為義の出自は、
- 義親の四男説
- 義家の五男説
一族内で仲が悪い事自体は珍しくもないのですが、まったく交流すらなさそうなのは異様です。義親の息子たちは「どうやら」京都に本拠を置いて諸国の受領をやったり、朝廷に仕えています。なおかつそれなりに順調に出世して長男の義信は従四位下左兵衛佐になっています。ちなみに為義は従五位下左衛門大尉です。為義も家督を継いだ後は本拠である河内石川は弟の義時に譲り京都の六条に屋敷を構えています。それでも義親の息子たちは保元・平治の乱にも、後の源氏の挙兵にもノータッチです。義親家の相続は長男の義信で良いと思うのですが、ここまで無交流なのはチト妙と言えば妙です。
これを説明する何らかの理由が欲しいところです。
義光で有名なエピソードはwikipediaより、
左兵衛尉の時、後三年の役に長兄の義家が清原武衡・家衡に苦戦していると知るや、完奏して東下を乞うたが許されず、寛治元年(1087年)に官を辞して陸奥に向かった。
このエピソードは後に富士川の合戦に奥州から義経が頼朝の下に駆けつけた時に「まるで義家の下に義光が駆け付けた時のような・・・」の比喩に使われています。もちろん歳を取れば人間は変わるので、本家乗っ取りを晩年になって企まないとは言えませんが、それでそこまでの陰謀に走らせた理由があっても良い気がします。
wikipediaより、
『尊卑分脈』の為義傍注によれば、父の義親が西国で乱行を起こしたため、祖父・源義家は三男・義忠を継嗣に定めると同時に、孫の為義を次代の嫡子にするよう命じたという。この記述に従えば、幼少の為義は叔父の義忠や祖父の義家と共に京にいたと思われる。
尊卑分脈をどれぐらい信用するかの問題が出て来ますが義家は
- 跡継ぎを三男義忠にする
- 義忠の跡は義親の四男の為義にする
祖父・源義家より源太の幼名を与えられ、世に「河内御曹司」と称され、5代目棟梁として嘱望された。
義忠が家督を継いだのは23歳の時ですから、別に義忠の後継を義家の生前に決める必要性はないと言えます。なぜにここで為義がわざわざ嫡系に出て来るのか極めて不思議です。
義親の息子の一覧表を再掲します。
名前 | 長幼 | 通称 | 官職 |
義信 | 長男 | 対馬太郎 | 従四位下左兵衛佐 |
義俊 | 次男 | 対馬次郎 | 右馬允 |
義泰 | 三男 | 対馬三郎 | 民部丞。伊予介 |
義行 | 四男 | 対馬四郎 | 兵庫允。伊予介 |
宗清 | 五男 | * | 従五位下伊勢守。兵庫允 |
義忠暗殺時にはたしかに後継者が枯渇しています。為義が13歳ですから、弟の義時や義隆は元服前と考えるのが妥当です。兄の義国は義家により後継者から外されています。見ようによっては成人の後継候補は為義しかいなかったと思いそうになります。だから義親の子どもであっても後継者に上げられたはアリかもしれませんが、為義で良いのなら義親の他の子どもはどうなんだの疑問が出て来ます。河内本家の後継争い(つうか歴史上にも)に為義以外の義親の子どもは登場もしません。非常に不自然です。
ここで義家の経歴を考えたいのですが、後三年の役が1083年に終わった後に義家は不遇時代に突入します。後三年の役が私戦とされ戦費の負担と官職への道が塞がれます。義家の不遇時代は1098年まで続くのですが、ここで漸く白河法皇に取り入る事が出来たぐらいとして良いでしょう。でもって為義は1096年生れなんです。非常にベタな説ですが、
義家が白河に取り入るために受け入れた条件だった可能性はゼロとは言えません。受け入れただけでなく、いずれ家を継がせるのも条件だったとしたら尊卑分脈の記録は一気に説得力が出て来ます。義親の子どもたちと疎遠なのも当然と言えば当然です。そりゃ完全に他人だからです。義光が陰謀に走ったのもかなり説明が可能です。そりゃ放置すれば河内源氏の家から源氏の血がなくなってしまうからです。嫡流が乗っ取られるぐらいなら、自分が棟梁に取って代わろうとしたのが義光の真意であるとすれば話は筋がある程度通ります。為義落胤説の数少ない傍証が母が不詳である点です。不詳の場合、本当に不詳のケースと、母の名(つうか実家)を公に出来ないケースの2つがあります。殆どは前者であり、為義のケースも前者で通常は考えられていますが、後者である可能性も無いとは言えないぐらいです。
今日展開した為義落胤説は、あくまでも落胤と仮定したら上手く説明できる部分が少なからずある程度のお話です。状況証拠からの仮定の積み重ねに過ぎません。信憑性としてはその程度なんですが、白河落胤説は清盛にもあります。どっちの落胤説も証拠はないのですが、もしどっちもそうであれば源平合戦は白河の落胤の子孫同士による覇権争いだった事になります。そんな歴史の裏舞台があったとしたら・・・この程度で落胤説は終わっておきたいと思います。