摩耶山とマヤカンをちょっと

廃墟愛好家の方が調べつくしている観がありましたので最大の摩耶遺跡である摩耶観光ホテル(マヤカン)に触れるのは意識的に避けていました。ほいでも摩耶山について語るのなら避けきれないので、

    観光摩耶
について少しだけムックします。


江戸期にも観光旅行的なものはありました。摂津名所図会もそのために書かれたとしてよく、摩耶山

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ちゃんと紹介されています。江戸期の物見遊山も名所旧跡巡りは現代同様に定番であったとしてよく、摩耶山天上寺も名所の一つに余裕で数え上げられています。それと名所巡りに寺社参詣が加わると、信仰心と御利益も期待できたわけで、あんな山の上にも熱心に登っていたのは間違いなさそうです。つうか、その方が「ありがたい」ぐらいでしょうか。これは勝手な推測にはなりますが、摩耶山の麓には門前町がそれなりにあったんだろうと思っています。昔の人は現代人より健脚とはいえ、たとえば大坂あたりからでも日帰りはさすがに無理だったと思います。日帰りが無理なら宿泊が必要になり、宿泊が必要となれば宿屋も含めた門前町が必然的に発生するだろうぐらいです。

摩耶山天上寺参詣は江戸期から盛んだったようですが、これは明治期に入ってヒートアップしたようです。1905年に阪神電鉄が大阪出入橋−三宮、1919年に阪急神戸線が梅田−上筒井に開通すると集客のために沿線の観光地開発及び既存の観光地のPRに努めたとされます。電車を使えば日帰り参詣も十分可能になり、摩耶山人気はさらに高まったようです。これも推測ですが大坂から電車で日帰りが可能になった時点で摩耶山麓の門前町は衰退して滅んだのかもしれません。戦災、さらには震災のせいもあるでしょうが、現在では門前町の名残りをいくら歩いても見つけることは困難になっています。

この摩耶山人気の次のステップとして摩耶登山のネックを解消するように動いたのは史実して良いかと思います。この動きは非常に早くて、1922年に阪神の子会社として摩耶鋼索鉄道株式会社が設立され、1924年1月6日には今に続く摩耶ケーブルが開通しています。阪神が三宮まで開通して17年後の事になります。ケーブル敷設は大成功をおさめたようで、開通初年度の乗客数は55万人にのぼったとなっています。

摩耶ケーブルの成功は摩耶山を名所巡り・寺社参詣だけから摩耶山観光に転向させたとなっています。そりゃ登山時代はどうしたって登れる人の層が限定されてしまいますが、ケーブルとなれば老若何女誰でも摩耶山に登れるようになるからです。それとケーブルで短時間で登れるようになれば、天上寺参詣にプラスアルファを加えようと阪神は企画したようです。せっかく55万人も摩耶山に登って来るのですから、天上寺参詣だけで終らせず、他の遊興施設も充実させて客にカネを落としてもらおうぐらいでしょうか。そういう事業はケーブル会社とは別建てにした摩耶山株式会社によって行われたとされ、

  • 食堂建設
  • 遊戯具設置
  • 動物小屋
  • ベビーゴルフ場
  • 桜の植樹
  • 夏季テント村
これらを摩耶ケーブル摩耶駅(現虹の駅)周辺に次々と設置されていったぐらいで良さそうです。摩耶山観光開発は阪神だけでなく、他の業者も参入していたと見て良さそうで、たとえば前回取り上げた摩耶花壇も1926年に洋風三階建て堂々たるレストラン・ホテルを開業させています。当時はそれぐらい摩耶山観光の期待度が高かったんだと思います。


マヤカン開業まで

摩耶山観光の中心となったのは摩耶山株式会社なのですが、当初から目的として、

    療養所ホテル食堂および浴場娯楽場経営
こう記載されていたと記録に残っています。ちょっと余談ですが、摩耶花壇が療養所として運営されていた時期があったとなっていますが、ヒョットして当時は「療養所 = 病院」ではなかったのかもしれない気がしています。どちらかというと湯治場みたいな感覚で、長期滞在の施設のことも含んでいた気がしてきています。それはともかく阪神摩耶山を日帰り観光の場所から、宿泊観光の場所への発展計画をもっていたぐらいには受け取れます。夏季テント村なんて事業もその一環であったと見れるからです。

