義朝研究5

義朝研究と言うよりも保元の乱以前の関東の勢力図のムックです。相模の次は安房・上総・下総なんですが相模以上に判然としない部分があるのを御了解下さい。


律令期に江戸期と較べても立派な官道が整備されていたのは考古学的に立証されています。ただしwikipediaより、

当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、揖斐川長良川木曽川・大井川・安倍川・富士川多摩川利根川(当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された10世紀以降のことと考えられている。

大河の渡河は江戸期でも問題として残り、江戸期の東海道でも宮(熱田)から桑名は七里の渡と呼ばれる海路になっています。木曽三川も大変だったでしょうが、関東の利根川流域もまた大変だったと想像されます。自分の関東の土地勘の暗さを呪うばかりなんですが、武蔵は当初東山道に属し、8世紀後半に東海道に所属が変わった事は知っていました。そうなれば相模から房総半島に向うのに地理的に陸路は存在しない事になります。当たり前ですが海路になりwikipediaより、

相模国では、相模湾沿いに東へ進んだ。ここで常陸国までは上述のように当初は河川を避けて海路をとった。鎌倉から三浦半島へ入り、走水から浦賀水道を渡って房総半島に入り、そこから北上して、安房国上総国下総国を経て常陸国へ至った。

この相模から房総半島への海路ですが相模側は走水からとなっていました。走水も漠然と現在の横須賀あたりを勝手に想像していたのですが、エエ加減はあきません。確認したら三浦半島の突端に近いところです。初期の東海道三浦半島をほぼ縦断していた事になります。ほいじゃ房総半島側の港はどこになるかですが、これがハッキリしませんでした。仕方がないので現在の地名と地形を見ていたのですが、上総湊なる地名が走水の対岸にあります。直線距離にして6kmぐらいですが、おそらくこのあたりじゃなかったろうかと推測します。

古代の東海道のルートも判然としない部分は多いようですが、相模の次は上総であったようです。上総から支線が安房に伸び、主線は上総国府(市原市に比定されています)から下総国府(市川市)に繋がっていたようです。地形図を示しておくと、

三浦半島から房総半島を海路でつなぐ東海道は、771年に相模から武蔵国府(府中市)をつなぐ陸路が出来てから武蔵ごと東山道から東海道に配置換えしてしまったので廃止となった訳ですが、海路としてはその後も活動は盛んだったとして良さそうです。

よくよく調べ直してみると海路は走水から富津でした。時間があれば地形図をそのうち描き直します。

在庁官人

在庁官人とは朝廷から派遣された国司現地採用したその国の豪族ぐらいの理解で良いかと思います。時代と共に在庁官人も世襲化し、三浦氏も三浦介ですし、上総氏も上総介として代々在庁官人になっていたようです。当時の国司(受領)は受領を歴任して財産を蓄え、その富の力によってさらなる上の階級の出世を目指すというのがあります。平氏台頭なんてその典型の一つと見ます。財産を蓄えると言っても何もしなければ貯まらない訳であり、受領国から巻き上げていた事になります。

在庁官人はそういう受領に協力する事によって自分の所領の確保やさらなる拡大に利用する一方で、受領側が自分たちの権益に手を伸ばして来ると団結して抵抗したとされています。この在庁官人のネットワークは隣国にも及んでいる事があったそうです。そういうネットワークが相模の三浦氏、安房の安西氏、上総の上総氏の間にも緊密にあったと推測されています。この辺は記録に乏しいところがあるのですが、安西氏の発祥説の一つにwikipediaより、

為通の次男・為俊の息子である為景は安西氏を称した。

三浦氏は

    為通 - 為継 - 義継 - 義明 - 義澄 - 義村
こう続いていたと家系図上はなっているそうで、安西氏は初代の次男の子から始まるみたいな説です。実はこれも確実な訳ではなく、それ以前より安西氏は存在しており、三浦氏から養子(入婿)を取ったの説の方が有力そうです。地方豪族の記録が曖昧なのはどこも同じですが、入婿であっても当主を迎え入れるぐらい緊密な関係であったとの傍証ぐらいにはなります。もう一つ傍証があり上総常澄なんですがwikipediaに諱を与えた人物としてwikipediaに三浦義澄がいるとなっています。

