シノブの恋:頼朝の目論見は?

 次に会ったらどうするかも重要過ぎる問題だけど、富士川の合戦ムックも大事。頼朝がなぜに黄瀬川に出張って来たかの謎はわかんないのよね。吾妻鏡では平家迎撃のための主題で書かれてるけど、これはまず否定して良いよね。

 だってだよ、頼朝が石橋山で敗れて安房に逃げ、そこから巻き返して相模に舞い戻ってから、たったの十日しか経ってないんだよ。その十日間だって大庭氏や波多野氏へのリベンジ戦をやってた訳だし。

 仮に平家軍の来襲の情報を聞いたとしても、わざわざ隣国まで出て行って迎え撃とうとするのは無理がアリアリじゃない。それこそ箱根の険で防ごうとするはずよ。駿河まで出て行く理由として考えられるのは武田軍との連携ぐらいだし、吾妻鏡の十月十八日には、

来二十四日を以て箭合わせの期に定めらる。爰に甲斐・信乃の源氏並びに北條殿二万騎を相率い、兼日の芳約に任せ、この所に参会せらる。

 こうは書いてあるけど、これって玉葉で武田が平家に送った挑戦の使者の話からの創作の気がする。それにしても、どうして二十四日なんだろう。黄瀬川から富士川まで三十キロないじゃない。なんとなく平家物語に合わせてる気がしないでもない。

 ここも良く読めば気になるところがあって、矢合わせに参加するのは『甲斐・信乃の源氏』は武田軍で良いと思うけど、頼朝は北条時政を派遣するだけってなってる。ひょとっして時政は連絡役として武田軍に向かったとか。よくわかんないな。次のところも気になる。

次いで駿河目代と合戦の事、その伴党生虜十八人これを召覧す。

 ここも読み直してみると微妙。吾妻鏡では鉢田合戦を十月十四日にしてるけど、玉葉では、

去月十六日、着駿河国高橋宿、先是彼国目代、及有勢武勇之輩、三千余騎、寄武田城之間、皆悉被伐取了、目代以下八十余人切頸懸路頭云々

 苦手の漢文だけどなんとか読み下すと、

去る月の十六日、駿河国の高橋宿に着く。是より先、彼の国の目代、及び優有勢武勇之輩、三千余騎、武田の城に寄せる間、皆悉く伐ち取られる、目代以下八十余人、頸を切られ、路頭に懸けられる云々

 『去月』だけど玉葉に記載されたのは十一月五日だから十月を指すのよね。内容的に鉢田合戦を指すのは間違いない。吾妻鏡の

    『彼の頸を富士野傍伊提の辺に梟すと』
 ここは情報伝達速度の参考になりそう。鉢田合戦は十月十四日だから、その二日後に平家軍に敗戦の情報が伝わったと見て良さそうだもの。鉢田合戦の武田の勝利は、隠すようなものじゃなく、むしろアピールしたいぐらいのもで、そのために首をずらりと晒したはず。それでも二日なんだ。

 十月十六日は頼朝が鎌倉を出発した日だけど、高橋宿より鎌倉の方が遠いんだ。さらに鉢田合戦で負けたとはいえ駿河はその時点では平家の勢力圏。武田が早馬でも送らない限り頼朝は鉢田合戦の起ったことすら知らないはず。

 つまり頼朝は鉢田合戦の情報を知らずに動いたはず。いや知っていたら動かなかったと見た方がより正しい気がする。鉢田合戦で武田が勝てば駿河に南下してくるぐらいの判断は出来るはずだし。

 そうなると頼朝は他の情報で黄瀬川に動く判断をしたと考えるべきだよ。頼朝が手に出来そうな情報は・・・うん、やっぱり伊東祐親情報のはず。伊豆は頼朝が相模平定を進めた時点で動揺してたで良いはず。

 動揺してたから親平家の祐親が駿河に脱出を余儀なくされ、親頼朝派に捕縛されたんだよ。親頼朝派の目的は祐親を手土産に頼朝の幕下に入ることだから、祐親捕縛とその処分の問い合わせを頼朝にやったんだ。

