嶋と鴨から針間鴨国連想

midoka1様より

はじめまして。
たった今用字「鴨」をみていて思ったのですが
用字「嶋」と対になって「上流・下流の洲」の義があったのではないですか?
そうすると「葛城」「賀茂・鴨」の変遷も理由があるのカモしれません。

興味深い指摘がありレスを考えている内に長くなったのでエントリーにさせて頂きます。もし鴨に「上流・下流の洲」の意味があるのなら古代カモ族に対して新しい見方が出来そうなのは確かです。字のパーツを見ても嶋は「甲に鳥」ですし嶋は「山に鳥」ですから可能性はありそうじゃないかと俄然興味が湧いた次第です。

まず嶋なんですが字源的には波間に浮かぶ山に鳥が集まった様子を現したものとされ、現在の「島」は「山と鳥」を垂直に合成したものとされています。正直なところ初めて知ったのですが、ひたすら「へぇ」って感心した次第なのを白状しておきます。嶋が「山に鳥」ならば鴨は

    川の中州に鳥が集まったところ
こういう原義があるかもしれないぐらいの期待が出てきます。字源的なお話の知識は薄いのですが、残念ながら違う感触を持っています。鴨の原義は鳴き声に由来するとなっています。鴨では判りにくいので鳩で説明すると、鳩は「九に鳥」です。鳩の「九」は数字の急ではなく、音の「きゅう」と取るそうです。古代中国語が「きゅう」と読んだかどうかの問題がありますが、「くぅ」に近い発音だったぐらいは言っても良さそうです。この「く」は鳩の鳴き声を現したものだそうです。

鴨も鳩と同じ手法を用いたとされ、「甲」を何と読むか(つうか鴨の鳴き声ってどんなんだっけ?)の知識が乏しいですが、鳩同様に鳴き声を文字で表したものとされています。他にも鵞も該当するそうで、「我」は「が」と読んでアヒルが「ガーガー」鳴く様子を漢字にしたとされています。たかがググった程度ですが、鴨はやはり鳥のカモ以外に用法はどうもなさそうです。

古代カモ族は神武東征の時に道案内の手柄を立てたとされています。いわゆる八咫烏神話です。平安期でも陰陽師や学者の家系に残っていたはずですが、賀茂氏はやはり「かも」の当て字以上のものはないとして良さそうです。記紀風土記の漢字表記は意味を含ませている物と単なる当て字がありますが、カモ族に対する賀茂なり鴨は当て字と私は判断します。


針間鴨国再考

問題は針間鴨国の「鴨」がカモ族と関係するかどうかです。針間鴨国の記録は乏しいのですが日本辞典

針間鴨国造とは針間鴨国(現・兵庫県加東市・小野市・加西市周辺)を支配した国造とされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると成務天皇(13代)の時代、上毛野(かみつけぬ)氏と同祖の御穂別命(みほわけのみこと)の子である市入別命(いちいりわけのみこと)を国造に定めたことに始まるとされる。針間国造とは隣接して相関関係にあることから御穂別命は御諸別命、市入別命は伊許自別命の誤記と考えられており、御諸別命は毛野氏の祖と言われている。御諸別命については豊城入彦命(豊城入日子命)の曽孫とする説や三輪君一族との濃厚な関係説、また後に両毛(上野・下野)に至り、東国第一の大族となった説等もある。御諸別命の出自は諸説あるにしろ、大和朝廷の近臣にあり、最初に大規模な東国統治に出向いた人物と見られている。

う〜ん

    上毛野氏と同祖の御穂別命の子である市入別命を国造に定めたことに始まるとされる
これじゃ何の事だかサッパリわからないのでwikipediaの上毛野氏より、

日本書紀』には、崇神天皇皇子の豊城入彦命に始まる独自の系譜伝承が記されている。その中で、中央貴族が毛野地域に派遣され、その経営に携わったと伝える。ただし、実際のところ在地豪族か中央派遣氏族かは明らかとなっていない。また同書には上毛野氏の蝦夷征伐・朝鮮交渉従事の伝承があり、対外関係に携わった氏族であることも示唆される。

