義朝研究

義朝は保元の乱で登場し平治の乱で敗死します。ほいじゃ保元の乱の前はどうだったかと言うと坂東で勢力を養っていたぐらいの情報がせいぜいです。別にそれでも歴史の知識としては十分なのですが、もう少し保元の乱の前の義朝の事績を掘り起こしてみたいと思います。


為義と義朝

年表を作ってみます。

西暦 為義 義朝年齢
事歴 年齢
1096 出生 0 *
1110 左衛門少尉 14 *
1123 義朝出生 15 0
1124 検非違使 28 1
1136 左衛門少尉辞任 40 13
1146 左衛門大尉に復帰 50 23
為義は最初は院に属しています。義朝の母が白河院近臣も藤原忠清の娘なのもそのためと見るのが自然です。一つ気になったのは義朝が為義の27歳の時の子どもである事です。当時的にはチト遅い気もしますが、どういう事情があったかは不明です。為義は14歳で左衛門少尉になり、28歳で検非違使なっていますが、その後の出世は足踏み状態になります。当時の官途としての次の段階は受領になるらしいですが、そこには行けずに燻る事になります。記録として残されているのは行動に問題があったからとなっています。これがどれくらいの真実を表しているのか判断は微妙ですが、1136年に左衛門少尉を辞任しています。事実上の解任であったとも記録されています。そこから為義は院を離れ摂関家に接近します。摂関家では忠実に勤務を果たしたようで、1146年に左衛門大尉で復帰しています。

この為義の事歴から考えたいのは「いつ」義朝が関東に行ったのかです。やはり為義が退官する事で院を離れ摂関家に接近した時と考えたいところです。為義が左衛門少尉を辞任したのが義朝13歳の時ですから、この前後が一番可能性がありそうに思います。理由は義朝の母が院の側近の娘であるからです。つまりは摂関家に接近するのに邪魔ってところです。義朝が向かったのは安房の丸御厨。ここは河内源氏の荘園らしく、そこに義朝は行った事になります。この時の為義の意図ですが、

  1. 都での逼塞状態の打破を義朝を関東に派遣する事で期待した
  2. 摂関家に接近するために院側近の娘を母に持つ義朝を後継者から除外した
私は2.であると考えます。これには先例があり義家が四男の義国を後継から外す時にwikipediaより、

源頼信-頼義-義家と伝領した摂関家上野国八幡荘を相続した

つまり宗家の後継者候補から外し、上野の分家にしたぐらいと理解します。安房の丸御厨もwikipedia

河内源氏源頼義前九年の役の功労により、朝廷から恩賞として授けられたものとしている。そして、為義から義朝に譲与

為義は義朝に安房丸御厨を与える事により義朝を後継者から外したと考えるのが妥当の気がします。ちなみに御厨とは伊勢神宮を始めとする有力寺社への寄進地系荘園と理解すれば良さそうです。


上総氏と千葉氏

義朝は安房から上総に動くのですが、その前に房総半島の大勢力である上総氏と千葉氏をムックします。遠祖は桓武平氏になり高望が上総介になって赴任した時から始まります。高望は上総介になって赴任しただけではそのまま土着します。この高望の息子は9人ぐらいいるのですが、承平の乱の後も生き残ったのは五男の良文系になります。ちなみに長男の国香系は伊勢に本拠を移し清盛に至るぐらいです。承平の乱における良文の行動も記録上は不可解で途中まで将門と共同戦線を張っていますが、やがて乱から離れ鎮守府将軍も歴任したりしています。でもって承平の乱の褒賞として相馬郡を与えられています。ちょっと余談ですが相馬と言えば福島の相馬を思い浮かべてしまい少々混乱しました。相馬の名前は下総が本家で福島の相馬はwikipediaより、

現在福島県に存在する相馬郡は、中世下総国相馬郡より起こった千葉氏の一族相馬氏に由来するものである。相馬氏第2代の相馬義胤が軍功によって陸奥国行方郡(現在の福島県南相馬市および飯舘村)に地頭職を得、第11代の相馬重胤が行方郡に土着したとされる。

それはさておき、良文の本拠はwikipediaより、

武蔵国熊谷郷村岡(現・埼玉県熊谷市村岡)、相模国鎌倉郡村岡(現・神奈川県藤沢市村岡地区)に移り、そこを本拠に村岡五郎を称したとされるが、謎の多い人物である。加えて下総国結城郡村岡(現・茨城県下妻市)にも所領を有し

