義朝研究6

今日は残りの上野、下野、常陸をやるつもりでしたが源義国になってしまっています。ちょっと話にブレがあるのはそのためだと思って下さい。さてなんですが北関東となると東北自動車道を通り抜けたことが1度あるのみで、常陸には行った事もありません。ほぼ完全に知らない土地になります。関東の旧分国の配置をここでおさらいしときたいのですが、

旧国(令制国 都道府県
「上野 = 群馬」「下野 = 栃木」は良いのですが、下総がかなり変わっていまして北部が茨木に編入されているようです。武蔵は南部の横浜あたりが神奈川に編入された上で北部が埼玉、南部が東京ってな感じです。つまりと言うほどのものではありませんが、武蔵と常陸は直接国境を接しておらず、一方で下野と下総は直接国境を接している事になります。個人的に下総の広がりが曖昧だったので地図上で再確認したかった次第です。こういう旧分国を頭に置いた上で地形図を示します。

東山道信濃から碓氷峠を越えて上野に進みます。古代の官道は国府国府を結ぶように作られているのですが、古代では武蔵は東山道に属します。そのために東山道上野国府から新田に進み、そこから南下して武蔵国府を目指します。武蔵国府からは再び北上し今度は足利に進んでいたとされます(東山道武蔵路)。東山道武蔵路の特定は出来なくなっているそうなんですが、おそらくY字型じゃなかったかと推測している説がありました。個人的には鎌倉往還との関連性はどうかと思ったりしますが、8世紀後半に相模から武蔵への陸路が開かれて武蔵は東山道から東海道に配置換えになっています。


義国が下野に下向してきた時期が一つの謎です。義国の事歴で年代が特定できるものの一つに常陸合戦があります。この合戦についてはかのwikipediaにも収録されておらず詳細がよく判らないのですが、とにかく1106年にあったとされています。そうなると義国15歳の時の合戦になります。足利氏と新田氏その1には

源義家が下野守だった頃、藤姓足利氏の一族の佐野氏の娘との間に子供が生まれた。 (佐野氏の誰のかは諸説あり、よく分からない) それが義家の3男の義国である。

しばらくは下野で育つがおそらく15歳ぐらいの頃、京都に上洛。 式部大夫・検非違使・加賀介となり、位も従5位下となる。

康和元年(1099年)義国は朝廷から常陸の佐竹昌義を討伐を命じられ、彼を討ち取った。 しかし佐竹昌義の祖父である源義光(義家の弟で武田・佐竹氏などの祖)や外祖父の平重幹が怒って義国を攻撃してきた。 義光たちとの合戦(常陸合戦)は「私闘」と見なされ、父の義家が義国を連行してくることを命じられる。

しかしその直後、義家が死んでしまい、結局常陸合戦の処理はうやむやになってしまう。

この記述もかなりの混乱があるように思います。いや、たぶんそうではなくて義国の誕生年の問題は帰結します。wikipediaの1091年説では1099年で8歳です。8歳の子どもに佐竹征伐が命じられるとは思えません。そうなると他の説になりますがwikipediaには、

  • 応徳元年(1084年)説 『系図纂要』記載。また異説として寛治3年(1089年)。
  • 永保2(1082年)説 足利鑁阿寺所蔵の「新田足利両家系図」に、義忠没時の義国の年齢を18歳と記している。『足利市史』(1928年)では、これを28歳の誤りであるとし、逆算して永保2年(1082年)誕生としている。

実は常陸合戦自体も

ここも解釈として常陸合戦も2段階があり
    第1部:朝廷の命による佐竹昌義の討伐
    第2部:これに怒った義光との合戦(これが通称の常陸合戦)
第2部の方が1106年であったと見る方が良さそうな気がします。そうなると第1部が1099年ないし1101年と言うより1099年に始まって1101年に佐竹昌義を討ち取ったと解釈するのが良さそうな気がします。もう一つ義国の年齢を考える事績があります。河内経国のエピソードです。河内経国は義忠の長男ですが、京都に上洛していた義国が烏帽子親になったとされ、どうもその縁で後年に下野に下り義国の家司になったとされています。河内経国の生年は1100年頃と推測されていますから元服したのは1115年頃と考えられます。

・・・う〜ん、どうにも年代が合いません。義国が京都で河内経国の烏帽子親になったのは上洛して従五位下に叙任された時で、そこで佐竹征伐を命じられたストーリーを考えたのですが、河内経国の烏帽子親になったのは常陸合戦の後になります。それより何より、第1部の常陸合戦(1099年)の時でも

  • 1084年説で15歳
  • 1082年説で17歳
義国の母が下野の豪族の娘であるとし、養育が下野で行われていたとすれば上洛して元服した途端に佐竹征伐を朝廷から命じられたぐらいの計算になります。さらに言えば第2部は私闘とされただけでなくwikipediaより、

