頼朝の房総戦記

安房上陸

まず地図を出します。

後で思い返したのですが、上総介広常は地図で示したよりもう少し西側の海岸線沿いの可能性の方が高そうです。地図で示した地点はむしろ兄の伊西常景の諸領の方に近くなります。ここはそれぐらいにして、石橋山で敗れた頼朝が伊豆の真鶴を出航したのが8/28、翌8/29には安房郡平北郡猟島に着いたとなっています。これは鋸南町の勝山漁港と比定されています。治承4年8月は小の月であったので翌9月1日に吾妻鏡より、

9月1日 庚戌

武衛上総の介廣常が許に渡御有るべきの由仰せ合わさる。北條殿以下、各々然るべきの由を申す。爰に安房の国の住人安西の三郎景益と云うは、御幼稚の当初、殊に昵近し奉る者なり。仍って最前に御書を遣わさる。その趣、令旨厳密の上は、在廰等を相催し参上せしむべし。また当国中京下の輩に於いては、悉く以て搦め進すべきの由なり。

安房に上陸した頼朝がまず目指そうとしたのは上総介広常のところであったと見て良さそうです。これは変でも不思議でもなく、石橋山で敗れた頼朝が上総の最有力勢力の下で再起を図ろうとしたぐらいに素直に理解できます。ただ他の将が反対したようです。理由はどこにも書いていませんが、

  1. 石橋山の敗戦後の広常の動向に不安を覚えた
  2. 広常を頼るにしても、敗走後の状態はみすぼらし過ぎ、その前に少しは勢力を集めたい
時政が発言しているのが意味深で、この状況で広常の下に駆け込んだのでは今後の主導権を奪われるぐらいの意図はあったかもしれません。そのために安西氏をまず呼び寄せる提案をします。安西氏の当主は景益なんですが、安西常遠の孫にあたります。問題は景遠で平常長の息子説が有力そうですが、三浦氏の出である説もあります。それより難解なのは
    安房の国の住人安西の三郎景益と云うは、御幼稚の当初、殊に昵近し奉る者なり
これについては頼朝と安西景益が乳兄弟であったからとされます。頼朝の乳母で有名なのは比企尼ですが、安西氏と比企氏の関係がわかりにくいところです。つうか比企氏自体が後に族滅させられたので資料が乏しいのですが、比企尼の猶子として比企氏を背負った人物に能員がいます。能員の出自については愚管抄に阿波とあるのですが、地理的に同音の安房ではないかと見る説も有力です。つまりは比企氏ももともとは安房の出であったぐらいの見方です。これ以上は吾妻鏡を信用する事にします。


安房の頼朝

吾妻鏡を読む限り頼朝の広常行きが中止になった最大の理由は9月3日であったように思われます。

今日、平北郡より廣常が居所に赴き給う。漸く昏黒に臨むの間、路次の民屋に止宿し給うの処、当国住人長狭の六郎常伴、その志平家に在るに依って、今夜この御旅館を襲わんと擬す。而るに三浦の次郎義澄国郡の案内者たり。窃かに彼が用意を聞き、遮ってこれを襲う。暫く相戦うと雖も、常伴遂に敗北すと。

9/3に頼朝は広常の下に出立したと明記されています。この時に進路に立ち塞がったのが長狭常伴です。長狭常伴はその苗字の通り長狭郡(現在の鴨川市あたり)を地盤としていたようですが、保元の乱後は平家に属していたぐらいで良いようです。勢力は大きくて平家の後ろ盾もあり安房最大とも言われていたようですが、その長狭常伴が頼朝を夜討にかけます。どこで夜討をかけたかですが、伝承では鴨川市内の一戦場(鴨川市貝渚)となっています。もしそうであるなら、平北郡猟島からは現在の県道89号線を歩いてきたぐらいが想像されます。距離にしておおよそ30kmぐらいです。