よく読めばすべて「村岡」になっています。村岡五郎とも呼ばれたそうなのですが、地名由来と考えるのが普通ですが、自分の領地をすべて村岡と変えた気もなんとなくしています。とにかくにも高望の系統で関東で生き残ったのは良文系でまず良いぐらいで理解します。でもって良文のあとは、

    良文 − 忠頼 − 忠常 − 常将 − 常長
こう続きます。この中で知っているのは忠常ぐらいです。平忠常の乱の規模は大きく、また最終的に源頼信に降伏し、河内源氏が東国に進出する端緒になった事でしられています。ただ忠常の息子は許されて家は問題なく続いたようです。何かはあったのでしょうが記録には残されていません。問題は常長の後継に起こります。この辺の事情は何度も読み返したのですが、理解するのに往生した部分です。主要部分の系図を示します。

まずですが常長の代に上総から下総に勢力を広げ、常長は千葉太夫と呼ばれたそうです。常長の長子の常家がまず継ぎますが、継嗣がなかったために五男の常晴がこれを継ぎます。どうもこの時に、

  • 次男の常兼は下総を主に支配する・・・千葉氏
  • 五男の常晴は上総を主に支配する・・・上総氏
こういう状態になったようです。具体的には常兼が下総権介、常晴が上総権介になる感じです。本家筋としては上総が昔からの根拠地ですから上総氏が嫡流ぐらいです。ここで常晴と息子の常澄の仲は非常に悪かったとなっています。そのために千葉氏の二代目にあたる常重を養子に取って家督を譲るなんて事をやります。どうも系図上は常重が上総氏の当主に載っていないのですが、常晴は常重に相馬郡を与えていたのは事実の様です。相馬郡は良文以来の本拠地です。ここにやっと義朝が登場するのですが、相馬郡の事は後述します。

千葉氏は源平時代を常重の子である常胤で迎えますが、上総氏は大騒動になります。常晴の次代は結局のところ常澄で良さそうなのですが、常澄の次が大変で家督を継いだ常景を常茂が殺害して当主の座に就きます。常茂は平氏に頼って地位を守ろうとし、広常は源氏に近づいて対抗します。この争いは頼朝挙兵の時に影響を及ぼし、在国していた広常は頼朝に味方して富士川に臨みます。一方の常茂は京都に番に詰めており平氏方で富士川に臨みます。ここで常茂は広常に討たれて決着する事になります。


相馬御厨

相馬郡は良文が承平の乱の褒賞で与えられて以来の根拠地です。ここはまず常家が継ぎ、常晴が継いでいます。しかし常晴はこれを千葉常重に譲ってしまいます。上総氏の中心地を千葉氏の領地になってしまった訳です。常重は相馬の地をwikipediaより、

天治元年(1124年)6月、千葉常重(千葉氏の祖)は上総氏の当主である平常晴から相馬郡を譲られて、10月には相馬郡司となった。そして6年後の大治5年(1130年)6月11日、常重は自らが地主職を務める「相馬郡布施郷」(大雑把に茨城県北相馬郡)を伊勢神宮に寄進し、その下司職となる。

つまりは寄進系荘園にしたわけです。しかしその6年後にwikipediaより、

保延2年(1136年)7月15日、下総守の藤原親通千葉常重を逮捕・監禁するという事件が起きる。理由は相馬郡の公田からの官物が国庫に納入されなかったというもので、おそらくは過去に遡って数年分であったろうといわれる。藤原親通千葉常重から相馬郷・立花郷の両郷を官物に代わりに自分に進呈するという内容の新券(証文)を責め取って、私領としてしまう

税金滞納は良くないですが、本当にそうであったかどうかは置いときます。ここからが難解なのですがwikipediaより、

義朝は上総常澄の「浮言」を利用して、千葉常重から相馬郡(または郷)の圧状を責め取る。 そして、「大庭御厨の濫妨」の翌年の天養2年(1145年)3月、義朝は、その相馬郷を避状(さがりじょう)の提出するという形で伊勢内宮外宮に寄進する。

これ1143年の事になっているので義朝20歳の時の事です。非常に判りにくいのですが事実関係として、

  1. 1136年に藤原頼通が常重から新券(証文)を取り私領にする
  2. 1143年に義朝が常重から圧状を責めとり伊勢神宮に寄進
まさに「???」なんですが、この2つは同じ相馬でも別の土地と見るべきの説があります。常重は頼通からも、義朝からも相馬の地を毟り取られたぐらいでしょうか。いやはや大変です。これに対して常重の子の常胤は未納分の税金を返済し、wikipediaより、