  • その結果、義国は勅勘を蒙り、父義家に捕縛命令が下りる。また、義光及びその与党の平重幹にも捕縛命令が各地の国司に下る。(義国の項)
  • 嘉承元年(1106年)、遅れて常陸に進出してきた甥の源義国(足利氏や新田氏の祖)と争って合戦に及び義国と共に勅勘を蒙る。(義光の項)

義国が上洛し経国の烏帽子親になったのは常陸合戦の10年後ぐらいです。勅勘の件は時効になっていたのでしょうか?この辺を表にしておくと

西暦 事歴 義国出生年
1082年説 1084年説 1091年説
1099 第1部常陸合戦 17 15 8
1106 第2部常陸合戦 24 22 15
1115 経国の烏帽子親 33 31 24
事歴を考えると1091年説はかなり無理があって、1082年説か1084年説、個人的には1082年説が有力な気がします。そうなると気になって来るのは兄とされる義忠との関係です。義忠は1083年生れでwikipediaでは義忠も義国も母は藤原有綱の娘となっていますが、事歴を考えると異母の可能性はかなりありそうな気もします。それだけでなく義国の方が兄であった可能性もある気がします。第1部常陸合戦は朝廷の命によるものですが、これは基本的に義家に下ったと見る事も出来ます。

老齢の義家は関東までの出陣は無理と判断し「兄」の義国に、この命令を任せた可能性はあると思っています。義家の子どもは長男が早世、次男の義親は謀反人として追討中ですから、その次は義国か義忠になります。どちらも弱冠ですが、

  1. より年長の義国に任せた
  2. 下野豪族を母に持つ義国に任せた
それとなんですが、佐竹征伐は成功すれば大きな手柄で、そのまま義家の後継者になってもおかしくない訳です。義国は結局のところ義家からwikipediaより

乱暴狼藉を行ったことや、時代の趨勢に合わないと義家に判断されて後継者から外されていった。

この乱暴狼藉とは1106年の第2部常陸合戦の事を指すと考えています。この時に義国は勅勘を蒙った上に義家に捕縛命令が下る状況では、義親同様に後継者から外さざるを得なくなったとするのが妥当そうです。義家の死は1106年ですからギリギリの段階で後継者から外されたと見る方が良さそうな気がします。そうなれば義家晩年まで河内源氏の後継者候補は義国だった事になります。

そう考えると納得できる部分もあって、義国が義家に与えた上野八幡荘は頼義からの河内源氏伝領の地で、関東での河内源氏の策源地とされています。結構重要そうな所領で為義が義朝に与えた安房の丸御厨とはかなりランクが違う気がします。さらに下野足利荘も義家から与えたとなっています。義国が後継者レースから早い段階で外されていたのなら、これだけの所領は与えられない気がします。あくまでも推測ですが、第1部常陸合戦の手柄で義家の後継者に内定したためではないだろうかと考えています。


藤姓足利氏と義国

義国の下野での勢力拡大は第1部の常陸合戦によるところが大きいと見ています。これは官軍として出陣していますから、物資の補給は心配しなくてよい上に、朝廷の命令と言う事で豪族に出兵命令を下しやすくなります。出兵に応じた豪族は地理的に下野が主体と考えられるので、下野の豪族との親睦が出来たぐらいに思っています。この下野の豪族ですが多いのは「どうも」田原藤太秀郷の末裔だったようです。調べてもはっきりした事は判らなかったのですが、下野で有力な豪族として足利を根拠地とする藤姓足利氏と小山氏(名前からして小山が根拠地かな?)がいたようです。wikipediaより、

藤原秀郷の後裔で、源姓足利氏とは異なり藤姓足利氏とも呼ばれる。「数千町」を領掌する郡内の棟梁で、同族である小山氏と勢力を争い「一国之両虎」と称された

でもって義国は藤姓足利氏と関係を深めたようです。足利荘も義国が義家から与えられたとなっていますが、八幡荘が頼義以来の開発が進んだ土地にあるのに対して、足利荘は開発権を得た土地ぐらいの感じがします。そのためか義国は足利荘を根拠地に据えています。足利荘はwikipediaにより

康治元年(1142年)、開発領主である家綱と院北面として中央に人脈を有する義国の連携により、安楽寿院領足利荘が立券された。家綱が現地を管理する下司、義国が上位の預所として利益を分配したと見られる

常陸合戦が1106年ですから36年後の事です。ここも判然としない部分があるのですが、足利荘も義国の所領の部分と藤姓足利氏が所有する部分があった感じがしますが、そのへんがどうなっているかが判りません。義国と藤姓足利氏が強力期間を持っていたのは確かで、義国の長男である義重の母は一説によると藤姓足利成綱の娘と言うのがあります。成綱とは藤姓足利氏の祖とされる成行の嫡子とされています。ただ父より早く死んだらしく、家は家綱が継いだとなっているそうです。wikipediaより、