それと山の中腹に本格的なホテルを建設するとなると莫大な費用が必要になるのですが、これに阪神が踏み切ったのは案外ですが先行していた摩耶花壇の成功を見たからではないかとも想像しています。摩耶花壇の成功から十分な潜在重要があると判断したので、摩耶花壇以上の本格的な大ホテルを阪神の面子にかけても作ったぐらいの想像です。マヤカンは1929年5月15日に起工、同年の11月6日に完成、11月17日に営業開始となっています。1929年11月17日付神戸新聞には

  • 豫ねて建築中だった摩耶山上のマヤホテルはこの程竣工17日から開業した
  • 鉄筋コンクリートの四層楼にして総建坪650坪
  • アールヌーボー風の洋風ホテルは神戸っ子の話題をさらった

しっかし5月15日起工で、11月6日竣工ですから半年ほどでマヤカンは出来上がっていたのには驚きました。神戸新聞記者もお披露目には招待されたんでしょうねぇ。実はマヤカンの開業日には異説があり1930年説、1932年説もあります。ここら辺もよくわからないところですが、開業当初のマヤカンはケーブル摩耶駅から東側の急斜面を降りて3階の出入り口に至っていたようです。これでは不便なので1930年4月にケーブル摩耶駅からホテルの4階部分に渡り廊下を設置したとなっています。この渡り廊下の完成で竣工・開業としたのがどうやら1930年説で、京阪神新建築集に「昭和5年2月末竣工」となっているのが1932年説のようです。

どういうこっちゃですが、当時の関係者もいなくなったので不明なんですが、個人的には工事期間の異様な短さがヒントの気がします。1929年の時点で営業は開始したが建物はすべては完成していなかったじゃなかろうかです。最低限の営業が可能になったのが1929年で、そこからフル開業に至ったのが1932年ぐらいの見方です。つうのも開業当初のマヤカンの構成ですが、

  • 1階和室・2階洋室の客室で全部で13部屋
  • 3階は大食堂・娯楽場・浴場
  • 4階は400人収容のホール(摩耶山会堂)
このうち1929年の時点で出来上がっていたのは3階部分だけじゃなかったろうかです。4階部分は1930年に渡り廊下の完成時、客室部分は1932年ぐらいの見方です。もう少し言い方を変えると客室の無いホテルは変ですから、ホテルととしての機能が備わった時点で初めてホテルとして認められたぐらいです。この辺の傍証ですが、戦前のマヤカンの呼び名として
    摩耶ホテル、摩耶山温泉ホテル、摩耶倶楽部・・・
いくつかあり、どれが正式名であったか曖昧だそうです。これは最終的にホテルにするつもりであったんでしょうが、順次営業部分を拡大した関係で、当初はホテル抜きの名称も使われた時期があったんじゃなかろうかと見ています。ここで完成当時のマヤカンを摩耶観光ホテルについて11(資料8)から見てみます。

全体は南向きのコの字型ですが、どうも西側が長く、東側が短くなっている気がします。それと3階まではコの字型がそのまま積みあがっていますが、4階部分はコの字の両翼以外の部分だけのようで、ここが摩耶山会堂であったようです。入り口は3階部分となっていますが、写真を見る限りケーブル駅からホテルの東側に回り込んで入るスタイルであったように思われます。それにしてもこんな建物が突如として摩耶山に出現したら、さぞ話題になった事だと思います。もうひとつ渡り廊下が出来たマヤカンの写真も紹介しておきます。

結構立派な渡り廊下であったのがわかります。もう一つ渡り廊下の写真です。

この角度から見ると渡り廊下はケーブル駅から屋根付きで延々と続いていることがわかります。


マヤカンの栄光と大戦

摩耶ケーブルは初年度(1924)に55万人の乗客数を記録していますが、その後は漸減傾向をたどりマヤカンが開業した1929年度には40万人を割っていたようです。ところが1930年度には60万人を超える記録が残されています。これには同年に行われた海軍特別観艦式の影響の指摘もありますが、観艦式っていうても何か月も続いていたわけじゃないでしょうから、マヤカンの集客力が大きかったと見たいところです。このマヤカンの栄光時代がいつまで続いたかですが、やはり大戦前までで良いようです。いやそれ以前の日中戦争時代から影を差し始めていたとも考えられますが、とにかく資料がありません。