久安2年(1146年)4月に、千葉常胤はまず下総国衙から官物未進とされた分について「上品八丈絹参拾疋、下品七拾疋、縫衣拾弐領、砂金参拾弐両、藍摺布上品参拾段、中品五拾段、上馬弐疋、鞍置駄参拾疋」を納めた。結果、「其時国司以常胤可令知行郡務」と相馬郡司職を回復。相馬郷を「且被裁免畢」で取り戻した。

これで1件落着かと言えばそうはなりません。平治の乱の後に平家時代が来ると佐竹義宗が、平家の威光の下に藤原親通から取り戻し無効化した証文を強引に有効として相馬御厨を自分の所有物として伊勢神宮に寄進します。大いに反発した千葉氏や上総氏でしたが訴訟で敗北して佐竹氏が相馬御厨全体を所有します。非常に煩雑なので表にします。

西暦 経緯
1130 常重、常晴から譲られた相馬の地を伊勢神宮に寄進
1136 受領の藤原親通が税金未納を理由に常重から相馬の地を取り上げる
1143 義朝が常重から圧状を責め取り伊勢神宮へ寄進
1146 常胤は未納分の税金を納め相馬を奪還。伊勢神宮へ寄進
1161 佐竹義宗が相馬の地を「自分の物」として伊勢神宮に寄進。千葉氏は訴訟に敗れる
関東の武士たちが土地の所有保障と公正な裁判機関を熱望していたのは良くわかります。今日は義朝なんですが、相馬御厨で一騒ぎ起こす前に大庭御厨でも騒ぎを起こしています。どうも義朝が関東で地盤を築いたとするのは、こういう行為の積み重ね部分があった可能性があります。


相馬御厨関連の解説と頼朝

相馬御厨に関して可能な限り簡単に解説し直すと、

  1. 譲られた千葉氏
  2. 奪われた上総氏
  3. 手を出してきた佐竹氏
これが基本の3勢力になるようです。義朝の介入はやはり上総氏の要望によるものと見るのが良い気がします。その頃に義朝は上総常澄のところにいたとなっているからです。いわゆる上総御曹司時代なのかもしれません。義朝はその前年に大庭御厨でも一騒ぎ起こしているので、同様の手口で介入したぐらいと思えます。この時点で相馬御厨はどうやら
  1. 1136年に藤原親通が取り上げた部分
  2. 1143年に義朝が取り上げた部分
この2つがあったように見えます。千葉常胤は藤原親通の部分を奪還した気がします。平治の乱は1160年なのですが、この時に義朝分は上総氏に渡った可能性はあると思っています。もしくは宙ぶらりんの状態です。ここに介入して来たのが佐竹氏です。佐竹義宗の寄進状には、

常澄常胤等何故可成妨哉、是背法令、大非常之上、大謀叛人前下野守義朝朝臣年来郎従等 凡不可在王土者也

どうもなんですが、2つの相馬を根こそぎ佐竹氏は持って行ったようです。これは平家時代は続いたはずですから、頼朝の挙兵の頃には、

    佐竹氏 vs 上総・千葉連合
こんな構図になっていたと考えられます。上総氏と千葉氏も因縁浅からぬところなんですが、利害関係が二転三転して「敵の敵は味方」みたいな感じでしょうか。上総氏自体も内紛中で、兄を殺して当主の地位に就いた常茂は後ろ盾に平氏を頼っています。平氏を頼ると言う事は相馬御厨の奪還をあきらめる事になり、その事への反発が広常に衆望が集まる原動力になっていた可能性はありそうです。そういうところに石橋山で敗れた頼朝がやって来た事になります。

相馬御厨の利害関係がそのまま反映されている気がします。頼朝に味方すれば佐竹氏から相馬御厨を奪還できるので千葉氏も上総氏も頼朝に加担したんじゃなかろうかです。もちろん平家系の受領が赴任して圧力を受けていたのも大きいですが、とりあえず相馬御厨がポイントであってもおかしくありません。頼朝は富士川の後に佐竹氏を攻めていますが、これは平家系の佐竹氏の脅威を取り除くのが表の目的で、裏は千葉氏・上総氏の相馬御厨奪還の要望を叶える必要があったとも見えます。

でもって両氏は義朝に果たして恩義があったかです。千葉氏には無いでしょう。上総氏だって「どうも」義朝は相馬の地を千葉氏から奪ってはいますが、それを上総氏に与えた形跡は乏しそうです。義朝も売出し中で、手にした土地は、そうは簡単に手放したとは思えません。あくまでも現時点の相馬御厨の利害を基に判断した可能性はありそうに思います。そう考えると義朝の関東での地盤ってなんなんだと思った次第です。