皇別氏族の可能性もあると言うものの実質的には土着豪族と見なしても良い気がします。ただ上毛だけに留まっていたわけでなく、中央にも勢力を持っていた「らしい」ぐらいは言えます。ここで、なんとなくですが中央の豪族が出自であり、上毛にも開拓団を送り、その開拓団が上毛野氏として一番の成功を収め本家筋になったんじゃないかの感触を持っていますが、これ以上は良くわかりません。対外関係に関わったとあるので渡来人系の可能性もありそうです。まあ古代的に上毛の在地豪族が中央に進出するのは簡単じゃないだろうぐらいです。

先代旧事の記録を信じれば針間国及び針間鴨国に上毛野氏の一族が開拓のために派遣されたぐらいに読めます。どっちが本家筋か良くわかりませんが、地形的には

  1. まず加古川中・上流の針間鴨国を開拓した
  2. そこから針間国に進んだ
もちろん加古川中・上流の針間鴨国と針間国に同時派遣の可能性もあります。ここも微妙で国造の派遣は
  1. 開拓団の派遣の意味
  2. 開拓が進んだところの中央支配の意味
これがどっちなんだろうってところです。どっちもあった気はしていますが、鴨をカモ族と解釈するとカモ族が開発した国を上毛野氏が支配した事になります。でもってカモ族と上毛野氏の関係は・・・薄そうな気がするのですがこれ以上は正直なところ良くわからないところです。


針間鴨国再考・カモとカコ

古代針間鴨国の中心がどこだったかなんてどこにも書いてありません。加古川の中・上流域にあったらしいところから、西脇か小野ぐらいを地形的には考えます。こういう時には史跡の存在が参考になるのですが、小野市に広渡廃寺があります。小野市HPより、

7世紀後半頃に建立された古代寺院跡で、東西両塔、金堂、講堂などが確認され、奈良の薬師寺と同じ伽藍配置であったことが明らかとなっています。

7世紀後半とと言えば天武天皇から持統天皇の時代ぐらいを思い浮かべれば良いのでしょうか。復元伽藍模型もあり、

かなり立派な寺院であったようです。小野市にはもう一つ浄土寺があります。wikipediaより、

重源は大仏再興事業の拠点として、伊賀(三重県)、周防(山口県)など日本の7か所に東大寺の「別所」を造った。七別所のうちの「播磨別所」がこの浄土寺である。浄土寺の所在地は当時の地名を播磨国大部荘(おおべのしょう)といい、東大寺領であった。

東大寺領であったためともされていますが、資金集めに有用と判断したので浄土寺を建立したとも解釈可能です。では神社はどうかと言えば佐保神社が候補に上がります。佐保神社HP(たぶん)より、

その創立は荷すっと遙かに遠い昔の事になります。かく当社の御事歴は頗る古い爲に勧請の年代についても、古來伝説が二三になつてはゐますが、要するに當社は垂仁天皇23年4月(紀元654年今より1930余年以前)の創建で、はじめは賀茂群鎌倉峯(今の加西郡多賀野村河内の奥にある普光寺山一名鎌倉山)に御鎭座せられてゐましたが、元正天皇の養老6年3月(紀元1382年今より1200余年以前)に針間鴨國(今の加東加西多可三郡に当る)の國造の苗裔で、涌羅野原の耆宿たる阿部野三良太夫といふ老翁に御神託があつて、現在の社地へ御遷座遊ばされたのだといひます。

由緒は神話時代に軽く入りますが、伝承では針間鴨国の国造の末裔が遷座に関与したとなっています。小野から社ぐらいが中心だったのかもしれません。針間鴨国の中心地の特定は難しいとして、注目したいのは佐保神社の所在地です。