辛うじて拾ったものに1943年のケーブルの乗客数は20万人を切り、さらに1944年にはレールや車両が金属供出のために撤去されてしまいます。ケーブルがあってこその摩耶山観光ですから、ケーブルがなくなれば山上の施設の営業は困難になります。つうかそれ以前にホテルや食堂としての食糧が確保できたかも疑問が出てくる時期です。当然1944年には営業停止になったと思いたいところですが、六甲摩耶鉄道の社史には、

兼業の土地家屋及び温泉業は時局国策に副うように営業継続

となっています。この辺が戦時中のマヤカンを考える上のカギの気がしています。というのも1943年に軍用自動車道(現奥摩耶ドライブウェイ)が完成し、掬星台に高射砲陣地が設置されたとなっています。その高射砲部隊の将校宿舎になっていたんじゃなかろうかの推測があります。軍の将校宿舎なら食糧の配給も受けやすいでしょうから「国策」に副って軍隊向けの営業をやっていたぐらいです。そこまで頑張って営業していたマヤカンですが、終戦後は1946年に進駐軍の将校クラブに利用するという話が持ち上がり、ホテルの修復とケーブルの復旧作業が実際に着手されていたそうです。しかしこの計画も中止となり、ケーブルのないマヤカンは閉鎖に追い込まれます。具体的にいつ閉鎖になったかははっきりしないようです。


奥摩耶開発

摩耶山観光が復活し始めたのは1952年頃からだとなっており、神戸市は軍用道路であった奥摩耶ドライブウェイと高射砲陣地があった掬星台を買収し整備事業を開始したとなっています。整備は速やかに進められたようで1953年にはバス運行も開始され、1955年には掬星台周辺は奥摩耶遊園地になり、ホテル奥摩耶荘、ユースホステル、バンガロー村などの宿泊施設を整備されていっています。神戸市主導の奥摩耶開発は成功し1955年頃には、ウィークデイでも1500人、休日には6000人もが押し寄せる状況になったとされます。ありし日の奥摩耶遊園の案内図です。

一方で戦前からのルートである摩耶ケーブルは奥摩耶遊園完成と合わせたのか1955年再開しています。再開したケーブルも賑わいをみせ55万人を記録していますが、戦前とは違い摩耶山観光のメインは奥摩耶に移ったとしてよさそうです。ケーブル復活とともに新設されたロープーウェイですが当時のケーブルの定員が75人、ロープーウェイの定員が25人で、乗換時に長い待ち時間が発生したとなっています。これは見ようですがケーブルで登ってきた乗客の目的地は戦前からの摩耶山中腹ではなく、戦後に新たに開発された奥摩耶になっていたと読み取れます。ケーブル摩耶駅周辺は奥摩耶観光のための通過点に成り下がり、周辺設備の復旧も行われていますが、寂れていったようです。


マヤカン復活と再びの閉鎖

復活当初は戦前にも匹敵する乗客を集めたケーブルでしたが、乗客数は年を追うごとに大きく減少していったようです。これに対しケーブル側はマヤカン復活を考えてはいたようです。しかし自力再建のためには莫大な資金が必要であり、1960年9月1日に民間業者に売却され、民間業者によってマヤカンが復活します。この復活はかなり本格的であったようで、4階建てを5階建てにし、内装はフランスの豪華客船のイル・ド・フランスのものを利用したとなっています。1961年に改装工事は終了し摩耶観光ホテルとしてついに再開します。

マヤカン効果ですが開業により1961年度は前年度の42万人から52万人に大幅増加、1962年にも54万人を記録しています。このまま順調に進めばあんな廃墟にならなかったかもしれませんが、マヤカンにまたもや悲劇が訪れます。1967年の台風被害を受けます。実はこの辺がはっきりしない部分なんですが、1967年の台風被害で閉鎖になった説もありますが、一方で閉鎖は1971年であったという説もあります。それとマヤカン自体の集客力も衰えをみせていたようで、マヤカン復活によって増加していた乗客数は1965年頃から減少し始め、1971年には30万人を割り込むほどになっています。