常澄は、三浦義澄の元服の際に加冠役(=烏帽子親)を勤めたとされている(野口、1994年)。元服にあたっては、それまでの童名(幼名)が廃されて、烏帽子親から仮名(通称名)と実名(諱)が与えられるが、その際にその実名の一字(偏諱)の付与がなされることが多く(山野龍太郎論文(山本、2012年、p.162)より)、常澄と義澄に共通する「澄」の字がそれにあたることが分かる(山野論文(山本、2012年、p.163〜168)にも類似した例が紹介されている)。

この辺は確認しようにも安西氏も上総氏も母系の確認が困難なのですが、当時の事で緊密な関係を築くと言うのは血の結びつきが最有力手段であり、三氏の姻戚関係は濃厚にあった事が想像されます。


義朝と三浦氏・安西氏・上総氏

義朝の東国下向は15歳ぐらいの時と推測していますが、18歳の時に長男義平が生まれています。母は三浦氏であったとされていますが、婚姻は16〜17歳の時と自然に推測されます。三浦氏・安西氏・上総氏の連携が深いと仮定すれば三浦氏の娘と義朝の婚姻は三浦氏の独断と言うより、上総氏・安西氏の了解も取っていたと考えるのが自然そうに思います。つまり義朝が三浦氏の娘を娶れば安西氏・上総氏とも血のつながりが構築されるぐらいの見方です。三浦氏の娘との婚姻はそれぐらい義朝にとって意味があったんじゃなかろうかと思いだしています。その傍証がwikipediaにもある

安西氏・三浦氏・上総氏の連携の下に義朝は安房から上総国に移り上総氏の後見を受けるようになったことによるものと思われる。

義朝が上総御曹司と世間から呼ばれた時期があるのは天養記の

十月二十一日、田所目代散位源朝臣頼清並びに在廰官人及び字上総曹司源義朝名代清大夫安行、三浦庄司平吉次、男同吉明、中村庄司同宗平、和田太郎助弘、所従千餘騎、御厨内に押し入り、是非を論ぜず停廃せしむ所なり。

これは大庭御厨事件関連の記録ですが義朝の肩書に「上総曹司」がある事が確認できます。御曹司は部屋住みの若君ぐらいの意味で良いかと思いますが、この部屋があったのが上総氏の屋敷であったので上総御曹司の肩書がついたぐらいは推測されます。さらにその事は関東に広く知れ渡っていた事になります。もう少し言えば、義朝のバックには三浦氏だけでなく上総氏もいる事を示しているとも解釈して良い気がします。義朝の足跡ははっきりしないのですが、三浦氏のところで歓待された後に安房の丸御厨に行ったとは思います。そこから上総氏の屋敷に移ったのは三浦氏の娘との婚姻が成立するのと同時ぐらいじゃないかと考えています。


相馬御厨事件を考え直す

三浦氏・安西氏・上総氏と義朝の関係は上記したぐらいで良いかと思うのですが、問題は千葉氏です。相馬御厨事件の経緯(義朝時代まで)なんですがまずは系図です。

常長の代に上総から下総(千葉)に勢力を拡張したぐらいの理解で良いかと思います。この常長の後継の時に上総氏と千葉氏に分かれたぐらいで、

    上総氏・・・嫡流、上総を担当
    千葉氏・・・傍流、下総を担当
緑が上総氏、青が千葉氏です。この分かれた時に下総の相馬御厨は上総氏が領有していました。ところが上総氏の常晴と常澄の親子仲が険悪で常晴は千葉氏の常重に相馬御厨を与えてしまいます。当然ですが常澄は大きな不満を持つことになります。これが上総氏と千葉氏の相馬御厨を巡る遺恨の発端です。それでも千葉氏領有になった相馬御厨に下総国藤原親通が介入します。ここからは表にしてみます。
西暦 事柄
1136 下総国藤原親通が税金未納を理由に相馬御厨を取り上げる
1143 義朝が常重から圧状を取り相馬御厨を取り上げる
1146 常胤が未納分の税金を納め相馬御厨を取り返す
この相馬御厨事件の一番わかりにくいのは義朝の介入です。この経過を見れば相馬御厨はまず藤原親通が取り上げています。それなのに義朝は再び取り上げています。そこだけでも「???」なんですが義朝は伊勢神宮に寄進しています。さらにを言えば義朝が寄進したはずの相馬御厨を常胤が税金を納める事によって取り返しています。この不思議な経過を説明するのに相馬御厨を一つと考えずに親通が取り上げた部分と義朝が取り上げた部分があるとの解釈する説があります。具体的には親通が取り上げたのは相馬郷、義朝が取り上げたのは布施郷であったとするものです。

