徳川先祖伝説

完全に蛇足のムックです。


wikipediaから掘り起こした家系図です。

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世良田氏新田義重の四男義季が上野国新田郡世良田郷及び得川郷を領して始まっています。義季は所領を

  • 頼有(長男)に得川郷
  • 頼氏(次男)に世良田郷
こう譲っています。この得川が後の徳川ぐらいの理解で良いのですが、この得川氏wikipediaより、

頼有は外孫(娘の子)で養子でもある岩松政経(岩松氏)に得川郷を含む所領を譲り、これにより得川郷領主の得川氏は消滅した。その後の得川氏については詳らかではない

早々と得川氏の系譜は消えてしまったようです。世良田氏南北朝期に

こう属したようです。義政と世良田氏との関係はwikipediaより

『新田町誌』では満義の弟と仮定。日本家系家紋研究所編『世良田一族』(日本家系協会、1993年)では有氏の曾孫。「三家考系図家譜」(『系図簒要』の得川氏系図の異説)では満義の子。

南北朝期の側面は家督相続の骨肉の争いでもありましたから、2つに割れて争ったぐらいと見ても良さそうです。ちなみに北朝方の義政はwikipediaより、

功績を残し上総国守護になっている。その末裔は、四職の山名氏の因幡国伯耆国の守護に随行したという。因幡徳川氏(後に森本氏)と改め、家老の徳川(森本)将監(橋本家)などが出たという。

この系統は生き残ったようですが、歴史の表舞台からは消えていったようです。さて南朝方の満義ですが、wikipediaより、

至徳2年(1385年)に、庶長子の親季とともに信濃国浪合村(長野県下伊那郡阿智村)で戦死してしまったという(浪合の合戦)。

嫡子の政親は合戦には生き残りましたがwikipediaより、

政義の二男の万徳丸(政親)も戦に参加していたが、この時は難を逃れた。その後、永享8年(1436年)になって三河国松平郷に隠れ住んでいたのを発見され、捕えられたのち出家し四国へ渡った。嘉吉の乱後、上野国万徳寺で修行していたが、文正元年(1466年)10月に没したという。

世良田氏の直系は政親で途絶えたとするのが通説のようです。



三河

松平清康三河平定の大義名分の一つとして先祖が三河守であった事を持ち出したとする説があります。松平郷には世良田政親が隠れ住んでいた時期があり、世良田氏の先祖をたどると世良田頼氏三河守であった時期があり、ここから世良田氏松平氏を結び付けその子孫を称したぐらいです。それなら政親と松平氏の娘との間に落とし胤伝説ぐらい作れば良さそうなものですが、そうしていないところを見ると政親の事歴がハッキリしすぎていたのかもしれません。そこで実際に松平郷に隠れ住んでいた政親ではなく兄の親季を利用したようです。親季は父の満義とともに浪合の合戦で戦死したとなっていますが、親季のその他の経歴に不明な点が多いので

    親季 − 有親 − 親氏
こういう子孫が存在したぐらいにし、親氏が政親と同様に松平郷に流れ着いて入婿になったストーリーぐらいでしょうか。この三河守問題は家康の時にもう一度再燃します。桶狭間後に三河平定を目指す家康は三河守叙任を運動したようです。wikipediaより

1566年、三河統一のため三河守任官を望んだ際、「世良田氏三河守叙任の前例はない」と拒否された。

世良田頼氏の前例はどうなったんだろうってところですが、ヒョットしたら世良田頼氏三河守であったというのは家系伝説だったのかしれません。その点はとりあえず置いといて、どうしても三河守が欲しかった家康は、

家康は近衛前久に相談した。近衛前久松平氏の祖とされる世良田義季得川氏を名乗った文献があること、また新田系得川氏が藤原姓を名乗ったことがあることなどを突き止め、家康個人のみが「徳川」に「復姓」(事実上の改姓)するという特例措置を得、従五位下三河守に叙任された。