彼の娘は河内源氏源義国の側室となり、新田義重上野源氏祖)を産んだという。その娘も父同様に若くして没し、義国の正室とされる(諸説あり)藤原敦基(式家出身)の娘の養子として養育されたという。

義重の生年はwikipediaより、

永久2年(1114年)、または保延元年(1135年)

おいおいと言いたいぐらい幅があるのですが、ここも難解で義国の生年を1082年説で採ると1114年は33歳の時になりますが、1135年なら53歳の時の長男になります。ですから1114年説にしたいところですが、そうなると義重の死亡年が1202年となっていますから88歳まで生きていた事になります。困ったもんだの世界です。義重の事はこれぐらいにして足利荘立券までは協力関係にあった義国と藤姓足利氏ですがwikipediaより、

両者の協力関係は翌年には綻びを見せ始める。足利荘の南にある簗田御厨は家綱が荒木田利光を口入人として成立させた伊勢神宮内宮領であったが、康治2年(1143年)に義国が介入して、内宮の口入人を荒木田元定、外宮の口入人を度会彦忠とする二宮領として再寄進した。これを不服とした家綱は義国と争論するが、鳥羽院の裁定により義国が勝訴して「本領主」と認められ、家綱は簗田御厨の権益を奪われる形となった。

なんか相馬御厨での義朝の介入をみるようですが、どうもこういう事は日常茶飯事であった感触を受けます。この梁田御厨は現在では渡良瀬川を挟んで足利荘と南北に位置しますが、当時は渡良瀬川の北岸にあり隣接する荘園であったようです。

以後は義国と藤姓足利氏は緊張関係に移行するのですが、この1143年を見つけられて良かったと思います。義朝は1143年に相馬御厨事件、1144年に大庭御厨事件を起こし、その後に武蔵にも勢力を伸ばしたとなっています。この時に義国勢力と緊張状態になり河内経国の仲介で連携関係に変わっています。義朝がこの和解に応じたのは京都進出のためであると判りましたが、義国が和解に応じたのは下野で長年の協力関係であった藤姓藤原氏との緊張関係が起こり、義朝と南北戦争をやる余裕が失われていたぐらいに考えられます。

義国と藤姓藤原氏の対立が決定的になるのはwikipediaより、

新田義重が保元2年(1157年)金剛心院領新田荘の下司に任じられて在地への関与を強めると、藤姓足利氏と義国流は競合することになる。新田荘の開発には藤姓足利氏も関わっていたと推測されるが、義重の下司補任により荘内から排除された。

義国の晩年についても記録が乏しいのですが、義国が死亡したのは新田荘となっています。義国は足利荘から新田荘に移っていた可能性があります。新田荘での騒動も義国の策謀が噛んでいた可能性は推測されるところです。歴史書で「勢力を広げる」と一言で書いてある裏は・・・大変だなぁってところです。


地形図に戻る

白状しておきますが生れて初めて新田荘とか足利荘の位置を確認ました。感想としては開墾地は山裾に見事に広がっている気がします。八幡荘にしろ、新田荘にしろ、足利荘にしろそうです。義国流の源氏と対立した藤姓足利氏もまたそうで、小山氏、宇都宮市も同様の気がします。大蔵合戦で出てくる秩父氏となるともっと古い段階の開発の気がしています。

稲作に取って水は必要条件であり、川の近くは条件として良いはずですが、川が大きすぎると宜しくありません。今度は川の反乱により開墾した田畑が流されてしまう危険性があるからです。そのために原初は谷間の小川での開墾が行われていたとされます。秩父氏の根拠地はえらい山の奥なんですが、谷間の小川に沿って開発された開墾地でなかったかと思われます。それに対して次の段階の開墾地は扇状地の裾にそって行われたとなっています。八幡荘・新田荘・足利荘なんてそう見えます。源義賢が屋敷を構えたとされる大蔵も扇状地の裾に見えない事もありません。

どうもなんですがこの時代の開発は扇状地の裾野の開発技術が進み、そこへの新たな開発競争が起こっていたとも見れそうです。一方で中央部は利根川水系が暴れまわるので開発はかなり遅れていた感じです。道は官道の他にも出来ますが、基本は集落を結ぶものであり、人が多いところに出来ます。だからどうしたですが、義朝勢力が武蔵に進出しただけで下野の義国が反応したのは、当時の関東平野の交通路は南北(それも古東山道武蔵路)はあっても、東西は北の東山道と南の東海道ぐらしか有効に使えなかったかもしれないなんて思っています。