そうなると常胤が取り返したのは親通の分だけになるのですが、常胤も取り返した相馬御厨を伊勢神宮に寄進しています。ところがところがです。義朝が寄進した相馬御厨と常胤が寄進した相馬御厨の地券はほぼ同一地域であるの記録が残っているそうです。さすがは伊勢神宮で常胤が差し出した寄進状の原文は、

永附属進先祖相伝領地壹處事
下総国相馬郡
四至 
限東逆川口笠貫江
限南小野上大路  
限西下川辺境并木崎廻谷 
限北衣川常陸国

 右当郡者、是元平良文朝臣所領、其男経明、其男忠経、其男経政、其男経長、其男経兼、其男常重、而経兼五郎弟常晴、相承之当初為国役不輸之地、令進退掌之時、立常重於養子、天治元年六月所譲与彼郡也、随即可令知行郡務之由、同年十月賜国判之後、常重依内心祈念、大治年中之比、貢進太神宮御領之日、相副調度文書等、永令附属仮名荒木田正富先畢、於地主職者、常重男常胤、保延元年二月伝領、其後国司藤原朝臣親通在任之時、号有公田官物未進、同二年七月十五日、召籠常重身経旬月之後、勘負准白布七百弐拾陸段弐丈伍尺五寸、以庁目代散位紀朝臣季経、同年十一月十三日、押書相馬立花両郷之新券恣責取署判、妄企牢籠之刻、源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言、自常重之手、康治二年雖責取圧状之文、恐神威永可為太神宮御厨之由、天養二年令進避文之上、常胤以上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋、依進済於国庫、以常胤為相馬郡司、可令知行郡務之旨、去四月之比国判早畢、其中一紙先券之内、被拘留立花郷壹處許之故所不被返与件新券也、雖然至于相馬地者、且被裁免畢、然則任親父常重契状、於田畠当官物者、致供祭上分之勤令進退、当時領主正富給、至加地子并下司職者令相伝常胤子孫、預所職者可被令相承本宮御返牒使清尚子孫、矣仍後代重新立券文、謹解

久安二年八月十日 御厨下司正六位上朝臣常胤 (花押)

この寄進状の四至なんですが、北・西・東は義朝と同じだそうですが南はさらに広がっているとの研究があるそうです。広がった分はともかく場所としては同じです。注目したのは親通から奪われたのは「親書」に因っています。つまりは公式手続きで奪われたので、公式手続きによって未納分の税金を納める事によって取り返したと素直に読み取れます。でもってこの寄進状にある義朝の動きは、

  1. 常重から圧状を取る
  2. それを根拠に伊勢神宮に寄進
寄進状には「源義朝朝臣就于件常時男常澄之浮言」なっていますが、上総氏と千葉氏が示し合せての一芝居ではないだろうかの意見に傾きかけています。上総氏と千葉氏は相馬御厨の帰属を巡って対立関係にはありますが、基本的に同族内の争いです。これに外部の藤原親通が登場したので一族の財産を守るために連携を行ったぐらいです。上総氏にしても藤原親通に奪われるのは困るぐらいの理由です。そこで義朝が相馬御厨を押領した状態にし相馬御厨の実質的な支配権を握ったぐらいに見ます。ここでwikipediaにある親通の強奪経過は、

藤原親通千葉常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに自分に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、私領としてしまう。