どうにも事実関係が複雑なのですが近衛前久の提案は、

  1. 世良田氏の家祖である義季は得川氏も名乗っていたことがある。
  2. 得川氏(っても頼有しかいない気もするのですが・・・)が藤原姓を名乗ったことがある。
だから藤原氏である「得川(= 徳川)」と改姓すれば藤原氏の出自だから三河守に叙任されたってお話のようです。根拠はwikipediaなのは遺憾とするところですが、家康が松平から徳川に改姓したのは、三河守になるために藤原氏係累になる必要があったからって事になります。この辺の姓に関する見解は、こういう風になっていたらしいです。それと徳川への改姓は家康個人に対しての特例措置だったので、徳川の姓を名乗れるのは家康の子孫のみに限られたぐらいです。


でもって親氏

親氏伝承はこうやって見ると世良田政親が松平郷に隠れ住んでいた事に因むようです。これは事実して良さそうで、松平氏世良田氏は接近遭遇ぐらいしていたのはあったとして良さそうです。しかし政親は松平氏の娘と結婚して子供を作ったり、単に子を産ませた事もなかったようです。これはおそらく周知のことで、隠し子伝説を作る余地もなかったぐらいと推測します。そこで政親の兄である親季に注目したぐらいでしょうか。親季に子があったとし、親季の孫である親氏が政親同様に松平郷に流れ着いたお話の創作です。

親氏像の創作には実話である政親のイメージがかなり重ねられているように感じます。流浪の身であったこと、松平郷に隠れ住んだこと、僧であったことは親氏伝説の定番ですが、ほぼ政親の話を踏襲しているで良いかと思います。マイナー版の貴種流離譚の一種ぐらいの感じです。では親氏の実像はどうだったのでしょうか。親氏が実在したのは間違いありません。そりゃ子孫がいるためには先祖がいる必要があるからです。

実像なんてわかるはずもないのですが政親のイメージを剥ぎ取っていくと、残るのは養子であっただけの気がしないでもありません。この養子さえも必ずしも必要条件とは言えません。清康の祖父は長親ですが、長親から見ても親氏となると、ひい爺さん、ひいひい爺さんの世代になります。松平氏といっても親氏の時代は富農程度ですから、家系図もあったかどうかは疑わしく、あったとしても当主の活躍は伝承のみだったとしてもおかしくありません。ぶっちゃけ、家系図上に親氏の名前だけ存在する平凡な人物であった可能性の方が高いと見ます。とくに事歴のない当主であれば、後から幾らでも話が盛れます。

まあ養子伝承ぐらいはあったのかもしれませんが、その他はすべて創作とみなして良いと考えています。


なぜに世良田氏であったか?

そーま様より、

単に源氏なら何でもいい,だけではなく,(東)三河平定にあたり,今川=足利への対抗として,世良田=新田を打ち出したのではないかという説があり,これは頷けるなと思っています。

面白い見方で同意できる部分が多いのですが、世良田氏を名乗ったのは世良田政親が実際に松平郷に隠れ住んでいた事実に乗っかって作られた「らしい」は上述した通りです。ではなんですが世良田氏が何故に松平郷に隠れ住んだかになりますがwikipediaより、

松平氏の興った三河国加茂郡には、元来南朝方の残党が逃れてきたことに関する伝承が多く残されていたようで、松平氏の家臣大久保氏(宇津宮氏)を始めとして南朝方武将の末裔を称する武士は数多い。

気分として加茂郡には南朝方の自負があったのかもしれません。だから世良田政親も流れ着いたぐらいはいえそうです。時代は下ってそこにガチガチの北朝方直系の今川氏が攻め寄せてきた時に、松平長親はこれを撃破したとなっています。この時に南朝残党気質が残る諸勢力を糾合するために世良田氏を持ち出した可能性はあるかもしれません。この点から考えると、世良田氏の後裔を名乗ったのは長親からだったかもしれません。