この戦いは三浦義澄の奮戦により長狭常伴を討ち取っていますが、これが9/3の夜の事で9月4日の吾妻鏡には、

9月4日 癸丑

安西の三郎景益御書を給うに依って、一族並びに在廰両三輩を相具し、御旅亭に参上す。景益申して云く、左右無く廣常が許に入御有るの條然るべからず。長狭の六郎が如きの謀者、猶衢に満たんか。先ず御使いを遣わし、御迎えの為参上すべきの由、仰せらるべしと。仍って路次より更に御駕を廻らされ、景益が宅に渡御す。和田の小太郎義盛を廣常が許に遣わさる。籐九郎盛長を以て千葉の介常胤が許に遣わす。各々参上すべきの趣と。

安西景益すが訪れた「御旅亭」とは一戦場付近、つまり鴨川市になります。そうなると9/1の会議の結論は、

  1. 頼朝は夷隅の広常のところに出発する
  2. 安西景益には追いかけてくるように指示
こうであったと考えられます。安西景益が鴨川に着いたのは長狭常伴の夜襲の翌日ですが景益は、
    左右無く廣常が許に入御有るの條然るべからず
意訳すれば「こんな貧しい供揃えで広常の許に行くのは宜しゅうない」と忠告を受けています。これも考えるところですが、長狭氏は平家の支援を受ける前は上総氏の支援を受けていたとなっています。上総氏の伊西常景が弟の印東常茂に殺された時も、常景の子の伊北常仲は長狭常伴を頼って落ち延びたとなっています。安西氏にすれば、長狭氏は上総氏支援時代も、平家時代も敵であり、上総介広常も敵の味方だから敵と言うか、油断ならないの意見を述べて気がします。

もう一つですが広常はかなり尊大な人物であったとされます。いくら義朝の子であり、石橋山で反平家の狼煙を挙げたと言っても、落武者然の状況で会えば「まともに扱ってくれない」つうか殺されてしまう懸念も安西景益は忠告したんじゃないかと思います。頼朝も、その忠告を受け入れて安西景益の根拠地である館山に向ったぐらいで良い気がします。鴨川から館山は現在の国道128号線を通ったと考えるのが妥当そうで吾妻鏡に、

9月5日 甲寅

洲崎明神に御参有り。宝前に丹祈を凝らし給う。召し遣わす所の健士、悉く帰往せしめば、功田を寄せ神威を賁り奉るべき由、御願書を奉らると。

さらに9/11に丸御厨を視察し、上総に向ったのは9/13となっています。この辺の日程を地図で記すと、

鴨川の一戦場から館山に移動したのが9/4で翌日には須崎明神を参拝、さらに7日後の9/11に丸御厨視察を行っています。吾妻鏡を読むと各地への挙兵・援軍要請を行っているのですが、どうも3つの条件を整える準備期間であったと見て良さそうです。

  1. 上総介広常及び千葉氏の抱き込み工作。とくに広常の動静を観察。
  2. 上総国府には伊藤景清の目代がいたはずであり、これの情報収集。
  3. とにもかくにも手持ちの軍勢の調達
これが館山にいた頼朝が行っていた事と想像します。


上総の頼朝

まず9/13に千葉氏が旗幟を鮮明にしたようです。

今日、千葉の介常胤子息・親類を相具し、源家に参らんと欲す。

千葉氏は下総で、

  1. 9/13下総目代襲撃
  2. 9/14藤原親政を生け捕り
下総の親平家勢力を駆逐しています。吾妻鏡には、

9月17日 丙寅

廣常の参入を待たず、下総の国に向わしめ給う。千葉の介常胤、子息太郎胤正・次郎師常(相馬と号す)・三郎胤成(武石)・四郎胤信(大須賀)・五郎胤道(国分)・六郎大夫胤頼(東)・嫡孫小太郎成胤等を相具し、下総の国府に参会す。従軍三百余騎に及ぶなり。