延喜式で確認すると

賀古郡,一座。【小。】

 日岡坐天伊佐佐比古神社

延喜式も諸本があるのかもしれませんが、私が確認すると「賀古郡」となっています。どうも賀古郡と賀茂郡の表記が混在している様に見えます。


播磨風土記

播磨風土記は賀古郡なんですが、賀古郡の謂れとして、

望覧四方云此土原野甚広大。而見此丘如鹿児。故名曰賀古郡

土地が広々して鹿の子模様に見えたから賀古郡と名付けたとしています。次の個所が長いので手打ちするのが難儀で手抜きして伝承地に見る息長氏より、

この逸話とは『大帯日子命が摂津、播磨のあたりに狩りに出たとき、美しい女性と出会い一目惚れし、妻問い(求婚)をするために『三種の神器』を身にまとって正装し、播磨国賀毛郡の山直らの始祖、息長命(亦名は伊志治いしぢ)を仲人にたて都を旅立ち播磨に向かう道中、摂津の高瀬の川の渡し場で渡し守の小玉に船を出すように命じると、「私は天皇の召使ではない」 と言われ断られてしまいます。「そこをなんとかお頼みします」 と景行天皇は下手に出て、渡し賃として豪華な髪飾りを小玉に与えました。すると、小玉は納得し、景行天皇一行はやっとのことで川を渡ることができます。

ポイントは播磨風土記からにしますが、

賀毛郡山直等始祖息長命

ここの解釈は

  1. 播磨国の賀毛郡に山直がいる
  2. 山直の始祖は息長命である
こう解釈するようです。そうであるなら針間鴨国に入植したのは息長氏の一族である山直(やまのあたえ)の一族になり、住居地を賀毛郡としていた事になります。大帯日子命とは景行天皇(大和武尊の父親)になりますが、この時代には賀毛(かも)と呼んでいた可能性が出て来ます。「かも」の呼び名は佐保神社の由来に残るぐらい広まっていたようですが、風土記編纂に当たり「かこ」に変更したのかもしれません。息長氏は前にやったので簡便にしますが、渡来系氏族で近江の長浜あたりに本拠地があり、神功皇后の実家であり、允恭天皇の皇后の息長大中姫が有名です。

息長氏についてはこれぐらいにして、ここはもう想像の世界になるのですが、播磨風土記には

狩乃時、一鹿走登於此丘鳴其声比々故号日岡

ここに出て来る日岡は現在もありますが、現在の加古川市になり加古川下流部にあたるので、播磨風土記の「望覧四方云此土原野甚広大。而見此丘如鹿児」とは加古川下流部地域を指していたんじゃないかと思います。でもってその辺を「かこ」と呼んでいたぐらいです。一方の「かも」は中・上流部を指していたぐらいです。風土記が編纂された時代には下流部の「かこ」が拡大して中・上流部の「かも」を飲み込むような形に至っていた可能性はありそうに思います。


伝承の細い糸をつないでみる

播磨風土記には景行天皇と印南野嬢(播磨稲日大郎姫)のラブロマンスが記録されています。これはヤマト王権の勢力範囲が明石国から加古川下流部に広がった話としても良い気がします。一方でそれ以前から加古川中・下流部には息長氏の一族が入植しており、加古川下流域まで勢力を伸ばしていたぐらいを想像します。加古川下流域は景行天皇の時代に明石国に編入され「かこ」と呼ばれる一方で、中・上流部は息長氏の一族の国で「かも」が成立していましたが、これが景行の子である成務の時代になるとヤマト王権の支配力がさらに高まり上毛野氏の国造が任命されたぐらいに話はつながります。

ここでなんですが針間鴨国は本来は「かも国」であったと考え始めています。古代カモ氏は他にもカモ国を成立させており、これと区別するために「ハリマのカモ国」の意味で針間鴨国と記載された可能性です。ただなんですが、カモ氏の国かと言えば疑問は残ります。肝腎のカモ氏の伝承に乏しい点です。息長氏とカモ氏は別系統としか思えないからです。そうなると「かも」の由来はカモ氏でなく地名にあった可能性は出てくる気がしています。たとえば加古川下流部を「かこ」と呼び中・上流部を「かも」と呼んでいたぐらいのところです。

頑張ってムックしてみましたが、この辺が限界の様です。小野市に鴨池という池があり、こことの関連性を考えたりしましたが、残念がら鴨池にまつわる古伝承は見つかりませんでした。果たして息長氏の一族とされる山氏とカモ氏は関係があったのでしょうか。そこまではムックの手が及ばなかったのは遺憾とさせて頂きます。