摩耶山観光衰退の決定打になったのは1976年の天上寺火災です。この火災により天上寺は摩耶別山に移転してしまい、参詣客も皆無になります。天上寺火災後には細々ながら生き残っていたケーブル摩耶駅周辺の商店や遊戯施設は撤退・撤去を余儀なくされて今に至るでしょうか。それだけでなく奥摩耶もまた観光客減少から同時期に遊戯施設等は次々に撤去閉鎖されます。奥摩耶開発は戦前からの摩耶中腹の観光地を衰退させ、奥摩耶に勝利をもたらしましたが、今度は凌雲台周辺との競争に敗れたってところでしょうか。


マヤカンの晩期

マヤカンの歴史は謎というか曖昧な部分が多いのですが、戦後に民間業者に売却され復活を果たしたものの1970年頃にはホテルとしては閉鎖になった「だろう」ぐらいは言えます。ではそのままそこから廃墟に一直線だったかいうとそうではなく、

    摩耶学生センター
と名乗っての営業が細々と続けられていたとなっています。この摩耶学生センターについての情報も錯綜しているのですが、
  1. 1970年から管理人として58歳の男性とその妻が住み込むようになった
  2. この管理人は元段ボール職人であった
  3. 1974年から学生のゼミ、サークル等に限って施設の一部を開放した(1972年に既に始まっていたとの説もあり)
既にホテルとしての機能は失われていますので、自炊なのはもちろんですが、宿泊も残された客室等を適当に利用していたか、ホールに雑魚寝状態だったかもしれないとなっています。これが1993年まで続いていたとなっています。学生の合宿所として使われていたのは使用した学生側の記録にも残っているのですが、ごくごく素直な疑問があります。とりあえず電気・水道・ガスはどうなっていたのであろうです。学生の宿泊もそうですが、管理人が住み続けるためにはライフラインがないと相当不便です。この管理人はホテル業者から依頼されたとなっていますが、電気・ガス・水道代はホテル業者が支払っていたのかなぁ。

それと管理人の話が本当なら、摩耶観光ホテルが閉鎖されたのは1970年であったのかもしれません。まあ、閉鎖された時点ではまだ再生の意図がホテル業者にあったからこそ管理人を置いたと考えるのが妥当だからです。もう少し考えると1967年の台風被害の後は実質閉鎖状態で、当初はホテル業者の社員が管理人として置かれていたのが経費節約のために元段ボール職人に委託したぐらいのストーリーは思い浮かぶところです。学生センターとして活用され出したのは、学生側が閉鎖されてもまだ使えることに目を付けて最初は管理人に直接交渉して始まったぐらいじゃないかとも想像しています。

管理人が1974年から学生センターとして使用されていると話したのと、1972年に学生側の使用記録が残る相違点は、1972年の時点では特例的な使用であったのが、その後に使用希望者が増えたので少しでもゼニが入るのなら体制を整えて受け入れれる判断をしたからぐらいに考えています。それが1974年からだったぐらいです。

1993年に閉鎖になったのは管理人の高齢化のためが通説です。この頃には管理人は80歳ぐらいになっていたはずで、そりゃ無理だろうと思います。後継の管理人を置かなかったのは希望者が現れなかったか、あえて管理人を置くことを中止したかのどちらかですが、個人的には後者だと思っています。学生センターの経営実績なんてどこにも転がっていませんが、よくてトントン、たぶん赤字と思いますし、20年間のうちにさらに荒廃は確実に進んでいたでしょうから、管理人の引退を機に完全閉鎖に踏み切っても経営判断として不思議ありません。まあ後継者を置いたところで1995年には阪神大震災が襲いかかります。この震災でもケーブルは大きな被害を受け、ケーブル事業の存廃が議論になったと記憶しています。

建物は神戸市に無償譲渡されたとなっていますが、神戸市にしても再生する余力はどこになく、力尽きるようにマヤカンは永久に閉鎖され、現在の廃墟と至ったぐらいでしょうか。摩耶学生センター時代の写真を摩耶観光ホテルについて36(資料33)より、

これが1977年の画像とされていますが、戦後の再開時に増築されたされる5階部分の形状が確認できます。造りからして4階の摩耶山会堂を取り壊して4階と5階を積み上げたように見えます。それと渡り廊下はこの時点でなくなっているようですが、この増築部分は以後に取り壊されたとなっています。なぜにの理由が不明なんですが、増築部分の造りがチャチだったのか、他の理由かは不明ですが、マヤカンはこの後も1993年まで摩耶学生センターとして営業していたわけであり、ホテル業者も取り壊しの費用をかける判断をしたことだけはわかります。

