源満仲ムック

 経基を清和源氏の初代とすると二代は満仲になります。ちょっと気になったのが経基の息子たちですが、

    満仲、満政、満季、満実、満快、満生、満重、満頼

 諱に「満」が付けられています。経基の「経」も「基」も使われていません。満仲の息子は、

    頼光、頼親、頼信、頼平、頼明、頼貞、頼範、頼尋
 諱に「頼」が付けられており「満」は消えています。諱は片諱と言って父親の片方の諱を受け継ぐパターンが多いのですが、コロッと変わっているのは面白いところです。

 前回の経基の生没年を追った時に40歳代になって武蔵介になるのは遅いの見解がありました。たしかに早くはありませんが、満仲の登場も遅いのです。wikipediaから年表を作ると、

AD 経基 満仲 出来事
893 0 * *
912 19 0 *
938 45 26 経基武蔵介
941 48 29 承平天慶の乱終わる
960 67 48 満仲初見
961 68 49 経基死去、満仲邸襲撃事件
965 * 53 天皇の鷹飼
969 * 57 安和の変、正五位下

 48歳の時に将門の子が京都に侵入したの噂があって、捜索を命じられた武士の一人として名が残されているようです。この頃は左馬助であったようですが、満仲の登場は遅いなんてものじゃないのがわかります。

 経基と満仲の事歴を調べていて気になったのは承平延慶の乱の時の満仲の働きです。年齢的には26~29歳と申し分はないのですが、さっぱり記録に残っていません。左馬助になっていたのは確実そうですが、満仲の官位は安和の変の後にやっと正五位下です。地下だった時期が長かった気がしています。

 安和の変については興味のある方は調べてもらえば良いのですが、この時の働きによって摂関家の爪牙としての地位を得て、これが後の河内源氏の台頭のキッカケになったと見て良さそうです。

 満仲の雌伏の時代に何をしていたかは記録になさそうですが、どうも父経基の遺産を使って地盤固めをやっていた気がします。満仲は多田に本拠地を置いて大きな武士団を形成するのですが、安和の変の功で作り上げたのではなく、満仲が作り上げた武士団の力の追認じゃないかです。

 満仲は記録上で二度ほど邸を襲撃されていますが、これは襲撃されるほどの恨みを買っていたのと、襲撃したのは武家のはずです。満仲には著名な合戦での活躍の記録は残されていませんが、その辺の傍証として、晩年に満仲が出家した時にwikipediaより、

この出家について、藤原実資は日記『小右記』に「殺生放逸の者が菩薩心を起こして出家した」と記している。

 殺生放逸な者とは都でも有名なほど小さな合戦を繰り返したいたと受け取りたいところです。合戦の目的は自らの所領拡大のためもあったでしょうが、寄親として数多くの寄子を保護する合戦も多々あったのではないかと考えています。イメージとしては、

    多田の大親分

 こんな感じで畿内に君臨したぐらいです。満仲がどれほどの勢力を築き上げたかは相続がわかりやすくて、

    頼光・・・摂津源氏
    頼親・・・大和源氏
    頼信・・・河内源氏
 桓武平氏が坂東で勢力を広げたように清和源氏も畿内で大勢力を築く基になったぐらいと考えています。満仲の京都での出世は遅かったですが、それまでは畿内の他の武士団との抗争に明け暮れ、武力を蓄えていたと見たいところです。

 そういう武士集団の形成と実力を満仲がどこで学んだかというと、若き日に参戦した承平天慶の乱かもしれません。満仲の出自では京都での出世は高が知れています。そこで出自以外の力の源泉を武力に求めたぐらいです。

 時代的には貴族政治から武家政治への夜明け前ぐらいですが、そこまで満仲に見えていたのか、たまたまそうだったのかは知る由もありません。ただ畿内の武士も坂東の武者同様に自分の土地を守ってくれる庇護者の登場を待ち望んでいた機運はあったとしてもおかしくありません。

 将門は坂東での新政権路線を選び敗北したのを見ているので、満仲は京都との協調路線を取りながら自分の寄子の保護政策を行ったぐらいでしょうか。

 これも多田神社に参拝した時に知ったのですが、多田の摂津源氏の御家人の結束は相当堅かったようです。そりゃ、今でも新しい玉垣に「御家人」と誇らしく刻まれているぐらいですからね。