実にも以仁王は陰謀が発覚した時に園城寺に逃げ込んで一時的には保護されています。どうも以仁王が描いていたクーデター戦略は、

  1. 園城寺延暦寺興福寺などの僧兵兵力で反旗をまず翻す
  2. 続いてそこに諸国の源氏を呼び集める
これぐらいじゃないかと推測します。この時にとりあえず一番身近な源氏は頼政率いる摂津源氏であり、諸国の源氏勢力への呼びかけは摂津源氏が適役と判断したぐらいにしか思えません。でもって以仁王の令旨の内容として伝えられているのが、

下  東海東山北陸三道諸國源氏并群兵等所

   應早追討芿盛法師并從類叛逆輩事

 右、前伊豆守正五位下朝臣仲綱宣。奉

 最勝王勅偁。芿盛法師并宗盛等、以威勢起凶徒亡國家、惱乱百官万民、虜掠五畿七道、幽閉皇院、流罪公臣、断命流身、沈淵込樓、盜財領國、奪官授職、無功許賞、非罪配過。或召鈎於諸寺之高僧、禁獄於修學之僧徒。或給下於叡岳絹米、相具謀叛粮米、断百王之跡、切一人之頭、違逆帝皇、破滅佛法、絶古代者也。干時天地悉悲、臣民皆愁。仍吾爲一院第二皇子。尋天武天皇舊儀、追討王位推取之輩、訪上宮太子古跡、打亡佛法破滅之類矣。唯非憑人力之搆、偏所仰天道之扶也。因之、如有帝王三寶神明之冥感。何忽無四岳合力之志。然則源家之人、藤氏之人、兼三道諸國之間堪勇士者、同令与力追討。若於不同心者、准芿盛法師從類、可行死流追禁之罪過。若於有勝功者、先預諸國之使節、御即位之後必随乞可賜勸賞也。

諸國宣承知、依宣行之。

治承四年四月九日
  前伊豆守正五位下朝臣仲綱

これが本物と同文かどうかは議論もありますが、とりあえず注目しておきたいのは仲綱の名で出されているところです。前伊豆守としているのは頼政家督を譲られた時に知行国主も譲られたからだと思います。ここに仲綱が名前を出していると言う事は仲綱は以仁王の陰謀に加担していたことになります。仲綱が加担していたのなら父の頼政も当然加担していたと取りたいのですが、なんとなくそうでなかった気がしています。以仁王一派は頼政と清盛の仲を危惧したぐらいの可能性です。だから頼政には伏せていたんじゃなかろうかです。

頼政が打ち明けられたのは、wikipediaより、

当初平家方は乱の首謀者が頼政であることを把握しておらず以仁王追捕のために招集した検非違使の中に兼綱を含めていた。兼綱は頼政にこの動きを急報。これを受けた頼政は至急以仁王園城寺に移し、事件は一気に急展開を見ることになる

この時に初めて頼政が知った可能性もあると見ています。結果としては似たようなものですが、仲綱までがそこまで以仁王の陰謀に深入りしているのなら、今さらどうしようもないとの判断ぐらいでしょうか。この辺の日程ですが、

日付 事柄
4/9 令旨を出す
5/15 陰謀発覚。以仁王園城寺に逃げる
5/21 頼政園城寺に合流
5/25 園城寺脱出、興福寺に向う
5/26 宇治にて合戦
5/15に以仁王園城寺に逃げてから頼政が合流するまで6日かかっています。当然ですがこの間は兵を呼び寄せていたと考えたいところです。頼政の本拠は摂津の渡辺ですから、急場であってもそれなりの招集は可能な気はします。ところが集まった兵は玉葉の5月26日の記録の中に

官軍猶追之、於(綺)河原打取頼政入道、兼綱等了、其間彼是死者太多、蒙疵之輩、不可勝計敵軍僅五十余騎

ここは頼政軍はわずか50騎しかおらず、とても勝ち目がなかったとしています。ちなみに平家方は

検非違使景高(飛騨守景家嫡男)、同忠綱(上総守忠清一男)等巳下、士卒三百余騎遂責之

どうも追手であった平家軍が300人、平等院で迎え撃った頼政軍が50人ぐらいであったと見て良さそうです。ここは園城寺からの逃亡の途中で脱落したとの見方も可能ですが、頼政が宇治にたどり着いた時には50人しか残っていないのはチト少なすぎる気がします。園城寺からの脱出は敗走と見れない事もありませんが、目的地の興福寺にはそれなりに期待できる状況ですから、目減りしたにしても激しすぎる気もしないでもありません。これは頼政が集められた兵がもともとそれぐらいしか無かった気がします。

もし頼政が本格的に挙兵計画を進めていたら、もうちょっと集まるんじゃないでしょうか。まあ、これだけではなんとも言えませんが、頼政の加担はギリギリの段階での苦渋の決断の気が私にはしています。


令旨の威力

以仁王の令旨で注目しておきたいのは

若於有勝功者、先預諸國之使節、御即位之後必随乞可賜勸賞也。

(もし勝功有るに於いては、先ず諸国の使に預かり、兼ねて御即位の後、必ず乞いに随い勧賞を賜うべきなり。諸国宜しく承知すべし。宣に依ってこれを行う。)

堂々の即位宣言です。ただこれだけなら宇治で以仁王が死んだ時点で空証文になります。しかし史実では令旨により東国の源氏が蠢動する事にあります。つうか親王宣下さえ受けていない以仁王が本当に即位すると諸国の源氏は考えたのでしょうか。この令旨が歴史を動かしたのは他の理由があると考えています。どう考えても皇位継承レースの敗者である以仁王が呼びかけたぐらいで平家への反旗を翻すと思えないからです。この以仁王の令旨には裏書きがあったんじゃないかと考えています。

そう考えると浮かんでくるのは八条院の存在です。そもそも令旨が伝えられたのは八条院領が中心です。見ようによっては八条院支配下の武者に対する決起を促していると見えなくありません。八条院は清盛さえ遠慮するほどの実力者ですから、以仁王ではなく八条院だから呼応したぐらいの考え方です。八条院が猶子とした以仁王を可愛がっていたのもあるでしょうが、八条院は女性であり、誰か男性の首謀者が必要だったので以仁王を持ち出したぐらいの見方です。いや六条院と後白河の仲は悪くなかったの説もありますから、院宣と同等の価値、つまり後白河の意向と受け取ったぐらいかもぐらいです。

ただこの説の難点は女性である八条院がそこまでのアクションを起こすだろうかです。そこの点を考え直すと、以仁王八条院を抱き込んだのかもしれません。いずれにしても、この令旨一本で機会を待っていた東国の源氏が動き出したのは史実としか言いようのないところです。つうより、もっと現実的に頼政の挙兵により源氏の動向に不安を覚えた清盛がリアクションを起こした反動、いや清盛が反応するとの観測で動き出してしまったぐらいの見方の方が良い気がしています。吾妻鏡にある

6月19日 庚子
散位康信が使者北條に参着するなり。武衛閑所に於いて対面し給う。使者申して云く、去る月二十六日、高倉宮御事有るの後、彼の令旨を請けるの源氏等、皆以て追討せらるべきの旨、その沙汰有り。君は正統なり。殊に怖畏有るべきか。早く奥州方に遁れ給うべきの由存ずる所なりてえり。

それなら令旨に便乗して、いっそのこと反旗を挙げように踏み切らした・・・のですかねぇ。