ここら辺も謎の部分で、構造上の問題にしろ、安全上の問題にしろ増築部分を撤去するだけで大変な工事が必要になります。つうのは摩耶山中腹には現在ですら自動車道は通じていません。壊せば廃材が生じるわけで、それを運び出すルートから考える必要が出てきます。そういう時にケーブルカーを利用できたかどうかは不明ですが、ケーブル会社はエエ顔しないでしょうねぇ。工事についての記録は残っていないようですが1985年公開の映画のロケに使われ、その時には増築部分はすでに撤去されていたとなっていますから、1977年から1985年の間に撤去工事が行われた事だけは確認出来そうです。

つうことで現存するマヤカンは創建当初の3階部分までとなるはずです。(そうとも見えにくいほど現在の荒廃は進んでいる気がします)


年表

字で並べるとわかりにくいので年表にまとめてみます。

西暦 摩耶中腹 マヤカン 奥摩耶 ケーブル客数
1905 阪神開通
1919 阪急開通
1924 摩耶ケーブル開通、観光施設が順次整備される この頃より掬星台がガイドブックに記載 55万人
1926 摩耶花壇開業
1929 開業 40万人弱
1930 60万人超
1943 軍用の宿泊施設として運用か 奥摩耶への軍用道路が開通、掬星台が高射砲陣地になる 20万人弱
1944 摩耶ケーブル金属供出により撤去 終戦とともに閉鎖らしい
1945 進駐軍の将校クラブ計画があったが頓座
1952 掬星台・軍用道路を神戸市が買収。観光地として整備
1953 バス路線が掬星台に
1955 ケーブル復活、ロープーウェイ設置 55万人
1960 42万人
1961 復活営業再開 52万人
1962 54万人
1967 台風被害、閉鎖状態になっていたかも
1970 管理人夫妻が住み着く
1971 30万人弱
1972 学生センターの試行?
1974 摩耶学生センターとして運用
1976 天上寺火災 この頃より遊戯施設を次々と撤去
1993 摩耶学生センター閉鎖、神戸市に無償譲渡
2001 摩耶ビューライン再開
なんとか見やすくしようと思いましたが、この程度が精一杯でした。奥摩耶観光は1955年(昭和30年)に華々しくスタートし1976年(昭和51年)の天上寺火災で滅んだぐらいの理解で良いかと思いますが、私の世代なら昭和40年代に訪れた可能性はあるはずです。ここで非常に残念なのは私の記憶にはまったく残っていないことです。行ったのを忘れたのか、それとも連れて行ってもらえなかったのかは・・・これまた不明です。


廃墟としてのマヤカン

ここまでのお話は金子直樹氏の2005年5月25日付

ここからの情報を基に書いていたと白状しておきます。この金子氏は摩耶山観光の興亡を丹念に取り上げられており、さすがに論文ですから事実関係をしっかり押さえておられます。私もこれを読んで戦前から続く摩耶山観光開発の経緯の全体像がなんとなくつかめたような気がします。こういう仕事は本当にありがたいところです。マヤカンは廃墟でもメジャーな方ですから丹念に調べられているサイトは少なくないのですが、どうしてもマヤカン情報に重きを置かれますから、摩耶山観光を俯瞰できるのは称賛できます。

金子氏はマヤカンの今後について廃墟遺跡としての活用を結論としてもっていきたかったように読めます。金子氏は「おわりに」にこう書かれています。

廃墟を廃墟として、あるいは文字通り現代遺跡として残すことで、その新たな役割を付与できるとも考えられる。

この方向については神戸市も考慮しているようで旧天上寺跡から摩耶ケーブル虹の駅周辺を摩耶遺跡として整備する方向性が出ています。

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前回紹介した摩耶花壇の「整備」もその一環と見ています。ではそういう整備が観光事業としてどうかを少し考えてみます。マヤカンも摩耶遺跡の一つとして取り上げられていますが、実際に行ってみると非常に見づらい状況になっていました。まず現時点で一番近い虹の駅の展望台からのマヤカンです。

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展望台の前の樹木が生い茂りつつあって、辛うじて屋上部分が見えたぐらいです。この虹の駅からマヤカンへは通路があったのですが、現在は閉鎖されていますから前景を見るのは通常は不可能になっています。もう一つ写真を上げます。