義朝は相馬御厨に介入した翌々年(1145年)に避状を出すのですが、避状とはwikipediaより、

平安時代から江戸時代にかけてみられた文書。自己の権利もしくはその主張を放棄する時などに作成された。避文/去文(さりぶみ)とも。

当時の事情とか法的扱いについては全くと言って良いぐらい疎いのですが、私の推測として、

  1. 義朝は圧状を根拠に相馬御厨を伊勢神宮に寄進してしまう
  2. これにより親通の権利の根拠が薄れる
  3. 義朝が避状を出して権利放棄した事により相馬御厨の管理が国衙管理的(税金未納分の担保)なものになる
  4. 常胤が未納分の税金を納めて相馬御厨を取り戻す
現代から見ると「???」な手続きですが、そうなっていた傍証はあります。
  1. 千葉氏が失った相馬郷、立花郷のうち常胤が取り戻せたのは相馬郷だけ
  2. 頼朝挙兵の時に千葉氏は全面協力している
結局のところ千葉氏が取り戻せたのは義朝が介入した部分だけです。これが義朝の私欲だけ、または上総氏とグルになっての介入の結果論的なものなら頼朝挙兵の時にあそこまで積極的に協力しなかったんじゃないかと思います。千葉氏が頼朝に協力したのは相馬御厨への介入が示し合せてのものであり、それによって千葉氏が恩を受けたからと考える方が自然な気がします。

義朝は相馬御厨に執着があった訳でなく、千葉氏と言う勢力を味方につけたかったからと考えています。上総時代に義朝は三浦氏・安西氏・上総氏の支援をかなり固めたんだと思います。上総にいて気になったのは、上総氏の同族である下総の千葉氏としてもおかしくはありません。千葉氏を味方にするには千葉氏と上総氏の間に横たわる相馬御厨問題になりますが、都合の良い事に藤原親通の介入があり、千葉氏も上総氏もこれへの対抗処置に苦慮していたぐらいでしょうか。そこで相馬御厨問題に介入して千葉氏と上総氏に恩を売り味方にしたぐらいです。


問題は義朝の年齢

義朝は相馬御厨事件の翌年に大庭御厨事件を起こします。その前年に波多野氏の娘から次男朝長が生まれています。波多野氏との婚姻も大庭御厨事件のための布石だと見れる気もします。大庭御厨事件については前回の時にあれこれ調べましたが、波多野氏は大庭御厨事件には参加した形跡がありません。大庭御厨事件を起こすのに際し、大庭氏に味方する勢力を減らす事は準備工作の基本です。東の中村氏は大庭氏への反感、三浦氏との血縁により連携工作は比較的容易だったとします。そうなると波多野氏の動向が問題になります。波多野氏と大庭氏の関係は調べても不明でしたが、もし波多野氏が大庭氏に協力されたら事は面倒になります。そこで波多野氏が大庭氏側に傾かないように婚姻政策を行ったんじゃなかろうかです。

つまりは波多野氏との婚姻を進める時点で大庭御厨襲撃の準備は進められていたぐらいの見方です。一方で相馬御厨に関して藤原親通の介入を利用して、対立状態であった千葉氏と上総氏を和解させ、相馬御厨に対する共同戦線を張るように説得したことになります。広い目で見れば千葉氏取り込み工作です。準備が整った時点で一気呵成にまず相馬御厨事件を起こし、引き続いて大庭御厨事件を起こした事になります。

事実関係としては我ながら納得できる部分も多いのですが、次男朝長が生まれたのは義朝が20歳の時であり、婚姻は18〜19歳ぐらいになります。19歳で結婚としても相馬御厨や大庭御厨への計画を18歳ぐらいで立てていた事になります。ちょっと若すぎないかです。若くても才能のある人はもちろん少なくありませんが、相馬御厨はかなり込み入った法律問題ですし、大庭御厨は相当陰険な戦略構想に見えます。もう少し言えば22歳の時に大庭御厨事件の決着をある程度付け、さらに避状で相馬御厨を千葉氏に戻るようにした時点で京都進出への足掛かりになる藤原季範の娘の由良御前を正室として迎えています。頼朝の出生が義朝24歳の時ですから由良御前との婚姻は23歳ぐらいになるはずです。

こういう目を剥く様な成果を20〜23歳の間に義朝は後世から見たら計画的に手にしています。そういう才智あふれる人であったと片づけても良いのですが、その後の保元とくに平治の乱での動きに較べると少し落差があるように感じてなりません。あくまでも推理と言うか想像ですが、軍師と言って良いほどのブレインがいたんじゃなかろうかと考えだしています。その軍師が采配を揮っていたのはせいぜい保元の乱までで、平治の乱の頃にはいなくなっていた可能性です。この辺はもう調べようがない領域になります。