 この時に頼朝は駿河の最新情報を入手したと考えるべきと思う。鉢田合戦は十月十四日だけど、その前に甲斐に攻め込むための軍勢の招集が行われていたはずで、その情報は伊豆なら知っていて不思議ないと思う。下手すりゃ、動員の声がかかっていたかもしれない。つまり頼朝が手にした情報は、

    『駿河の平家勢は甲斐に向かって進攻する』

 この情報で頼朝が何を考えたかだけど、駿河の平家軍は甲斐に侵入すれば、それなりの期間は甲斐に釘づけになるに違いないって。もうちょっと付け加えると甲斐に攻め込む駿河勢の主力は東駿河の豪族が主体のはずだって。その状況になって起ることは、

    『東駿河がお留守になってる』
 伊豆は伊東祐親が捕縛されてるぐらいだから、親頼朝派が優勢と判断できるから、この機会に東駿河を頼朝の版図に収めようと考えたんだと思う。


 ここで問題になるのは、いくらお留守状態でも頼朝の率いた軍勢が、どう考えても少ないこと。あの移動速度で大軍が動員できるはずないし、いくらお留守状態の東駿河でも連れて行く軍勢は多いほど仕事はラクになるはずなんだ、

 そうなると頼朝の東駿河進出には反対派が多かったと見るべきね。そりゃ、やっと相模を平定したばっかりのこの時期に駿河に手を伸ばすのは無理があるの意見があっても当然だもの、その辺が吾妻鏡の十月二十一日のところに反映されてる気がする。

小松羽林を追い攻めんが為、上洛すべきの由を士卒等に命ぜらる。而るに常胤・義澄・廣常等諫め申して云く、常陸の国佐竹の太郎義政並びに同冠者秀義等、数百の軍兵を相率いながら、未だ武衛に帰伏せず。就中、秀義が父四郎隆義、当時平家に従い在京す。その外驕者猶境内に多し。然れば先ず東夷を平らぐの後、関西に至るべしと。

 うん、反対派のメンバーが確認できる。千葉常胤、三浦義澄、上総介広常だわ。このメンバーは頼朝派の重鎮だし主力だから、反対されると厄介だよね。だからこの連中は黄瀬川に行っていない可能性が高い。

 それでも頼朝は押し切ったに違いない。おそらく頼朝計算では相模からの軍勢と伊豆の軍勢を合せれば東駿河は取れると計算したんじゃないかな。そっか、そっか、だから矢合わせの時に北条時政が御大将だったんだ。あれは伊豆勢をアテにしたものだよ。

 甲斐に攻め込んだ平家軍は後方の東駿河を取られると壊滅するだろうし、そこから武田との決戦になっても、その時には千葉常胤、三浦義澄、上総介広常らも駿河に出て来るはずぐらいじゃないかな。これが齟齬したのは、十月二十二日かもしれない。

飯田の五郎家能、平氏の家人伊藤武者次郎の首を持参す。合戦の次第並びに子息太郎討ち死にの由を申す。

 飯田家能は家義ともされるけど、石橋山の合戦では大庭景親に付いたけど、途中で裏切って頼朝に付き頼朝の命を救ったとなってる。石橋山の後は安房への同行を断られてるけど、甲斐源氏に身を寄せていたんだ思うんだ。

 飯田家能は富士川の合戦の後に武田信義でなく頼朝に手柄の報告に行ったと見て良いと思う。帰参の手土産ってところかな。さらに家能は十月二十日に黄瀬川に来たのではなく、

昨日御神拝の事に依って、故に不参の由と。

 そう十月二十一日に来たとなってる。玉葉情報では十月十九日の夜に平家は撤退してるから、十月二十日の早朝にまだ残っていた平家軍相手に飯田家能は手柄をあげ、その足で黄瀬川を目指したとすれば、十月二十一日ですらなく、十月二十日の夕には富士川の合戦の情報を頼朝は得た可能性があるじゃない。

 ビックラこいた頼朝は十月二十一日の朝に相模に向ってスタコラサッサと考えれば話の辻褄は合うよ。この仮説が成立するには、武田と頼朝との間に一切の連携がないのが前提になるんだけど、当時の頼朝と武田の関係から十月十八日に矢合わせ、鉢田合戦の褒賞云々があり得ない点からとりあえず立証としても良いと思う。