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これは山寺尾根から撮影したものですが、2ヶ所ほどこのアングルでマヤカンを臨めるスポットがありました。ただし山寺尾根からの登山は摩耶登山ルートでもマイナーな方で、なおかつかなり「キツイ」。マヤカンの廃墟見物に手軽に登れるとは言いにくいと思います。それより何よりマヤカンの見どころ(かな?)の正面から見ることが非常に難しくなっています。話によれば麓からマヤカンに通じるルートがあるそうですが、ドがつくマイナールートで、下手すりゃ遭難しかねないないなんて説もどこかで読みました。通る人が少なくなれば道は消えますからねぇ。

金子氏が論文を書かれたのが2005年ですからあれから10年以上経ってマヤカン見物を巡る環境はかなり変わったとして良さそうです。つまりはマヤカン目当てに摩耶ケーブルを利用しても、せいぜい廃墟の屋上を見れるぐらいになります。なにか批判的に書いていますが、月日が経てばマヤカンの廃墟化は進むわけで、興味本位に近づくと危ないのは理解できます。これを近くで見物できる廃墟にするにはそれなりの整備費用が必要なわけで、それだけのコストをかけてもペイするかどうかの問題が出てきます。それと摩耶ケーブルの年間乗客数は現在で年間20万人ぐらいで赤字経営で神戸市が赤字分を負担しています。目標としては黒字化でしょうが、黒字になるほどの乗客数の増加となると・・・やっぱり年間30万人以上は必要な気がします。

そうなると今ぐらいの小手先整備が目一杯かと思う次第です。


今の摩耶山観光雑感

摩耶山は年に1回ぐらいは登っています。摩耶山はハイキング・コースとして人気は高く、休日ともなればかなりの数のハイカーでにぎわいます。ハイキング自体は流行り廃りが少ない趣味と思っていますが、近年では「山ガール」とかの言葉もあって少し増えている気もしています。摩耶ケーブルの利用も面白くて、麓から虹の駅まではケーブル利用で上がってきて、そこから旧天上寺を抜けて掬星台を目指すハイカーも少なからずおられます。まあ登るのに体力を使い果たして帰りはロープーウェイからケーブルって方もおられます。決して楽な山じゃないですからねぇ。

先ほど現在の摩耶ケーブル利用者が20万人程度としましたが、ケーブル利用者以外にもハイカーが結構な数で掬星台に登ってくるはずです。そりゃ往時に較べれば少ないでしょうが、それだけの人数がいれば「それなり」にお茶屋系・売店系があっても良さそうなものです。それでも掬星台には私の知る限り、自販機のほかにはケーブル駅2階にある食堂と、休日だけだと思いますが軽自動車のホットドック(だったっけ、たこ焼きだったけ)ぐらいしか存在しません。

なぜだろうと思っているのですが、摩耶山観光の主体がハイカーになっているぐらいを考えています。ハイカーが山に登る理由は「頂上」にいきたいであり、ハイカーの楽しみは頂上で昼食を食べることです。えらく単純化していますが、私はそんな感じです。この楽しみの方の昼食を食べるですが、それこそ麓から担いで登ってきます。発想として頂上の食堂とかを利用する気がかなり薄いというのがあります。飲料水もそうで当然必要分を持参します。この辺は登山中にトラブルが生じた時の最低限の非常食の意味も少しはあります。つまりはハイカーは登ってきても山頂でほとんどカネを落とさないってところです。

そういうハイカーにとって摩耶遺跡の存在はどうなんだと問われれば、案外魅力的なものです。ハイカーも多様ですから一概にはもちろん言えませんが、見どころがある山はやはり楽しいってところです。廃墟でも十分楽しめるのがハイカーだと思っています。でも楽しんでもカネを落とさないのもハイカーってところです。そんな今の摩耶山観光の状態がどうかといわれれば、これでエエんじゃないかと思っています。どう頑張ってもかつての賑わいは戻らないわけで、また変に観光地化してしまえばハイカーは摩耶山を敬遠するんじゃないかと思っています。ケーブル事業がどうなるかは不透明な部分はありますが、ハイカーにとっては掬星台が整備されていれば満足しますからねぇ。

摩耶山観光の盛衰を見てきましたが、いずれにしても今となれば摩耶山に往時にあれだけの観光客が押し寄せた理由を見つけるのが難しくなっている気がします。