9/17には下総国府に頼朝は進んだとなっています。つう事は上総国府の平家勢力は戦わずに逃げ散ったぐらいで良いようです。そうでなければ房総半島の東側は広常の勢力圏がありますから通れません。つうか通っていないので広常遅参となっている訳です。もう少し考えると9/13に頼朝が館山を立ったのは上総国府の平家勢力がいなくなった情報を確認したからで良いかと思われます。頼朝が上総国府にいつ着いたか不明ですが、「廣常の参入を待たず」と言うより通り抜け状態であった可能性もあると見ています。これは吾妻鏡にある安西景益の

    左右無く廣常が許に入御有るの條然るべからず
この忠告に従っての行動の気がします。この時点で頼朝の左右は、
  • 山木館襲撃と言うか、それ以前からの援護者である北条時政
  • 畠山・河越・江戸氏に三浦半島を追い落とされた三浦氏
  • 安房の安西氏
頼朝が安房で集められた兵力は吾妻鏡でも300騎です。本来「騎」であるなら3000人ぐらいになるはずですが、おそらく300人程度であったとして良いかと思われます。これでは広常に合うには釣合が悪すぎるぐらいの見方です。広常は大軍を集めていたので遅参したのはあるでしょうが、待つだけなら上総国府でもエエわけです。それを下総国府まで突っ走ったのは千葉氏カードを左右に加えておきたかったからじゃないかと見えます。

それでもなんですが、千葉氏が率いてきた軍勢がこれまた300騎。下総国府での頼朝軍は1000人もいたんでしょうか。ここは頼朝にも誤算があって、千葉氏も合わせて1000人弱ぐらいいれば、広常が連れてくる軍勢と釣合が取れるはずだと考えていた気がします。頼朝の想像力ではせいぜい1000人って計算だった気がなんとなくしています。多くても1500人程度じゃなかろうかぐらいです。それなら苦しいながらもなんとか釣合は取れるだろうぐらいです。


広常が現れたのは吾妻鏡によると、

9月19日 戊辰

上総権の介廣常、当国周東・周西・伊南・伊北・廰南・廰北の輩等を催し具し、二万騎を率い、隅田河の辺に参上す。

周東、周西とは周准郡の東部・西部のことを指し、現在の君津市あたりになるようです。ここの領主の周東常吉、周東常泰(助忠)とも印東常茂の息子です。伊南・伊北は伊隅荘に属し、もとは伊西常景が領し、その後は変遷はありました常景の子が領していたようです。庁南・庁北が判りにくかったのですが、どうも上総国長柄郡庁南庄とか北庄を指すようです。北庄は確認できませんでしたが、郡庁の北とか南なので庁南・庁北と呼んだようです。現在の長生郡あたりの理解で良いようです。このうち庁北氏は存在が不明でしたが、庁南氏はこれまた印東常茂の息子の重常が領主であったようです。

でもって広常の2万ですが、源平闘諍録に広常が率いて来た主な武者が記録されています。

臼井四郎成常、同五郎久常、相馬九郎常清、天羽庄司秀常、金田小太郎康常、小権守常顕、匝瑳次郎助常、長南太郎重常、印東別当胤常、同四郎師常、伊北庄司常仲、同次郎常明、大夫太郎常信、同小大夫時常、佐是四郎禅師等

苗字だけで分類すると

  • 臼井・・・佐倉市臼井
  • 相馬・・・あの相馬御厨近辺? 広常の弟
  • 天羽・・・上総国天羽郡天羽庄。広常の兄
  • 金田・・・上総国長柄郡金田郷勝見(木更津市金田)。広常の弟の頼次と見られる
  • 匝瑳・・・下総匝瑳郡 広常の兄の常成の息子
  • 長南・・・印東常茂の息子
  • 伊北・・・伊西常景の息子
  • 佐是・・・上総国山辺郡佐是村。広常の兄
千葉氏が300騎、小坪合戦の時の三浦氏がやはり300騎ですから、その10倍の3000騎(≒ 3000人)ぐらいはラクに率いていた可能性はあると思えます。2万は大袈裟としても5000ぐらいはいた可能性があります。この広常の大軍勢の加勢を得て頼朝は富士川に臨む事になります。石橋山から25日目、安房上陸から19日目の事で、無残な敗将の奇跡の復活と私は素直に感じます。